AIを悪用したゼロデイ攻撃とAI-DRによる防御の最前線

ここ数年、サイバー攻撃の様相は大きく変化しています。その背景にあるのが AIの悪用 です。これまで攻撃者が手作業で時間をかけて行っていた脆弱性探索や攻撃コード生成、標的の選定といった作業は、AIの登場によって一気に効率化されました。とりわけ、公開されていない未知の脆弱性を突く ゼロデイ攻撃 にAIが活用されるケースが増えており、防御側にとって従来以上に難しい状況が生まれています。

従来のセキュリティ製品は「既知のシグネチャ」や「過去の攻撃パターン」に依存してきました。しかしゼロデイ攻撃は定義上、まだ知られていない脆弱性を狙うため、シグネチャベースの防御が機能しません。AIが関与することで、攻撃コードの作成スピードは劇的に向上し、被害が発生するまでの時間はさらに短縮されつつあります。

このような環境下で、防御側もAIを取り入れた新しい枠組みを整備しなければ、攻撃のスピードに追いつけません。そこで登場したのが AI-DR(AI Detection & Response) です。これはAIを利用して攻撃の兆候を早期に捉え、迅速に封じ込めを図るための仕組みであり、未知の攻撃やゼロデイに対抗するための有力なアプローチとして注目されています。

AI-DRとは何か

AI-DRは、AIを用いて「脅威の検知(Detection)」と「対応(Response)」を自動または半自動で行う仕組みを指します。従来のセキュリティ対策は、既知の攻撃パターンをもとに検知する「受動的な守り」に依存していました。しかし、ゼロデイ攻撃のように前例がなくパターン化されていない脅威に対しては、既存の仕組みでは対応が困難です。AI-DRはこの課題を補うために生まれた考え方であり、「未知の脅威をリアルタイムで見つけ出し、即座に封じ込める」ことを狙いとしています。

AI-DRの特徴は、攻撃の痕跡ではなく振る舞いそのものを監視する点 にあります。例えばユーザの通常行動と大きく異なるアクセスパターン、システム内で急激に増加する異常プロセス、通常では通信しない先への接続などをAIモデルが学習し、異常と判断すれば即座にアラートや隔離処理が実行されます。これは、未知のゼロデイ攻撃であっても「結果として現れる不自然な挙動」を基準に検知できる点で強力です。

さらにAI-DRは、単に脅威を検知するだけでなく、レスポンスの自動化 を重視しています。従来は人間の判断を待たなければならなかった対応(端末の隔離、アカウントの停止、アクセス権限の剥奪など)が、自動またはセミオートで実行され、被害の拡大を防ぐことができます。

主な機能

  • 異常検知:ユーザ行動やプロセスの動きを学習し、通常と異なる挙動を検出
  • 自動応答:検知した端末の隔離、アカウント停止、ログ収集などを自動実行
  • 脅威インテリジェンス統合:外部の攻撃情報を取り込み、モデルを継続的に更新
  • 可視化と説明性:なぜ異常と判断したのかを提示し、運用者が対応を判断できるよう支援

このようにAI-DRは、ゼロデイ攻撃を含む未知の脅威に対抗するための「次世代型セキュリティアプローチ」として注目されています。

具体的な製品例

AI-DRの考え方はすでに複数の製品に取り入れられており、市場には実際に利用可能なサービスが登場しています。以下では代表的な例を挙げ、それぞれの特徴を解説します。

  • HiddenLayer AI Detection & Response ジェネレーティブAIやエージェントAIを利用する企業向けに特化した防御製品です。LLMを狙ったプロンプトインジェクション、機密データの漏洩、モデル盗用、特権昇格といった新しい攻撃ベクトルに対応しています。AIアプリケーションを安全に運用することを重視しており、従来のセキュリティ製品ではカバーできなかった領域を補完します。生成AIを業務に組み込んでいる企業にとっては特に有効です。
  • Vectra AI Platform ネットワークとクラウド環境を横断的に監視し、攻撃の進行をリアルタイムで可視化します。既知のマルウェアや脆弱性を狙う攻撃だけでなく、ゼロデイを利用した横展開(ラテラルムーブメント)や権限濫用を検知するのが強みです。大規模なクラウド利用環境やハイブリッドネットワークを持つ企業での導入事例が多く、SOCチームのアラート疲労を軽減する仕組みも提供します。
  • CrowdStrike Falcon エンドポイント保護(EPP)とEDRの統合製品として広く普及しており、AIを活用して異常な挙動を早期に検知します。シグネチャに依存せず、未知のプロセスや不自然な権限昇格を検知できるため、ゼロデイ攻撃の挙動を捕捉する可能性があります。中小規模の組織から大企業まで幅広く利用され、クラウド経由で即時にアップデートされる点も強みです。
  • Trend Vision One(トレンドマイクロ) 既知・未知の攻撃に備えるための統合プラットフォームです。エンドポイント、メール、クラウド、ネットワークなど複数のレイヤーを一元的に監視し、攻撃の進行を早期に可視化します。特に日本国内では導入実績が多く、ゼロデイ対策に加えて標的型攻撃やランサムウェアの初動段階を封じ込める仕組みを持ちます。
  • Secureworks Taegis XDR 「Extended Detection & Response」として、複数のセキュリティ製品から収集したログを統合的に分析し、脅威を浮き彫りにします。AIによる相関分析を活用し、単発では見逃されがちな攻撃の兆候を組み合わせて検知できる点が特徴です。特に自社にSOCを持たない組織でも、クラウド型で利用できるため導入のハードルが低いのが利点です。

製品群の共通点

これらの製品はいずれも「シグネチャに依存せず、振る舞いや異常パターンに注目する」点で共通しています。さらに、自動応答やインシデントの可視化といった機能を備えており、従来のセキュリティ運用を効率化するとともにゼロデイ攻撃への耐性を高めています。

攻撃は一歩先を行く現実

AI-DRのような新しい防御技術が登場している一方で、攻撃者の進化もまた加速しています。特に注目すべきは、攻撃者がAIを積極的に利用し始めている点です。

従来、ゼロデイ攻撃には脆弱性の解析やエクスプロイトコードの作成といった高度な専門知識が必要であり、時間も労力もかかりました。しかし現在では、AIツールを活用することでこれらのプロセスが自動化され、短時間で多数の脆弱性を検証・悪用できるようになっています。例えば、セキュリティ研究者向けに提供されたAIフレームワークが、脆弱性探索から攻撃実行までをほぼ自律的に行えることが確認されており、本来の用途を逸脱して攻撃者に悪用されるリスクが現実化しています。

また、攻撃のスケーラビリティが格段に向上している点も大きな脅威です。かつては一度に限られた数の標的しか攻撃できませんでしたが、AIを使えば膨大な対象に同時並行で攻撃を仕掛けることが可能になります。脆弱性スキャン、パスワードリスト攻撃、フィッシングメール生成などが自動化されることで、攻撃の規模と頻度は防御側の想定を超えるスピードで拡大しています。

防御側が後手に回りやすい理由は、次の3点に集約できます。

  • 情報公開の遅れ:ゼロデイはパッチが提供されるまで防御手段が限られる。
  • 人間の判断の必要性:AI-DR製品が自動応答を備えていても、誤検知を避けるため人の承認を前提にしているケースが多い。
  • リソース不足:特に中小企業では高度なSOCや専門人材を持てず、攻撃スピードに対応できない。

結果として、「製品は存在するが攻撃の方が一歩先を行く」という状況が続いています。つまり、防御側がAIを導入して強化しても、攻撃者もまた同じAIを利用して優位を保とうとしている構図です。

現在とれる現実的な対策

ゼロデイ攻撃を完全に防ぐことは不可能に近いですが、「いかに早く気付き、被害を最小化するか」 という観点で現実的な対策を取ることは可能です。攻撃の自動化・高速化に対応するため、防御側も多層的な仕組みと運用を組み合わせる必要があります。

1. 技術的対策

  • 多層防御(Defense in Depth)の徹底 単一のセキュリティ製品に依存せず、EPP(エンドポイント保護)、EDR/XDR(検知と対応)、WAF(Webアプリケーション防御)、ネットワーク監視を組み合わせて防御網を構築します。
  • 異常挙動ベースの検知強化 シグネチャに頼らず、AIや行動分析を活用して「いつもと違う動き」を見つけ出す。ゼロデイの多くは未知の挙動を伴うため、これが突破口になります。
  • 仮想パッチとIPSの活用 パッチ提供までの時間差を埋めるため、IPS(侵入防御システム)やWAFで疑わしい通信を遮断し、ゼロデイ攻撃の直接的な侵入を防ぎます。
  • SBOM(ソフトウェア部品表)の管理 利用中のソフトウェアやOSSライブラリを把握しておくことで、脆弱性が公開された際に即座に影響範囲を確認できます。

2. 運用的対策

  • インシデント対応計画(IRP)の整備 感染が疑われた際に「隔離→調査→復旧→報告」の流れを事前に定義し、机上演習や模擬訓練を実施。緊急時の混乱を防ぎます。
  • 自動応答ルールの導入 例:異常検知時に端末を自動隔離、アカウントを一時停止。誤検知のリスクを減らすために「半自動(承認後実行)」の運用も有効です。
  • パッチ適用ポリシーの厳格化 ゼロデイの多くは短期間で「ワンデイ(既知の脆弱性)」に移行するため、公開後のパッチ適用をどれだけ迅速にできるかが鍵です。

3. 組織的対策

  • 脅威インテリジェンスの活用 JPCERT/CC、US-CERT、ベンダーの提供する脅威情報を購読し、最新の攻撃動向を把握して早期対処につなげる。
  • SOC/MSSの利用 自社に専門チームを持てない場合、外部のセキュリティ監視サービス(MSSP)を利用して24/7の監視体制を整備します。
  • 人材教育と意識向上 社員向けフィッシング訓練やセキュリティ教育を継続的に行うことで、ヒューマンエラーを減らし、AIを悪用した攻撃の初動を防ぐことができます。

4. システム設計面の工夫

  • ゼロトラストアーキテクチャの導入 ネットワークを信頼せず、アクセスごとに検証する仕組みを整えることで、侵入を前提にした被害局所化が可能になります。
  • マイクロセグメンテーション ネットワーク内を細かく分割し、攻撃者が横展開できないように制御します。
  • セキュア開発ライフサイクル(SDL)の徹底 開発段階からコードレビューや静的解析を組み込み、潜在的な脆弱性を減らすことが長期的な防御に直結します。

中小企業における最低限の対策

IT投資に大きな予算を割けない中小企業であっても、ゼロデイ攻撃やAIを悪用した攻撃に備えることは可能です。重要なのは「高額な先端製品を導入すること」よりも、基本を徹底して攻撃者にとって狙いにくい環境を整えること です。以下に最低限取り組むべき施策を挙げます。

1. 基盤のセキュリティ衛生管理

  • OS・ソフトウェアの即時更新 WindowsやmacOS、Linuxなどの基本OSだけでなく、ブラウザや業務ソフトも含めて常に最新版に維持します。ゼロデイが公開された後は数日のうちに「既知の脆弱性」となり、攻撃が集中するため、更新のスピードが最大の防御策になります。
  • 不要なサービス・アカウントの停止 使われていないアカウントや古いソフトは攻撃の温床となるため、定期的に棚卸して削除します。

2. アクセス制御の強化

  • 多要素認証(MFA)の導入 特にメール、クラウドサービス、VPNへのアクセスには必須。コストは低く、乗っ取り攻撃の大部分を防げます。
  • 最小権限の原則(Least Privilege) 社員が必要最小限の権限しか持たないように設定し、管理者権限を常用させない。

3. データ保護

  • 定期的なバックアップ(オフライン含む) クラウドバックアップに加え、USBやNASに暗号化したバックアップを取り、ネットワークから切り離して保管します。ランサムウェア対策として不可欠です。
  • 復旧手順の確認 バックアップを取るだけでなく、実際に復旧できるかを年に数回テストしておくことが重要です。

4. クラウドと標準機能の最大活用

  • クラウドサービスのセキュリティ機能を利用 Microsoft 365 や Google Workspace には標準でメールフィルタやマルウェア対策が備わっています。外部製品を買わなくても、これらを正しく設定すれば十分な防御効果があります。
  • ログとアラートの有効化 無料または低コストで提供されているログ機能を有効化し、不審な挙動を確認できる体制を整えます。

5. エンドポイント対策

  • 基本的なエンドポイント保護ソフトの導入 Windows Defenderのような標準機能でも無効化せず活用することが重要です。追加予算がある場合は、中小企業向けの軽量EDR製品を検討しても良いでしょう。

6. 社員教育と簡易ルール作成

  • フィッシング対策教育 メールの添付ファイルやリンクを不用意に開かないよう定期的に啓発。AIで生成された巧妙なフィッシングも増えているため、特に注意が必要です。
  • インシデント対応ルール 「怪しい挙動に気付いたらLANケーブルを抜く」「管理者にすぐ連絡する」といったシンプルな行動指針を全員に共有しておくことが被害拡大防止につながります。

まとめ

中小企業にとっての現実的な防御は、「高価なAI-DR製品の導入」ではなく「基本の徹底+クラウド活用+最低限のエンドポイント対策」 です。これだけでも攻撃の大半を防ぎ、ゼロデイ攻撃を受けた場合でも被害を局所化できます。

おわりに

AIの進化は、防御者と同じだけ攻撃者にも力を与えています。特にゼロデイ攻撃の分野では、AIを活用することで攻撃準備の時間が大幅に短縮され、従来では限られた高度な攻撃者だけが可能だった手法が、より多くの攻撃者の手に届くようになりました。これにより、企業規模や業種を問わず、あらゆる組織や個人が標的になり得る時代が到来しています。

防御側もAI-DRといった新しい技術を取り入れ、検知と対応のスピードを高めていく必要があります。しかし、それと同時に忘れてはならないのは、セキュリティの基本を徹底すること です。システムを常に最新に保つ、多要素認証を導入する、バックアップを備える、といった取り組みはどの規模の組織にとっても現実的かつ有効な防御策です。

AIが攻撃を容易にする現状において重要なのは、「自分たちは狙われない」という思い込みを捨てることです。むしろ、誰もが標的になり得るという前提で日々のセキュリティ運用を行う姿勢 が求められます。AIがもたらす利便性と同じくらい、そのリスクを理解し、備えを怠らないことが今後のサイバー防御における鍵となるでしょう。

参考文献

AIとサイバー攻撃 ― 道具は道具でしかないという現実

AIの進化は、日々の暮らしから産業、そして国家の安全保障に至るまで、あらゆる領域に影響を及ぼしています。生成AIの登場によって、これまで専門家にしか扱えなかった作業が一般の人々にも手の届くものとなり、効率や創造性は飛躍的に向上しました。しかしその裏側では、AIの力が「悪用」された場合のリスクが急速に拡大しています。

従来、サイバー攻撃の世界では、マルウェアやエクスプロイトコードを作成するために高度な知識と経験が必要でした。逆アセンブルや脆弱性解析といった作業は一部のエキスパートだけが担っていたのです。しかし現在では、AIに数行の指示を与えるだけで、悪意あるスクリプトや攻撃手法を自動生成できるようになっています。これは「専門知識の民主化」とも言えますが、同時に「攻撃の大衆化」につながる深刻な問題です。

最近の「HexStrike-AI」によるゼロデイ脆弱性の自動悪用や、過去にダークウェブで取引された「WormGPT」「FraudGPT」の存在は、AIが攻撃側に強力な武器を与えてしまう現実を如実に示しています。AIは本来、防御や検証、効率化のための技術であるにもかかわらず、使い手次第で攻撃の矛先となりうるのです。こうした事例は、AIを「私たちを助ける武器にも私たちを傷つける凶器にもなり得る中立的な道具」として捉える必要性を、改めて私たちに突きつけています。

HexStrike-AIの衝撃

HexStrike-AIは、本来はセキュリティのレッドチーム活動や脆弱性検証を支援する目的で開発されたAIツールでした。しかし公開直後から攻撃者の手に渡り、数々のゼロデイ脆弱性を悪用するための自動化ツールとして利用されるようになりました。特にCitrix NetScaler ADCやGateway製品の脆弱性(CVE-2025-7775、-7776、-8424など)が標的となり、公開からわずか数時間で実際の攻撃が観測されています。

従来のサイバー攻撃では、脆弱性の発見から実際のエクスプロイト開発、そして攻撃キャンペーンに至るまでには一定の時間が必要でした。防御側にとっては、その間にパッチを適用したり、検知ルールを整備したりする余地がありました。ところが、HexStrike-AIの登場によって状況は一変しました。脆弱性情報が公開されるとほぼ同時に、AIが攻撃手法を生成し、数分〜数十分の間に世界中で自動化された攻撃が開始されるようになったのです。

さらに深刻なのは、このツールが単に脆弱性を突くだけでなく、侵入後に自動的にWebshellを設置し、持続的なアクセスを確保してしまう点です。攻撃は単発的ではなく、継続的にシステム内部に居座る形で行われるため、被害の長期化や情報流出リスクが高まります。AIが複数のツールを統合し、まるで「指揮官」のように攻撃プロセスを統制する構造が、従来の攻撃ツールとの決定的な違いです。

防御側にとっては、これまで以上に迅速なパッチ適用や侵入兆候の検知、そしてAIによる攻撃を前提とした防御の自動化が求められる状況となっています。もはや人間の手作業による防御では時間的に追いつかず、セキュリティ運用そのものをAIで強化しなければならない時代が到来したことを、HexStrike-AIは強烈に示したと言えるでしょう。

AIによる攻撃自動化の広がり

HexStrike-AIは氷山の一角にすぎません。AIを用いた攻撃自動化の動きはすでに複数の事例で確認されており、その広がりは年々加速しています。

まず注目すべきは WormGPTFraudGPT と呼ばれる闇市場向けAIです。これらはChatGPTのような対話インターフェースを持ちながら、あえて安全装置を外して設計されており、通常なら拒否されるようなフィッシングメールやマルウェアコードの生成を簡単に行えます。これにより、サイバー攻撃の経験がない人物でも、数行の指示を与えるだけで本格的な詐欺メールや攻撃スクリプトを入手できるようになりました。つまり、AIは攻撃の「参入障壁」を取り払い、攻撃者人口そのものを増加させる方向に作用しているのです。

さらに、悪意あるファインチューニングも大きな脅威です。大規模言語モデルにダークウェブから収集した不正なデータを学習させることで、ゼロデイエクスプロイトやマルウェア断片を即座に生成する「攻撃特化型AI」が登場しています。こうした手法は、オープンソースモデルの普及により誰でも実行可能になりつつあり、攻撃能力の拡散スピードは従来の想定を超えています。

また、正規の開発支援ツールである GitHub Copilot や他のコード補完AIも悪用される可能性があります。例えば「特定の脆弱性を含むコード」を意図的に生成させ、それを攻撃用に改変する手法が研究や実証実験で示されており、開発ツールと攻撃ツールの境界があいまいになりつつあります。

このように、AIは「攻撃の効率化」だけでなく「攻撃の大衆化」と「攻撃の多様化」を同時に進めています。攻撃者の知識不足や開発コストがもはや制約にならず、AIが提供する無数の選択肢から最適な攻撃パターンを自動で導き出す時代に突入しているのです。結果として、防御側はこれまで以上に迅速で高度な対策を求められ、静的なルールやブラックリストだけでは追いつけなくなっています。

道具としてのAI

AIを巡る議論でしばしば出てくるのが、「AIは善にも悪にもなり得る」という視点です。これは、古来から存在するあらゆる「道具」や「武器」に共通する特性でもあります。包丁は家庭で料理を支える必需品ですが、使い方次第では凶器となります。自動車は移動を便利にする一方で、過失や故意によって重大事故を引き起こす可能性を持っています。火薬は鉱山開発や花火に用いられる一方で、戦争やテロに利用されてきました。AIもまた、この「中立的な力」を体現する存在です。

HexStrike-AIのような事例は、この現実を鮮明に映し出しています。本来、防御のためのシミュレーションやセキュリティ検証を支援する目的で作られた技術が、攻撃者に渡った瞬間に「脅威の拡張装置」と化す。これは道具や武器の歴史そのものと同じ構図であり、人間の意図がAIを通じて強大化しているに過ぎません。AIは「自ら悪意を持つ」わけではなく、あくまで利用者の手によって結果が決まるのです。

しかし、AIを単なる道具や武器と同列に語るだけでは不十分です。AIは自己学習や自動化の機能を持ち、複雑な攻撃シナリオを人間よりも高速に組み立てられるという点で、従来の「道具」以上の拡張性を備えています。人間が一人で実行できる攻撃には限界がありますが、AIは膨大なパターンを同時並行で試し続けることができるのです。この性質により、AIは単なる「刃物」や「火薬」よりもはるかに広範で予測困難なリスクを抱えています。

結局のところ、AIは人間の意志を増幅する存在であり、それ以上でもそれ以下でもありません。社会がこの「増幅効果」をどう制御するかが問われており、AIを善用するのか、それとも悪用の拡大を許すのか、その分岐点に私たちは立たされています。

安全装置の必要性

武器に安全装置が不可欠であるように、AIにも適切な制御やガードレールが求められます。AI自体は中立的な存在ですが、悪用を完全に防ぐことは不可能です。そのため、「被害を最小化する仕組みをどう設けるか」 が防御側に突きつけられた課題となります。

まず、モデル提供者の責任が重要です。大手のAIプラットフォームは、攻撃コードやマルウェアを直接生成させないためのプロンプトフィルタリングや、出力のサニタイズを実装しています。しかし、HexStrike-AIのように独自に構築されたモデルや、オープンソースモデルを悪用したファインチューニングでは、こうした制御が外されやすいのが現実です。したがって、検知メカニズムや不正利用を早期に察知するモニタリング体制も不可欠です。

次に、利用者側の備えです。企業や組織は、AIによる攻撃を前提としたインシデント対応能力を強化する必要があります。具体的には、脆弱性パッチの即時適用、ゼロトラストモデルに基づくアクセス制御、Webshellなど不正な持続化手法の検知強化などが挙げられます。また、AIが攻撃を自動化するなら、防御もAIによるリアルタイム監視・自動遮断へと移行していかざるを得ません。人間のオペレーターだけに依存したセキュリティ運用では、もはや速度の面で追いつけないのです。

さらに、社会的な枠組みも必要です。法規制や国際的なルール整備によって、AIの不正利用を抑止し、違反者に対して制裁を課す仕組みを整えることが重要です。これに加えて、教育や啓発活動を通じて、開発者や利用者が「AIは無制限に使える便利ツールではない」という認識を共有することも求められます。

結局のところ、安全装置は「万能の防御壁」ではなく、「暴発を減らす仕組み」に過ぎません。しかしそれでも、何もない状態よりは確実にリスクを抑えられます。HexStrike-AIの事例は、AIに対しても物理的な武器と同じく安全装置が必要であることを強く示しています。そして今後は、技術的対策・組織的対応・社会的ルールの三層で、複合的な防御を構築していくことが避けられないでしょう。

おわりに

AIは、料理に使う包丁や建築に使うハンマーと同じように、本質的にはただの道具です。道具はそれ自体が善悪を持つわけではなく、利用者の意図によって役立つ存在にも、危険な存在にもなります。HexStrike-AIやWormGPTの事例は、AIが人間の意志を増幅する中立的な存在であることを鮮明に示しました。問題は「AIが危険かどうか」ではなく、「AIという道具をどのように扱うか」にあるのです。

その一方で、包丁に鞘や取扱説明書があるように、AIにも安全装置や利用規範が必要です。悪用を完全に防ぐことはできませんが、ガードレールを設けることで暴走や誤用を最小化することは可能です。開発者は責任ある設計を行い、利用者はリスクを理解したうえで使い、社会全体としては法的・倫理的な枠組みを整備していく。この三層の仕組みがあって初めて、AIは「人類に役立つ道具」として機能するでしょう。

今回の事例は、AIがすでに攻撃にも防御にも使われる段階にあることを改めて示しました。今後は、防御側もAIを積極的に取り込み、攻撃のスピードに追随できるよう体制を整えていく必要があります。AIを「恐れるべき脅威」として一方的に排除するのではなく、「中立的な道具」として受け入れつつ、適切な安全策を講じることこそが求められています。

AIは、私たちの社会において新たに登場した強力な道具です。その行方は私たち次第であり、活かすも危うくするも人間の選択にかかっています。

参考文献

npm史上最大規模となる自己増殖型ワーム「Shai-Hulud」によるサプライチェーン攻撃

はじめに

2025年9月15日、JavaScript の主要パッケージエコシステムである npm において、これまでにない深刻なサプライチェーン攻撃が発覚しました。攻撃に使われたマルウェアは「Shai-Hulud」と名付けられており、その特徴は単なるパッケージ改ざんにとどまらず、自己伝播(ワーム)機能を備えている点にあります。これにより、感染したパッケージを利用した開発環境や CI/CD 環境から認証情報を奪い取り、さらに別のパッケージを自動的に改ざんして公開するという、従来の攻撃よりもはるかに広範な拡散が可能となりました。

被害は短期間で拡大し、確認されただけでも 200件近い npm パッケージが改ざんされており、その中には広く利用される有名ライブラリや大手企業関連のパッケージも含まれていました。OSS エコシステムは世界中の開発者や企業が依存する基盤であり、サプライチェーン攻撃は一部のパッケージ利用者だけでなく、そこからさらに派生する数多くのソフトウェアやサービスへ影響を与える可能性があります。

今回の Shai-Hulud 攻撃は、サイバー攻撃者がいかに OSS エコシステムを効率的な攻撃対象と見なしているかを改めて示すものであり、npm を利用するすべての開発者・組織にとって重大な警鐘となっています。本記事では、攻撃の概要や技術的な特徴を整理するとともに、想定されるリスクと具体的な対応方法について解説します。

背景

近年、ソフトウェアサプライチェーン攻撃は頻度と巧妙性を増しています。オープンソースパッケージは多くのプロジェクトで基盤的に利用されており,単一の改ざんが間接的に多数のシステムへ波及するリスクを常に伴います。特に JavaScript/npm エコシステムでは依存関係の深さと枝分かれが大きく,一つの小さなユーティリティが数千の最終アプリケーションに取り込まれることが珍しくありません。結果として,攻撃者は影響範囲を指数的に拡大できる利点を得ます。

npm は公開・配布のプロセスを自動化するためにトークンや CI ワークフローに依存していますが,これらは適切に管理されないと大きな攻撃面となります。長期有効の publish トークン,権限が過大な CI ランナー,組織共有の認証情報は侵害時に「自動で書き換える」「自動で公開する」といった自己伝播的な悪用を可能にします。加えて,postinstall 等の実行時フックはビルドや開発環境で任意コードを実行するため,ここに悪意あるコードが紛れ込むと検出が遅れやすい設計上の脆弱性があります。

運用面でも課題があります。開発者は多数の依存を素早く取り込みたいため,package-lock による固定や署名付き配布を怠りがちです。企業では利便性のためにトークンを共有したり,CI 用イメージやランナーを長期間使い回したりする運用が残存します。これらの実務的な慣行は,攻撃者にとって短時間で大規模な被害を生む温床となります。

過去のサプライチェーン攻撃の教訓から,検出と封じ込めには「開発環境・CI・レジストリ」の三点同時対応が必要であることが分かっています。Shai-Hulud のように自己伝播性を持つ攻撃は,これら三領域のいずれか一つでも緩みがあると急速に広がります。したがって,本件は単なるパッケージ単位の問題ではなく,組織の開発・配布プロセス全体を見直す契機として位置づけるべき事象です。

攻撃の技術的特徴

初期侵入

攻撃者は npm の publish トークンや GitHub の Personal Access Token(PAT)などの認証情報を取得して改ざんに利用しました。トークン取得経路としてはフィッシングや公開設定ミス、漏洩した CI 設定などが想定されます。これらのトークンはパッケージ公開権限を直接与えるため,侵害されると改ざんが短時間で実行され得ます。

改ざん手法

改ざん版には postinstall フックやバンドル化された実行スクリプト(例:bundle.js)が組み込まれます。npm install 時に自動実行されるため,開発者や CI が気づきにくく,ビルド段階でコードが動作する設計上の盲点を突きます。

情報収集と流出

実行スクリプトはローカル環境(環境変数、.npmrc 等)とクラウド環境(IMDS 等のメタデータエンドポイント)を探索して認証情報を収集します。収集したデータは攻撃者管理下の GitHub リポジトリやハードコードされた webhook にコミット/POST される仕組みが確認されています。

自己伝播(ワーム化)

感染した環境に残る有効トークンを悪用し,攻撃者は他パッケージを自動で改ざん・公開します。依存関係を介して連鎖的に拡散する点が本件の特徴です。短命で終わらない仕組みになっているため封じ込めが難しくなります。

持続化と権限操作

攻撃スクリプトは GitHub Actions ワークフローを追加したり,リポジトリを private→public に変更するなどして持続化と露出拡大を図ります。これにより単発検出後も再侵害や情報漏えいが継続するリスクが残ります。

検出困難性と難読化

実行コードはバンドル・難読化され,ファイル名やワークフロー名を変えることで痕跡を隠します。postinstall の存在自体が通常の開発フローの一部であるため,単純な目視だけでは発見されにくい設計です。

想定される影響と懸念

1. 認証情報・機密情報の流出と二次被害

改ざんされたパッケージの postinstall や実行スクリプトが開発端末・CI・クラウドのメタデータからトークンやキーを収集し外部に送信します。流出した認証情報は即時に不正利用され、以下の二次被害を引き起こす可能性があります。

  • リポジトリの不正操作(コミット、ワークフロー変更、公開設定切替)によるさらなる改ざん。
  • クラウド資源の不正利用(インスタンス起動、ストレージ操作、データベースアクセス)。
  • サードパーティサービスの乗っ取り(npm、CIサービス、サードパーティAPI)。

2. 依存関係を介した連鎖的な感染拡大

npm の依存グラフは深く広いため、ワーム的に拡散すると多数のプロジェクトに連鎖的影響が及びます。特に共有ライブラリやユーティリティが汚染されると、最終的な配布物や商用サービスにもマルウェアが混入するリスクが高まります。結果として被害の「範囲」と「追跡可能性」が急速に拡大し、封じ込めコストが指数的に増加します。

3. ビルド・デプロイチェーンの汚染と運用停止リスク

CI/CD パイプラインやビルドアーティファクトにマルウェアが混入すると、デプロイ先環境まで影響が及びます。企業は安全確認のためにビルド/デプロイを一時停止せざるを得なくなり、サービス停止やリリース遅延、ビジネス機会の損失につながります。

4. 検出困難性と長期的残存リスク

postinstall 実行や難読化されたスクリプトは発見が遅れやすく、感染が既に広がった後で検出されるケースが多くなります。さらに、改ざんコードが複数ファイルやワークフローに分散して保存されると、完全除去が難しく「再発」や「潜伏」が残るリスクがあります。

5. 信頼性・ブランド・法務的影響

顧客やパートナーに供給するソフトウェアにマルウェアが混入した場合、信頼失墜や契約違反、損害賠償請求につながる可能性があります。規制業界(金融・医療など)では報告義務や罰則が発生する場合があり、法務・コンプライアンス対応の負荷が増します。

6. インシデント対応コストと人的負荷

影響範囲の特定、シークレットのローテーション、CI の再構築、監査ログ解析、顧客対応など、対応工数とコストは大きくなります。特に短時間で多数のチーム・プロジェクトにまたがる場合、人的リソースの逼迫と対応優先順位の決定が課題となります。

7. 長期的なサプライチェーン健全性の劣化

繰り返しの改ざん事件は OSS 利用に対する過度な懸念を生み、外部ライブラリの採用抑制や自家製化(in-house)への回帰を促す可能性があります。これにより開発効率が低下しエコシステム全体の健全性に悪影響が及ぶ恐れがあります。

8. 観測・検出のギャップによる見落とし

短時間に大量の npm publish やワークフロー変更が行われた場合でも、既存の監視ルールでは閾値を超えるまで気付かない運用が珍しくありません。ログ保持期間やログの粒度が不十分だと、フォレンジック調査の精度が低下します。

マルウェアのチェック方法


セキュリティ専門企業のAikido Securityから対策パッケージが提供されています。

特徴

  • npmやyarnなどのパッケージマネージャのコマンドをラップし、パッケージインストール前にマルウェアチェックを実施します。
  • チェックはAikido Intelというオープンソースの脅威インテリジェンスに照らし合わせて検証します。
  • デフォルトではマルウェアが検出されるとインストールをブロックしてコマンドを終了します。これはユーザーに許可を求めるモードにも設定変更可能です。
  • 対応シェルは、Bash、Zsh、Fish、PowerShell、PowerShell Core
  • Node.js 18以上に対応してます。

といった特徴を持っています。

使い方

npmコマンドを使ってAikido Security Chainパッケージをインストールします。

$ npm install -g @aikidosec/safe-chain

added 110 packages in 6s

29 packages are looking for funding
  run `npm fund` for details

次に以下のコマンドを実行してシェル統合を設定します。

$ safe-chain setup
Setting up shell aliases. This will wrap safe-chain around npm, npx, and yarn commands.

Detected 3 supported shell(s): Zsh, Bash, Fish.
- Zsh: Setup successful
- Bash: Setup successful
- Fish: Setup successful

Please restart your terminal to apply the changes.

使用できるようにするにはターミナルを再起動してください。exec $SHELL -lでも動作しました。

インストールができたかどうかは以下のコマンドで確認します。インストールしようとしているパッケージはマルウェアとしてフラグされている無害なパッケージでシェル統合が成功しコマンドが正常にラップされている場合はブロックが成功します。

$ npm install safe-chain-test
✖ Malicious changes detected:
 - safe-chain-test@0.0.1-security

Exiting without installing malicious packages.

成功すればマルウェアのチェックが有効になっています。このチェックはパッケージのインストール時に行われるため、すでにプロジェクトがある場合は、一旦node_modulesを削除してからnpm installしてください。

$ rm -rf node_modules
$ npm install
✔ No malicious packages detected.
npm warn deprecated source-map@0.8.0-beta.0: The work that was done in this beta branch won't be included in future versions

added 312 packages, and audited 313 packages in 2s

73 packages are looking for funding
  run `npm fund` for details

1 low severity vulnerability

To address all issues, run:
  npm audit fix

Run `npm audit` for details.

これは私が開発中のライブラリで試した結果です。基本的に外部ライブラリに依存していないので、マルウェアは検出されませんでした。

一部開発用パッケージやMCP関連パッケージも標的になっていたので、グローバルインストールされているパッケージについても確認してください。グローバルパッケージの場合は対象パッケージを再度インストールすることでチェックができます。

アンインストール

アンインストールする場合は、

safe-chain teardown

でエイリアスを除去し、

npm uninstall -g @aikidosec/safe-chain

でパッケージをアンイストールし、ターミナルを再起動してください。

CI/CDへの組み込み方法

CI/CDへの組み込み方法についてもガイドされています。

マルウェアを検知するためにディスクをスキャンするため、多くのパッケージに依存している場合はCIにかかる時間の増大やコスト増大を招く場合があります。影響を考慮して導入の可否を判断してください。

GitHub Actionsでの組み込み方法について見ていきます。

私が実際に使っている.github/workflows/ci.yamlは以下のようになっています。

name: CI

on:
  push:
    branches: [main]
  pull_request:
    branches: [main]

jobs:
  test:
    runs-on: ubuntu-latest

    strategy:
      matrix:
        node-version: [18.x, 20.x]

    steps:
      - uses: actions/checkout@v4

      - name: Use Node.js ${{ matrix.node-version }}
        uses: actions/setup-node@v4
        with:
          node-version: ${{ matrix.node-version }}
          cache: "npm"

      - run: npm install -g @aikidosec/safe-chain
 
      - run: npm install
      - run: npm run lint
      - run: npm run build --if-present
      - run: npm test

npm installを行う前にパッケージをインストールします。

      - run: npm install -g @aikidosec/safe-chain

      - run: npm install

次にnpm installのコマンドをaikido-npmに差し替えます。

      - run: aikido-npm install

これらの修正を行なった.github/workflows/ci.yamlは以下のようになります。

name: CI

on:
  push:
    branches: [main]
  pull_request:
    branches: [main]

jobs:
  test:
    runs-on: ubuntu-latest

    strategy:
      matrix:
        node-version: [18.x, 20.x]

    steps:
      - uses: actions/checkout@v4

      - name: Use Node.js ${{ matrix.node-version }}
        uses: actions/setup-node@v4
        with:
          node-version: ${{ matrix.node-version }}
          cache: "npm"

      - run: npm install -g @aikidosec/safe-chain

      - run: aikido-npm install
      - run: npm run lint
      - run: npm run build --if-present
      - run: npm test

以下はGitHub Actionsの実行結果の抜粋です。マルウェアのチェックが成功していることが確認できます。

Run aikido-npm install
Scanning 312 package(s)...
No malicious packages detected.
npm warn EBADENGINE Unsupported engine {
npm warn EBADENGINE   package: '@isaacs/balanced-match@4.0.1',
npm warn EBADENGINE   required: { node: '20 || >=22' },
npm warn EBADENGINE   current: { node: 'v18.20.8', npm: '10.8.2' }
npm warn EBADENGINE }

CI/CDへの組み込みも比較的簡単に実施可能です。

まとめ

今回の Shai-Hulud 攻撃は、npm エコシステムにおけるサプライチェーンの脆弱性を突いた、これまでにない規模と性質を持つ事例でした。単なるパッケージ改ざんにとどまらず、インストール時に自動実行されるスクリプトを利用して認証情報を盗み取り、その情報を活用して別のパッケージを改ざんするという「自己伝播」の性質を持つ点が特に深刻です。これにより、短期間で数百件規模のパッケージが感染する事態となり、ソフトウェアサプライチェーン全体の信頼性に大きな影響を与えました。

本記事では、攻撃の仕組みと影響だけでなく、実際に開発者や企業が取るべき対応についても整理しました。具体的には、感染パッケージの特定と除去、シークレットの全面ローテーション、CI/CD 環境のクリーン再構築、リポジトリやログの監査といった即時対応が必須です。さらに、長期的には権限の最小化や ephemeral runner の利用、SBOM の生成とソフトウェアコンポーネント解析、そして Aikido Safe Chain のようなマルウェア検証ツールの活用など、セキュリティを日常の開発プロセスに組み込む工夫が欠かせません。

特に、CI/CD への統合は鍵となります。開発者が手動で確認するだけでは限界があるため、依存関係の取得やビルドのたびに自動でパッケージを検証し、IOC や脅威インテリジェンスに基づいてブロックする仕組みを導入することで、攻撃の拡大を未然に防げます。OSS に依存する開発体制を維持する以上、こうした仕組みは「特別な対策」ではなく「標準的な衛生管理」として定着させる必要があります。

Shai-Hulud は終息したインシデントではなく、今後の攻撃者の戦術を示す前兆と捉えるべきです。攻撃はますます自動化・巧妙化し、検出をすり抜けて広範囲に広がることが想定されます。したがって、本件を単なる一過性の脅威と見るのではなく、ソフトウェアサプライチェーン防御の基盤整備を加速させるきっかけとすることが重要です。OSS エコシステムと開発者コミュニティの健全性を守るためには、開発者一人ひとりがセキュリティ意識を高め、組織全体として持続的な監視と改善の仕組みを整備していくことが求められます。

参考文献

AI駆動型ランサムウェア「PromptLock」の正体 ― 研究プロトタイプが示す新たな脅威の可能性

2025年9月、セキュリティ業界に大きな波紋を広げる出来事が報じられました。スロバキアのセキュリティ企業ESETが、世界初とされるAI駆動型ランサムウェア「PromptLock」を発見したのです。従来のランサムウェアは、人間の開発者がコードを作成・改変して機能を追加してきましたが、PromptLockはその枠を超え、大規模言語モデル(LLM)が自律的に攻撃コードを生成する仕組みを備えていました。これにより、攻撃の効率性や回避能力が従来より大幅に高まる可能性が指摘されました。

当初は未知の脅威が出現したとして警戒が強まりましたが、その後の調査により、実態はニューヨーク大学(NYU)の研究者が作成した学術プロトタイプ「Ransomware 3.0」であることが明らかになりました。つまり、サイバー犯罪者による実際の攻撃ではなく、研究目的で作られた概念実証(PoC)が偶然発見された形です。しかし、AIによる自動化・動的生成がランサムウェアに組み込まれたという事実は、将来のセキュリティリスクを予見させる重要な出来事といえます。

本記事では、PromptLock発見の経緯、研究プロトタイプとの関係性、AI技術の具体的な活用方法、そしてセキュリティ分野における影響や課題について多角的に解説します。

PromptLock発見の経緯

ESETがPromptLockを最初に確認したのは、VirusTotalにアップロードされた未知のバイナリの解析からでした。VirusTotalは研究者や一般ユーザーがマルウェアのサンプルを共有・解析するために利用されるプラットフォームであり、ここに公開されることで多くのセキュリティベンダーが調査対象とします。ESETはこのサンプルを分析する過程で、従来のランサムウェアとは異なる挙動を持つ点に着目しました。

解析の結果、このマルウェアはGo言語で開発され、Windows・Linux・macOSといった複数のOS上で動作可能であることが判明しました。クロスプラットフォーム対応の設計は近年のマルウェアでも増えている傾向ですが、特に注目されたのは「内部に大規模言語モデルを呼び出すプロンプトが埋め込まれている」という点でした。通常のランサムウェアは固定化された暗号化ルーチンやコマンド群を実行しますが、PromptLockは実行時にLLMを通じてLuaスクリプトを動的生成し、その場で攻撃コードを組み立てていくという、従来にない特徴を備えていました。

生成されるスクリプトは、感染した環境内のファイルを列挙し、機密性の高いデータを選別し、さらに暗号化する一連の処理を自動的に行うものでした。暗号化アルゴリズムにはSPECK 128ビットが利用されていましたが、完全な破壊機能は未実装であり、概念実証の段階にとどまっていたことも確認されています。

また、ESETはこのマルウェアに「PromptLock」という名称を与え、「世界初のAI駆動型ランサムウェア」として発表しました。当初は、AIを利用した新種のマルウェアが野に放たれたと解釈され、多くのメディアや研究者が警戒を強めました。特に、マルウェアにAIが組み込まれることで、シグネチャ検知を容易に回避できる可能性や、毎回異なる挙動を取るため振る舞い分析を困難にするリスクが懸念されました。

しかし、後の調査によって、このサンプルは実際の攻撃キャンペーンの一部ではなく、研究者が学術目的で作成したプロトタイプであることが明らかになります。この経緯は、セキュリティ業界がAIの脅威を過大評価する可能性と同時に、AIが攻撃手法に応用されることでいかに大きなインパクトを与えうるかを示した象徴的な事例となりました。

研究プロトタイプとの関係

PromptLockの正体が明らかになったのは、ESETの発表から間もなくしてです。iTnewsの報道によれば、問題のバイナリはニューヨーク大学(NYU)タンドン工科大学の研究チームが開発した「Ransomware 3.0」と呼ばれる学術的プロトタイプにほかなりませんでした。これは、AIを活用してランサムウェアの攻撃ライフサイクル全体を自律的に実行できるかを検証する目的で作られたもので、研究者自身がVirusTotalにアップロードしていたことが後に確認されています。

Ransomware 3.0は、従来のマルウェア研究と大きく異なる点として、大規模言語モデル(LLM)を「攻撃の頭脳」として利用する設計思想を持っていました。研究チームは、システム探索、ファイルの優先度評価、暗号化、身代金要求といった工程を個別にプログラムするのではなく、プロンプトとしてLLMに与え、実行時に必要なコードを生成させるという新しい手法を試みました。これにより、固定化されたシグネチャやコードパターンに依存しない、動的に変化する攻撃を作り出すことが可能になります。

さらに研究では、Windows、Linux、Raspberry Piといった複数のプラットフォームで試験が行われ、AIが敏感なファイルを63〜96%の精度で識別できることが確認されました。これは単なる暗号化ツールとしてではなく、攻撃対象の「価値あるデータ」を自律的に選別する段階までAIが担えることを意味しています。

コスト面でも注目すべき点がありました。研究チームによると、1回の攻撃実行に必要なLLM利用量は約23,000トークンであり、クラウドAPIを利用した場合でも0.70米ドル程度に収まるとされています。オープンソースモデルを活用すれば、このコストすら不要です。つまり、従来のマルウェア開発者が時間と労力をかけて調整してきたプロセスを、誰でも低コストで再現可能にしてしまうポテンシャルがあるのです。

ただし、研究チームは倫理的配慮を徹底しており、このプロトタイプは完全に学術目的でのみ開発されたものです。実際の攻撃に利用される意図はなく、論文や発表を通じて「AIがサイバー攻撃に悪用された場合のリスク」を社会に提示することが狙いでした。今回のPromptLock騒動は、ESETがPoCを未知の脅威として誤認したことで注目を集めましたが、同時に研究成果が現実の脅威と紙一重であることを世に知らしめたとも言えます。

技術的特徴

PromptLock(研究プロトタイプであるRansomware 3.0)が持つ最大の特徴は、ランサムウェアの主要機能をLLMによって動的に生成・実行する仕組みにあります。従来のランサムウェアは固定化されたコードや暗号化アルゴリズムを持ち、シグネチャベースの検知や挙動パターンによる対策が可能でした。しかしPromptLockは、実行のたびに異なるコードを生成するため、既存の防御モデルにとって検出が難しくなります。

1. AIによる動的スクリプト生成

内部に埋め込まれたプロンプトが大規模言語モデル(gpt-oss:20bなど)へ渡され、Luaスクリプトがオンデマンドで生成されます。このスクリプトには、ファイル探索、フィルタリング、暗号化処理といった攻撃のロジックが含まれ、同じバイナリであっても実行ごとに異なる挙動を取る可能性があります。これにより、セキュリティ製品が行う静的解析やヒューリスティック検知の回避が容易になります。

2. クロスプラットフォーム対応

本体はGo言語で記述されており、Windows・Linux・macOSに加え、Raspberry Piのような軽量デバイス上でも動作することが確認されています。IoTデバイスや組み込みシステムへの拡散も現実的に可能となり、攻撃対象の範囲が従来より大幅に拡大する危険性を示しています。

3. 暗号化アルゴリズムの採用

ファイル暗号化にはSPECK 128ビットブロック暗号が利用されていました。これはNSAによって設計された軽量暗号で、特にIoT環境など計算資源が限られるデバイスに適しています。研究プロトタイプでは完全な破壊機能は実装されていませんが、暗号化の仕組みそのものは十分に実用的なものでした。

4. 自動化された攻撃フェーズ

Ransomware 3.0は、ランサムウェアが行う主要フェーズを一通りカバーしています。

  • システム探索:OSやストレージ構造を認識し、標的となるファイルを特定。
  • ファイル選別:LLMの指示により「価値のあるデータ」を優先的に選択。研究では63〜96%の精度で重要ファイルを抽出。
  • 暗号化:対象ファイルをSPECKアルゴリズムで暗号化。
  • 身代金要求:ユーザーに表示する要求文もLLMによって生成可能で、文章の多様性が高まり、単純なキーワード検知を回避しやすい。

5. 実行コストと効率性

研究者の試算によれば、1回の攻撃実行には約23,000トークンが必要で、クラウドAPIを利用した場合は0.70米ドル程度のコストとされています。これはサイバー犯罪の観点から見れば極めて低コストであり、さらにオープンソースモデルを利用すればゼロコストで再現できることから、攻撃の敷居を大幅に下げる可能性があります。

6. 多様な回避能力

生成されるコードは常に変化し、固定化されたシグネチャでは検出できません。また、動的生成の性質上、セキュリティ研究者がサンプルを収集・分析する難易度が飛躍的に高まるという課題もあります。さらに、文章生成能力を利用することで、ソーシャルエンジニアリング要素(説得力のある脅迫文やカスタマイズされた身代金メッセージ)を柔軟に作成できる点も注目されます。

セキュリティへの影響と課題

PromptLock(Ransomware 3.0)が示した最大の教訓は、AIが攻撃側の手に渡ったとき、従来のマルウェア検知・防御の前提が揺らぐという点です。従来のランサムウェアは、コード署名やシグネチャパターンを基にした検知が有効でしたが、AIによる動的生成はこれを回避する仕組みを本質的に内包しています。結果として、防御側は「どのように変化するかわからない攻撃」と対峙せざるを得ません。

1. 防御モデルの陳腐化

セキュリティ製品の多くは既知のコードや振る舞いに依存して検知を行っています。しかし、PromptLockのように実行のたびに異なるスクリプトを生成するマルウェアは、検出ルールをすり抜けやすく、ゼロデイ的な振る舞いを恒常的に行う存在となります。これにより、シグネチャベースのアンチウイルスやルールベースのIDS/IPSの有効性は大幅に低下する恐れがあります。

2. 攻撃者のコスト削減と自動化

研究では1回の攻撃実行コストが0.70米ドル程度と試算されています。従来、ランサムウェア開発には専門知識や開発時間が必要でしたが、AIを利用すれば低コストかつ短時間で攻撃ロジックを作成できます。さらに、LLMのプロンプトを工夫することで「ターゲットごとに異なる攻撃」を自動生成でき、マルウェア作成のハードルは著しく低下します。結果として、これまで攻撃に関与していなかった層まで参入する可能性が高まります。

3. 高度な標的化

AIは単なるコード生成だけでなく、環境やファイル内容を理解した上で攻撃を調整することが可能です。研究では、LLMが重要ファイルを63〜96%の精度で識別できると報告されています。これは「無差別的に暗号化する従来型」と異なり、価値あるデータだけを狙い撃ちする精密攻撃の可能性を意味します。結果として、被害者は復旧困難なダメージを受けるリスクが高まります。

4. 説得力のある身代金要求

自然言語生成能力を活用すれば、攻撃者は被害者ごとに異なるカスタマイズされた脅迫文を作成できます。従来の定型的な「支払わなければデータを消去する」という文言ではなく、企業名・担当者名・業務内容を織り込んだリアルなメッセージを自動生成することで、心理的圧力を増幅させることができます。これはソーシャルエンジニアリングとの融合を意味し、防御はさらに難しくなります。

5. 防御側への課題

こうした背景から、防御側には新しい対応策が求められます。

  • AI対AIの対抗:AI生成コードを検知するために、防御側もAIを活用した行動分析や異常検知が不可欠になる。
  • ゼロトラスト強化:感染を前提としたネットワーク設計、権限の最小化、セグメンテーションの徹底が必須。
  • バックアップと復旧体制:暗号化を回避できないケースを想定し、オフラインバックアップや迅速な復旧計画を備える。
  • 倫理と規制の問題:AIを悪用した攻撃が現実化する中で、モデル提供者・研究者・規制当局がどのように責任分担を行うかも大きな課題となる。

6. 今後の展望

PromptLockは研究プロトタイプに過ぎませんが、その存在は「AI時代のサイバー攻撃」の可能性を明確に示しました。今後は、犯罪組織がこの技術を取り込み、攻撃の効率化や大規模化を進めることが懸念されます。セキュリティ業界は、AIによる脅威を前提とした新たな脅威モデルの構築と、それを支える防御技術の進化を余儀なくされるでしょう。

おわりに

PromptLockは最初こそ「世界初のAI駆動型ランサムウェア」として大きな衝撃を与えましたが、その正体はNYUの研究者が開発した学術的な概念実証にすぎませんでした。しかし、この誤認をきっかけに、セキュリティ業界全体がAIとマルウェアの交差点に強い関心を寄せることとなりました。実際に攻撃に利用されたわけではないものの、AIが従来の防御手法を無力化しうる可能性を示した事実は極めて重大です。

従来のランサムウェア対策は、既知のシグネチャや典型的な挙動を検知することを前提にしてきました。しかし、AIが介在することで「常に異なる攻撃コードが生成される」「標的ごとに最適化された攻撃が行われる」といった新しい脅威モデルが現実味を帯びています。これは、防御の在り方そのものを再考させる大きな転換点であり、単なるマルウェア対策ではなく、AIを含む攻撃シナリオを包括的に想定したセキュリティ戦略が求められる時代に入ったことを意味します。

また、この出来事は倫理的な側面についても重要な示唆を与えました。研究としてのPoCであっても、公開の仕方や取り扱い次第では「現実の脅威」として認識され、社会的混乱を招く可能性があります。AIを使った攻撃研究と、その成果の公開方法に関する国際的なルール作りが今後さらに必要になるでしょう。

PromptLockが「実験作」だったとしても、攻撃者が同様の技術を応用する日は遠くないかもしれません。だからこそ、防御側は一歩先を見据え、AI時代のセキュリティ基盤を構築する必要があります。本記事で取り上げた事例は、その警鐘として記憶すべきものであり、今後のサイバー防御の議論において重要な参照点となるでしょう。

参考文献

OAuthトークン窃取によるサプライチェーン攻撃 ― Drift統合経由で複数企業に影響

2025年8月、Salesloft社が提供するチャットプラットフォーム「Drift」を経由した大規模なサプライチェーン攻撃が発覚しました。攻撃者は、Driftと外部サービス(Salesforceなど)を統合する際に利用されていたOAuthトークンを窃取し、複数の大企業のシステムへ不正アクセスを行いました。影響はCloudflareやZscalerといった世界的な企業にまで及び、サポートケースや顧客関連データが流出した可能性が指摘されています。

今回の攻撃の重要な点は、標的が「AIチャットボット」そのものではなく、サプライチェーンを構成する外部サービス統合の脆弱性だったことです。OAuthトークンはサービス間認証の基盤として広く利用されていますが、一度流出すれば本人になりすまして無制限にアクセスできる強力な「鍵」として機能します。そのため、管理の不備や第三者への委託によって安全性が損なわれると、そこを突破口にして被害が一気に広がるリスクを孕んでいます。

この事件は「サプライチェーン攻撃」と呼ばれますが、実態としてはDriftという外部ベンダーを通じて複数企業が侵害された事例です。つまり、1社のセキュリティ不備が取引先全体に波及する構造的なリスクが浮き彫りになったといえます。

本記事では、事件の概要と技術的なポイントを整理し、OAuthトークンのセキュリティに関して押さえるべき基本的な対策について解説します。AIという観点ではなく、「認証情報の管理不備がサプライチェーン全体のリスクになる」という本質的な問題に焦点を当てます。

攻撃の概要

今回確認された攻撃は、Salesloft社のチャットプラットフォーム「Drift」と外部サービス(特にSalesforce)との統合部分を起点としています。Driftは、顧客とのチャット内容やリード情報をSalesforceなどのCRMに自動反映させる機能を持っており、その際にOAuthトークンを用いて認証・認可を行います。

攻撃者は、このDriftが保持していたOAuthアクセストークンを窃取することに成功しました。流出経路の詳細は公表されていませんが、考えられるシナリオとしては以下が指摘されています。

  • Drift内部のシステムやログからトークンが平文で漏洩した可能性
  • トークンの保護・ライフサイクル管理に不備があり、有効期限が長すぎた可能性
  • APIアクセス制御や監視の欠如により、不審な利用が長期間検知されなかった可能性

攻撃期間は2025年8月12日から17日にかけてで、短期間で集中的に行われたとされています。攻撃者は窃取したトークンを使い、Salesforceに正規の認証済みユーザーとしてアクセスし、サポートケース情報や営業関連データなどを参照・抽出したと見られています。

被害は単一の企業にとどまりませんでした。Driftは多数の顧客企業で利用されているため、結果的にCloudflare、Zscaler、Palo Alto Networksといった大手を含む700以上の組織が影響を受けたと報告されています。特にCloudflareは公式ブログで、自社のサポートケース情報が一部閲覧された可能性を認め、即座に対応措置を取ったことを公表しました。

この事件の特徴は、攻撃者がDrift自体を最終標的にしたわけではなく、Driftを踏み台として顧客企業のシステムに侵入した点にあります。つまり、直接攻撃が困難な大企業を狙うのではなく、その周辺のサプライチェーン(サービス提供企業)の弱点を突くことで一気に広範な影響を与える典型的な攻撃パターンです。

技術的なポイント

1. OAuthトークンの仕組みとリスク

OAuth 2.0は、サービス間で安全に認証・認可を行うために広く使われているプロトコルです。ユーザーのパスワードを直接渡す代わりに、アクセストークンという「代理の鍵」を発行し、これを利用してAPIにアクセスします。

しかし、この仕組みには大きな前提があります。「トークンが絶対に漏れない」ということです。アクセストークンは発行後、失効するまで本人になりすまして利用可能であり、流出すれば攻撃者にとって非常に強力な侵入手段となります。

特に、トークンの有効期限が長すぎる場合や、リフレッシュトークンが安全に管理されていない場合、被害はさらに深刻になります

2. 外部サービス統合とサプライチェーンの弱点

今回の事件は、Driftのような外部サービスが保持していたOAuthトークンが突破口となりました。

  • Driftはチャット内容やリード情報をSalesforceに送信するため、Salesforce APIにアクセスする権限を持つトークンを管理していました。
  • つまり、利用企業は自社のSalesforceを守っていても、外部サービス側のセキュリティが甘ければ意味がないという状況が生じてしまいます。
  • このように、自社の境界を超えた場所にある認証情報が侵害されることで被害が波及する点が、サプライチェーン攻撃の典型的な脆弱性です。

3. トークン管理における具体的な問題点

今回のケースで想定される問題は次の通りです。

  • 有効期限が長すぎるトークン:窃取後も長期間利用可能であれば、検知までに甚大な被害が広がる。
  • スコープが広すぎるトークン:不要な権限を持っていれば、侵入後に参照・変更できる範囲が拡大する。
  • 保存方法の不備:ログや設定ファイルに平文で残っていた場合、内部からの流出や外部侵入時に容易に盗まれる。
  • 監視不足:不審なアクセスパターン(例:異常な時間帯や海外からのAPIアクセス)が検知されず、侵入が長期化する。

4. 攻撃の構造的な特徴

攻撃者はDriftのサービス自体を破壊したり改ざんしたりしたわけではありません。代わりに、Driftが持っていたOAuthトークンを利用し、あたかも正規のユーザーやアプリケーションであるかのように外部サービス(Salesforceなど)に侵入しました。

これにより、外部からの攻撃としては目立ちにくく、通常のログイン試行や不正アクセスの兆候を出さずにシステム内部に入り込めたのです。

このような「正規の認証情報を盗んで使う」攻撃は、パスワードやAPIキーの流出と同様に検知が難しいことが特徴です。

5. 今回の事例が示す本質

  • OAuthは利便性の高い認証・認可の仕組みだが、トークン管理の安全性が保証されなければ逆に最大の弱点になる
  • 外部サービスと統合すること自体が「自社の防御範囲外にトークンを置く」ことを意味し、サプライチェーン全体を通じたセキュリティリスク管理が不可欠
  • この構造的な問題は、Driftに限らず多くのSaaSサービス連携に当てはまる。

セキュリティ上の教訓と対策

今回のインシデントは、OAuthトークンの管理不備がどのようにサプライチェーン全体のリスクに直結するかを示しました。重要なのは「トークンを提供する側(外部サービスベンダー)」と「トークンを受領する側(利用企業)」の双方で対策を講じることです。どちらか片方が堅牢でも、もう一方が弱ければ全体として防御は成立しません。

1. OAuthトークンを提供する側(外部サービスベンダー)

外部サービスは、多数の顧客のシステムにアクセスするためのトークンを保持する立場にあり、ここが破られると一気に被害が連鎖するリスクを抱えています。今回のDriftのように「一社の不備が多数の企業へ波及」する構造的な弱点があるため、ベンダー側には特に強固な管理が求められます。

教訓と対策

  • 短寿命トークンの発行と更新
    • 長期間有効なアクセストークンを発行せず、数分〜数時間で期限切れとなる短命トークンを基本とする。
    • 自動更新の仕組みを導入し、顧客側は透過的に新しいトークンを利用できるようにする。
  • スコープの最小化と分離
    • 「読み取り専用」「書き込み限定」など、用途ごとにスコープを細かく分ける。
    • 顧客ごとに独立したトークンを発行し、1つが流出しても他社には波及しない設計にする。
  • 安全な保管と鍵管理
    • トークンを平文でログや設定に残さない。
    • HSM(Hardware Security Module)やSecrets Managerを用い、復号は安全領域でのみ可能にする。
  • 異常利用の監視と自動失効
    • 不自然なアクセスパターン(短時間で大量アクセス、国外からの利用など)を監視。
    • 検知した場合は自動的にトークンを失効し、顧客に即通知する仕組みを標準化する。
  • 透明性の確保
    • インシデントが発生した場合、影響範囲と対応策を迅速かつ正確に公表する。
    • 顧客に「どのトークンが影響を受けたか」「どのデータにアクセスされた可能性があるか」を開示できるログを保持しておく。

2. OAuthトークンを受領する側(顧客企業)

顧客企業は外部サービスとの統合によって利便性を得る一方、自社の認証情報を第三者に預けることになります。この時点で「自社のセキュリティ境界が広がる」ため、依存リスクを踏まえた設計・運用が不可欠です。

教訓と対策

  • 外部サービスのセキュリティ評価
    • ベンダー選定時に、OAuthトークンの取り扱い方針、暗号化方法、監査体制を確認する。
    • SOC 2やISO 27001などの認証取得状況を参考にする。
  • スコープと権限の制御
    • 不要に広いスコープのトークンを許可しない。
    • 「参照だけで十分な統合」であれば書き込み権限を付与しない。
  • 利用環境の制限
    • トークンの利用元を特定のネットワークやIPに限定する。
    • 自社内のアクセス制御(ゼロトラストモデル)と組み合わせ、外部からの不審アクセスを防ぐ。
  • 監視とアラート
    • 外部サービス経由で行われたAPIアクセスを可視化し、不審な挙動があれば即時検知できる仕組みを持つ。
    • Salesforceなど側でも「どのアプリケーションからアクセスが来ているか」を監査する。
  • 侵害前提のリスクマネジメント
    • トークンが漏洩する可能性をゼロにできない前提で設計する。
    • 被害が起きても影響範囲を限定できるように、重要データと外部サービスとの接続を分離する。
    • 定期的にトークンを再発行・棚卸しし、不要な連携は削除する。

まとめ

OAuthトークンはサービス統合の利便性を支える一方で、流出すれば強力な攻撃手段となります。今回の事件は「提供する側」と「受領する側」の双方で適切な管理を怠れば、サプライチェーンを通じて被害が拡大することを示しました。

  • 提供側には「短寿命化・スコープ最小化・強固な保管・監視・透明性」が求められ、
  • 受領側には「ベンダー評価・権限制御・利用制限・監視・リスクマネジメント」が不可欠です。

つまり、セキュリティは一方的な責任ではなく、提供者と利用者の協働によって初めて成り立つという点が最大の教訓といえます。

まとめ

今回の事件は、OAuthトークンという技術要素がいかに便利であると同時に、大きなリスクを抱えているかを改めて示しました。OAuthはWebサービスやSaaSの統合を容易にし、ユーザー体験を向上させる強力な仕組みです。しかし、その利便性の裏には「一度発行されたトークンが漏洩すれば、正規のユーザーになりすまして広範なアクセスを許してしまう」という構造的な脆弱性があります。

今回の侵害は、AIチャットボット自体が攻撃対象だったわけではなく、外部統合に利用されるOAuthトークンが突破口になったという事実に注目すべきです。つまり、個別のサービスだけを堅牢に守っても、サプライチェーンの一部に弱点があれば全体が危険にさらされるという現実を突きつけています。これはSolarWinds事件や他の大規模サプライチェーン攻撃とも共通する教訓です。

では、我々はどう対応すべきか。答えは「完璧な防御」を追い求めるのではなく、多層的に防御を重ね、攻撃の成功確率を下げ、万一突破されても被害を最小化することにあります。提供する側(サービスベンダー)は短寿命トークンや権限スコープの制御、安全な保管と監視を徹底し、受領する側(顧客企業)はベンダー評価や利用制御、リスク前提の運用を組み込む必要があります。

サプライチェーンを通じた攻撃は今後も増えると予想されます。外部サービスとの統合は避けられない以上、「どのように信頼を設計するか」が問われています。OAuthトークン管理のあり方は、その最前線にある課題の一つです。本件を一過性の事故として片付けるのではなく、セキュリティを提供者と利用者の協働によって成り立たせる仕組みを築くきっかけにすべきでしょう。

参考文献

米国の地方自治体がサイバー脅威に直面 ― DHSによるMS-ISAC資金打ち切り問題

近年、ランサムウェアやフィッシングをはじめとするサイバー攻撃は、国家機関や大企業だけでなく、州や郡、市といった地方自治体にまで広がっています。水道や電力といった公共インフラ、選挙システム、教育機関のネットワークなどが攻撃対象となり、その被害は住民の生活や社会全体の安定性に直結します。特に小規模な自治体では、専門人材や十分な予算を確保することが難しく、外部からの支援や共同防衛の仕組みに強く依存してきました。

その中心的な役割を果たしてきたのが、米国土安全保障省(DHS)の支援を受ける「MS-ISAC(Multi-State Information Sharing and Analysis Center)」です。MS-ISACは20年以上にわたり、自治体に対して無償で脅威インテリジェンスやセキュリティツールを提供し、地域間での情報共有を促進してきました。これにより、地方政府は限られたリソースの中でも高度なセキュリティ体制を維持することが可能となっていました。

しかし、2025年9月末をもってDHSはMS-ISACへの資金提供を打ち切る方針を示しており、米国内の約1万9000の自治体や公共機関が重大なセキュリティリスクに直面する可能性が懸念されています。本記事では、この打ち切りの経緯、背景にある政策的判断、そして地方自治体への影響について事実ベースで整理します。

背景:MS-ISACと連邦支援

米国では、サイバーセキュリティ対策を連邦政府だけに委ねるのではなく、州や地方自治体とも連携して取り組む「分散型防衛モデル」が長年採用されてきました。その中心的存在が「MS-ISAC(Multi-State Information Sharing and Analysis Center)」です。

MS-ISACの役割

MS-ISACは2003年にCenter for Internet Security(CIS)によって設立され、州・地方政府、教育機関、公共サービス機関を対象に、次のような機能を提供してきました。

  • 脅威インテリジェンスの共有:新種のマルウェア、ランサムウェア、ゼロデイ脆弱性に関する情報をリアルタイムで配布。
  • セキュリティツールの提供:侵入検知やマルウェア解析、ログ監視などを行うためのツール群を無料で利用可能に。
  • インシデント対応支援:サイバー攻撃が発生した際には専門チームを派遣し、調査・復旧を支援。
  • 教育・訓練:職員向けのセキュリティ教育や模擬演習を実施し、人的リソースの底上げを支援。

この仕組みによって、規模や予算の限られた自治体でも大都市と同等のセキュリティ水準を享受できる環境が整備されてきました。

連邦政府の資金支援

DHSは長年にわたり、MS-ISACの運営を年間数千万ドル規模で支援してきました。特に近年は「State and Local Cybersecurity Grant Program(SLCGP)」を通じて資金を確保し、全米の自治体が追加費用なしでサービスを利用できるようにしていました。

この連邦資金があったからこそ、MS-ISACは約19,000の自治体をカバーし、次のような成果を挙げてきました。

  • 2024年には 約43,000件のサイバー攻撃を検知
  • 59,000件以上のマルウェア/ランサムウェア攻撃を阻止
  • 250億件以上の悪性ドメイン接続をブロック
  • 540万件以上の悪意あるメールを遮断

これらの成果は、地方自治体が個別に対応したのでは到底実現できない規模のものであり、MS-ISACは「地方政府のサイバー防衛の生命線」と位置付けられてきました。

打ち切りの経緯

今回のMS-ISAC資金打ち切りは、単なるプログラム終了ではなく、いくつかの政策判断が重なった結果です。

SLCGPの終了

まず背景として、DHSが2021年に創設した「State and Local Cybersecurity Grant Program(SLCGP)」があります。これは州および地方政府向けにサイバー防衛を支援するための4年間限定プログラムであり、当初から2025会計年度で終了することが予定されていました。したがって「2025年で一区切り」という基本方針自体は計画通りといえます。

MS-ISACへの直接支援の削減

しかし、MS-ISACへの資金提供打ち切りはこの流れの中で新たに示された方針です。DHSは2025年度予算において、従来毎年2,700万ドル規模で計上されていたMS-ISAC向け予算をゼロ化しました。これに伴い、地方自治体がこれまで無料で利用できていた脅威インテリジェンスやセキュリティツールは、連邦政府の支援なしでは維持できなくなります。

補助金の利用制限

さらに、SLCGP最終年度のルールにおいては、補助金をMS-ISACのサービス利用や会費に充てることを禁止する条項が追加されました。これにより、自治体は別の用途でしか助成金を使えず、事実上MS-ISACのサービスから切り離されることになります。これは「連邦依存から地方自立への移行」を明確に打ち出した措置と解釈されています。

政治的背景と予算削減圧力

DHSがこのような決断を下した背景には、連邦政府全体の予算削減圧力があります。国家安全保障や外交、防衛費が優先される中で、地方サイバー防衛への直接支援は「地方自身が担うべき課題」と位置づけられました。加えて、近年の政策方針として「地方分権的な責任移管」を強調する動きが強まっており、今回の打ち切りはその延長線上にあります。

既存の削減の積み重ね

なお、DHSは2025年度予算編成前の2024年度中にも、すでにMS-ISAC関連の資金を約1,000万ドル削減しており、今回の打ち切りはその流れを決定的にしたものといえます。つまり、段階的に支援を縮小する方針が徐々に明確化し、最終的に完全終了に至った格好です。

影響とリスク

MS-ISACへの連邦資金が打ち切られることで、米国内の州・地方自治体は複数の深刻な影響に直面すると予想されています。特に、資金や人材が限られる小規模自治体ではリスクが顕著に高まります。

セキュリティ情報の喪失

これまでMS-ISACは、ランサムウェア、フィッシング、ゼロデイ攻撃といった最新の脅威情報をリアルタイムで提供してきました。これが途絶すれば、自治体ごとに個別の情報源に依存するしかなく、検知の遅れや対応の遅延が発生する恐れがあります。国家規模で統一されていた「早期警戒網」が分断される点は特に大きなリスクです。

小規模自治体への負担増

多くの小規模自治体には、専任のセキュリティ担当者が1人もいない、あるいはIT全般を数名で兼任しているという実態があります。これまではMS-ISACが無償で高度なツールや監視サービスを提供していたため最低限の防衛線を維持できていましたが、今後は独自調達や有料会員制サービスへの加入が必要になります。そのコスト負担は自治体財政にとって無視できないものとなり、セキュリティ対策自体を縮小せざるを得ない可能性もあります。

公共サービスの停止リスク

近年、ランサムウェア攻撃によって市役所や警察署のシステムが停止し、住民サービスや緊急対応に大きな影響が出た事例が複数報告されています。MS-ISACの支援がなくなることで、こうした住民生活に直結するリスクが増大するのは避けられません。特に上下水道や交通、医療などのインフラ部門は狙われやすく、対策の手薄な自治体が攻撃の標的になる可能性があります。

選挙セキュリティへの影響

MS-ISACは、選挙関連インフラを守るEI-ISAC(Elections Infrastructure ISAC)とも連携しており、選挙システムの監視・防御にも寄与してきました。資金打ち切りにより支援体制が縮小すれば、選挙の公正性や信頼性が脅かされるリスクも指摘されています。大統領選を控える時期であることから、この点は特に懸念材料となっています。

サイバー犯罪組織や外国勢力への好機

連邦資金の打ち切りによって自治体の防御が弱体化すれば、それは攻撃者にとって「格好の標的」となります。特に、米国の地方自治体は医療・教育・選挙といった重要データを保持しているため、国家支援型ハッカーや犯罪グループの攻撃が集中するリスクが高まります。

有料モデル移行による格差拡大

MS-ISACを運営するCISは、10月以降に有料会員制へ移行する方針を発表しています。大規模な州政府や予算の潤沢な都市は加入できても、小規模自治体が参加を断念する可能性が高く、結果として「守られる自治体」と「脆弱なままの自治体」の二極化が進む懸念があります。

州・自治体からの反発

MS-ISACへの資金打ち切り方針が明らかになると、全米の州政府や地方自治体から強い反発の声が上がりました。彼らにとってMS-ISACは単なる情報共有の枠組みではなく、「自前では賄えないセキュリティを補う生命線」として機能してきたからです。

全国的な要請活動

  • 全国郡協会(NACo)は、議会に対して「MS-ISAC資金を回復させるべきだ」と訴える公式書簡を提出しました。NACoは全米3,000以上の郡を代表しており、その影響力は大きいとされています。
  • 全米市長会議国際都市連盟(ICMA)州CIO協会(NASCIO)といった主要団体も連名で議会に働きかけを行い、超党派での対応を求めました。これらの団体は「自治体は国の重要インフラを担っており、セキュリティ支援は連邦の責任だ」と強調しています。

具体的な懸念の表明

各団体の声明では、次のような懸念が繰り返し指摘されました。

  • 小規模自治体は有料モデルに移行できず、「守られる地域」と「取り残される地域」の格差が拡大する
  • 脅威情報の流通が途絶すれば、攻撃の検知が遅れ、被害が拡大する
  • 選挙インフラへの支援が弱まれば、民主主義の根幹が揺らぐ危険がある。

議会への圧力

議会に対しては、資金復活のための補正予算措置新たな恒常的サイバー防衛プログラムの創設が求められています。実際に複数の議員がこの問題を取り上げ、DHSに説明を求める動きも見られます。地方政府にとっては、単に予算の問題ではなく「連邦と地方の信頼関係」を左右する問題として位置づけられているのです。

「地方切り捨て」への不満

また、多くの自治体首長は今回の措置を「地方切り捨て」と受け止めています。特に、ランサムウェア被害が急増している現状での支援打ち切りは矛盾しており、「最も防御が必要なタイミングで支援を外すのは無責任だ」という強い批判も相次いでいます。

まとめ

今回のDHSによるMS-ISAC資金打ち切りは、米国の地方自治体にとって深刻な課題を突き付けています。これまで無償で利用できていたセキュリティサービスや脅威情報の共有が途絶すれば、多くの自治体は自前で防衛コストを負担しなければなりません。小規模な自治体ほど財政や人材が限られており、公共サービスや選挙インフラなど生活に直結する分野が脆弱化するリスクは避けられません。

この問題が示す教訓の一つは、外部からの物や資金の支援に過度に依存することの危うさです。短期的には効果的で目に見える成果を生みますが、支援が途絶した途端に自力で維持できなくなり、逆にリスクが拡大する可能性があります。したがって、支援は「即効性のある資金・物資」と「自立を可能にするノウハウ・運用力」の両面で行うべきであり、地方自治体もこの二本柱を念頭に置いた体制づくりを進める必要があります。

もう一つの重要な課題は、財政の見直しによる資金捻出です。セキュリティは「後回しにできる投資」ではなく、住民サービスやインフラと同等に優先すべき基盤的な支出です。したがって、既存予算の中で優先順位を見直し、余剰支出を削減する、共同調達でコストを下げる、州単位で基金を設立するといった方策が求められます。財政的に厳しい小規模自治体にとっては、単独での負担が難しい場合もあるため、州や近隣自治体と連携して費用を分担する仕組みも検討すべきです。

最終的に、この問題は単に「連邦政府が支援を打ち切った」という一点にとどまらず、地方自治体がいかにして自らの力で持続可能なセキュリティ体制を構築できるかという課題に帰結します。資金、ノウハウ、人材育成の三要素を組み合わせ、外部支援が途絶えても機能し続ける仕組みを築けるかどうかが、今後のサイバー防衛の成否を左右するでしょう。

参考文献

Paragon SolutionsのGraphiteスパイウェアとは何か ― ゼロクリック攻撃でジャーナリストや活動家を狙う仕組みと影響

2025年、国際社会を揺るがす重大なサイバーセキュリティ事件が報じられました。イスラエルの民間企業 Paragon Solutions が開発したスパイウェア「Graphite」が、Meta(WhatsApp)やAppleのゼロクリック脆弱性を突いて、ジャーナリストや人権活動家を標的にしていたのです。Metaは標的となった90名以上のユーザーに通知し、Paragonに活動停止命令を送付。Citizen Labなどの研究機関も独自調査を行い、Graphiteの実際の感染事例を確認しました。

この事件の衝撃は、単に「脆弱性を悪用したサイバー攻撃」にとどまりません。問題の核心は、民間企業が提供する政府向けスパイウェアが、民主社会の根幹を支えるジャーナリストや市民社会の担い手を狙うために用いられた可能性があるという点にあります。これは、報道の自由、言論の自由、人権保護といった価値に直結する深刻な問題です。

さらに、この事件は過去の Pegasus問題 とも重なります。Pegasusはすでに世界中で政府機関による乱用が確認され、欧州議会でも規制の必要性が議論されてきました。Graphiteはそれに続く「第二のPegasus」とも言える存在であり、国際社会に新たな警鐘を鳴らしています。

こうした背景を踏まえると、Graphite事件は「技術の進歩」と「自由社会の持続可能性」という二つの課題が正面から衝突した事例といえるでしょう。本記事では、この事件の経緯や技術的仕組み、各国の反応を整理し、今後の課題を考察していきます。

Paragon SolutionsとGraphite

Paragon Solutions は2019年に設立されたイスラエルの民間サイバー企業で、その創業者には元イスラエル首相 エフード・バラク氏 など、政界・軍事分野で豊富な経験を持つ人物が関わっています。設立当初から「政府向けの監視ツール開発」を主な事業として掲げており、その存在は国際的な監視・諜報分野で早くから注目されてきました。

同社の代表的な製品である「Graphite」は、いわゆる「商用スパイウェア(mercenary spyware)」に分類されます。つまり、一般犯罪者が闇市場で流通させるマルウェアとは異なり、政府や治安機関を顧客として正規の商取引の形で提供される監視ツールです。そのため開発当初から「国家安全保障」を名目とした利用が前提とされてきましたが、実際には市民社会や報道関係者に対して利用されるケースが疑われ、国際的に大きな議論を呼んでいます。

Graphiteの特徴は以下の点にまとめられます。

  • 通信傍受に特化 Pegasus(NSO Group製)が端末全体の制御やマイク・カメラの操作など包括的な監視を可能にするのに対し、Graphiteは WhatsAppやSignalなどメッセージングアプリの通信傍受に特化。即時的な情報収集を重視した設計と考えられます。
  • ゼロクリック攻撃に対応 メッセージを開いたりファイルをクリックしたりする必要がなく、脆弱性を突いて自動感染する「ゼロクリック」手法を活用。標的に気づかれにくく、フォレンジック分析でも発見が難しいという厄介さを持ちます。
  • 国家レベルの利用を想定 Graphiteは「法執行機関向け」と説明されてきましたが、販売先や利用状況は不透明です。Citizen Labの調査では、複数の国の政府機関や警察が利用している可能性が指摘されています。

こうした性質から、Graphiteは 「Pegasusに続く第二世代の政府向けスパイウェア」 とも呼ばれます。Pegasusが世界中で乱用され国際問題化したことを受けて、Paragonは「より限定的で正当性のある利用」を強調してきました。しかし、今回の事件で明らかになったのは、Graphiteもまたジャーナリストや活動家といった市民社会の担い手を狙うために用いられた可能性があるという厳しい現実です。

Graphiteは、単なる「監視ツール」ではなく、国家と市民社会の関係を根底から揺るがす存在であることが、今回の事件を通じて示されたといえるでしょう。

WhatsAppを通じた攻撃とMetaの対応

2025年1月、Meta(旧Facebook)はWhatsAppに関する重大な発表を行いました。調査の結果、Paragon Solutionsが開発したGraphiteスパイウェアがWhatsAppの脆弱性を突いて、少なくとも90名以上のユーザーを標的にしていたことが判明したのです。標的となった人物の中には、ジャーナリストや人権活動家といった市民社会の重要な担い手が含まれていました。

今回悪用されたのは CVE-2025-55177 として登録されたWhatsAppの脆弱性で、特定のURLを不正に処理させることで、ユーザー操作なしにコードを実行できるものでした。特に深刻だったのは、この攻撃が「ゼロクリック攻撃」として成立する点です。標的のユーザーはメッセージを開く必要すらなく、裏側で端末が侵害されるため、攻撃に気づくことはほぼ不可能でした。

Metaは事態を受けて次のような対応を取りました。

  • 対象者への通知 被害を受けた可能性のあるアカウント所有者に対して、セキュリティ上の警告を直接通知しました。Metaはこれを「特定の国家レベルの攻撃者による高度な標的型攻撃」と表現しており、攻撃の性質が一般的なサイバー犯罪ではなく、政治的意図を持つものであることを示唆しています。
  • 法的対応と停止命令 MetaはParagon Solutionsに対して、攻撃行為の即時停止を求める「Cease-and-Desist(停止命令)」を送付しました。これは過去にPegasus(NSO Group)を相手取った訴訟と同様、政府系スパイウェアに対して法的手段を用いた再発防止策の一環です。
  • 研究機関・当局との協力 MetaはCitizen Labをはじめとする研究機関や各国当局と情報を共有し、感染端末の調査や技術的分析を進めています。この連携により、Graphiteの実際の動作や感染経路の特定が進み、事実の裏付けが強化されました。

また、Metaがこの件で特に強調したのは「民間企業が提供するスパイウェアが、報道や市民社会を脅かす手段として利用されている」という点です。Metaは2019年にもNSO GroupのPegasusがWhatsAppを通じて乱用されたことを明らかにし、その後、訴訟に踏み切りました。その経緯を踏まえると、今回のParagonに対する対応は、Pegasus事件に続く「第二の戦い」と位置づけることができます。

Pegasusの時と同じく、Metaは 「プラットフォーム提供者として自社のサービスを監視ツールに利用させない」という強い立場 を打ち出しました。つまり、今回の停止命令や法的措置は、単なる被害対応ではなく、「市民社会を守るために大手テクノロジー企業が政府系スパイウェアに正面から対抗する」という広い意味を持っています。

このように、WhatsAppを通じた攻撃の発覚とMetaの対応は、Graphite事件を単なる技術的脆弱性の問題ではなく、国際的な人権・民主主義の問題として浮上させる契機となったのです。

Citizen Labによる調査と実被害

カナダ・トロント大学の研究機関 Citizen Lab は、今回のGraphiteスパイウェア事件の真相解明において中心的役割を果たしました。同研究所はこれまでも、NSO GroupのPegasusやCandiruといった政府系スパイウェアの乱用を世界に先駆けて明らかにしてきた実績があり、今回のGraphite調査でもその専門性が遺憾なく発揮されました。

調査の経緯

MetaがWhatsAppのゼロクリック攻撃を検知し、標的となったユーザーに通知を送った後、Citizen Labは複数の被害者から協力を得て端末を精査しました。特にジャーナリストや人権活動家の協力により、感染が疑われるスマートフォンを直接調べることが可能となり、フォレンジック分析によってGraphiteの痕跡が確認されました。

技術的分析手法

Citizen Labは、以下のような手法で感染を確認しています。

  • ログ解析:iOS端末のシステムログを詳細に調査し、不自然なクラッシュ記録や不正アクセスの痕跡を発見。
  • 通信パターン調査:特定のC2(Command & Control)サーバーへの暗号化通信を確認。Graphite特有の挙動と一致する部分があった。
  • メモリフォレンジック:不審なプロセスの残存データを抽出し、Graphiteの攻撃コード片を特定。

これらの検証により、少なくとも3名の著名ジャーナリストが実際にGraphiteによる感染を受けていたことが立証されました。感染経路としては、AppleのiMessageに存在していた CVE-2025-43300 のゼロクリック脆弱性が利用されており、悪意ある画像ファイルを受信しただけで端末が侵害されるという深刻な手口が確認されています。

確認された実被害

Citizen Labが確認した標的の中には、ヨーロッパを拠点に活動するジャーナリストや市民社会関係者が含まれていました。これらの人物は政府の汚職、移民政策、人権侵害などを追及しており、監視の対象として選ばれた背景には 政治的動機 がある可能性が高いと見られています。

また、感染した端末では、メッセージアプリ内のやりとりが外部に送信されていた痕跡が発見されており、取材源や内部告発者の匿名性が危険に晒されていたことが推測されます。これは報道活動における基盤を揺るがす重大な侵害であり、ジャーナリズムに対する直接的な脅威となりました。

国際的な意味合い

Citizen Labの報告は、Graphiteが単なる「理論上のリスク」ではなく、実際に政府関係者やその委託先によって利用され、市民社会に被害を与えていることを初めて裏付けました。この発見は、各国政府や国際機関に対して、スパイウェア規制の必要性を強く訴える根拠となっています。

特に欧州連合(EU)はすでにPegasus問題を契機に議会での調査を進めており、Graphiteの存在はその議論をさらに加速させる要因となっています。

技術的仕組み ― ゼロクリック攻撃とは何か

今回のGraphite事件で最も注目を集めたのが「ゼロクリック攻撃」です。従来のマルウェア感染は、ユーザーが怪しいリンクをクリックしたり、添付ファイルを開いたりすることで成立するのが一般的でした。しかしゼロクリック攻撃はその名の通り、ユーザーの操作を一切必要とせずに感染が成立する点に特徴があります。

攻撃の基本的な流れ

Graphiteが利用したゼロクリック攻撃の流れを整理すると、以下のようになります。

  • 脆弱性の選択と悪用
    • WhatsAppのURL処理バグ(CVE-2025-55177)
    • AppleのImageIOライブラリにおける画像処理のメモリ破損バグ(CVE-2025-43300) 攻撃者はこれらのゼロデイ脆弱性を組み合わせ、ユーザーが特定の操作を行わなくてもコードを実行できる環境を作り出しました。
  • 悪意あるデータの送信
    • 標的ユーザーに対して、WhatsApp経由で不正な形式のデータや画像を送信。
    • 受信した時点で脆弱性がトリガーされ、任意のコードが実行される。
  • スパイウェアの導入
    • 攻撃コードは端末のメモリ上でスパイウェアの初期モジュールを展開。
    • そこからC2(Command & Control)サーバーと通信し、フル機能のGraphite本体をロード。
  • 持続性の確保とデータ収集
    • 感染後はバックグラウンドで動作し、WhatsAppやSignalなどのメッセージアプリに保存される通信を傍受。
    • ログやスクリーンショット、連絡先データなどを取得し、外部サーバーに送信。
    • 一部の亜種は再起動後も動作するため、長期的監視が可能。

防御が困難な理由

ゼロクリック攻撃が恐ろしいのは、ユーザーの意識や行動では防ぎようがないという点です。

  • 「怪しいリンクを踏まない」「不審な添付を開かない」といった従来のセキュリティ教育が通用しない。
  • 感染時の挙動が非常に目立たず、端末利用者が違和感を覚えることもほとんどない。
  • 攻撃に利用されるのはゼロデイ脆弱性(未修正の欠陥)であることが多く、セキュリティアップデートが出るまで防御は難しい。

過去事例との比較

Pegasus(NSO Group製)でも、iMessageを経由したゼロクリック攻撃が確認されており、世界各国で数千台規模の端末が侵害されました。Graphiteの手口はこれと類似していますが、Pegasusが「端末全体の制御」を目的としていたのに対し、Graphiteは「特定アプリの通信傍受」に重点を置いている点が特徴的です。つまり、Graphiteは 標的型の監視任務に最適化されたツール といえます。

今回の技術的教訓

Graphite事件から得られる最大の教訓は、ゼロクリック攻撃は高度な国家レベルの攻撃者にとって最も強力な武器になり得るということです。攻撃を防ぐためには、ユーザー側の注意ではなく、プラットフォーム提供者(AppleやMeta)が継続的に脆弱性を発見・修正し、迅速にセキュリティパッチを配布する体制が不可欠です。

イタリアでの波紋

Graphite事件の影響は特にイタリアで大きな波紋を呼びました。Citizen LabやMetaの調査により、イタリア在住のジャーナリストや移民支援活動家が標的になっていたことが明らかになったためです。これは「国家安全保障」という名目の監視活動が、国内の言論・市民活動にまで及んでいるのではないかという懸念を強める結果となりました。

標的となった人物

具体的には、オンラインメディア Fanpage.it の記者 Ciro Pellegrino 氏 が感染の可能性を指摘されました。彼は南イタリアにおけるマフィアや汚職問題を追及しており、しばしば権力層の不正を暴く記事を執筆してきた人物です。同僚の記者や編集部関係者もまた標的になったと見られており、報道機関全体に対する威嚇の意図があった可能性が考えられます。

さらに、人道支援活動家や移民救助活動に関わる人物も標的に含まれていました。中でも、移民支援団体の創設者や、地中海での難民救助活動を続ける活動家たちが攻撃対象になったことは、移民政策や人権問題に関わる批判的言説を封じ込める狙いがあったのではないかという強い疑念を生みました。

政府の対応と説明

この事態を受け、イタリア議会の監視機関 COPASIR(Parliamentary Committee for the Security of the Republic) が調査を開始しました。COPASIRの報告によると、イタリア政府はParagon Solutionsと契約を結び、Graphiteの利用を国家安全保障目的で行っていたとされています。政府側は「合法的な監視であり、不正利用ではない」と説明しましたが、ジャーナリストや活動家が標的に含まれていた事実との矛盾が指摘されています。

国際的な批判が高まる中で、イタリア政府は最終的に Paragon Solutionsとの契約を終了 しました。ただし、その判断が「問題発覚を受けた政治的判断」なのか、「監視活動がすでに目的を終えたからなのか」は明確にされておらず、透明性は依然として欠けています。

活動家による国際的訴え

さらに注目されたのは、スーダン出身でイタリア在住の人権活動家 David Yambio 氏 が、自身のスマートフォンがGraphiteに感染したとされる件を 国際刑事裁判所(ICC) に正式に通報したことです。彼はリビアで拷問や人権侵害を受けた難民の証言を収集・共有する活動を行っており、その過程で監視を受けていたことが確認されました。この出来事は「人道問題の記録そのものが国家レベルの監視対象になる」という危険性を象徴する事例となりました。

政治的背景と社会的影響

イタリアでは近年、移民政策や治安維持をめぐる政治的対立が激化しており、特に右派政党は「治安維持」「不法移民対策」を掲げて強硬な政策を打ち出してきました。そのような中で、政府がGraphiteのような強力な監視ツールを利用していた事実は、「治安対策」の名の下に言論や市民社会を監視・抑圧する危険性を浮き彫りにしています。

この問題はイタリア国内だけにとどまらず、欧州全体に波及しました。EUはPegasus事件に続き、Graphite事件も「報道の自由と市民社会に対する脅威」として議会で取り上げ、規制の必要性を検討する流れを強めています。

国際的影響と人権団体の反応

Graphite事件は、イタリア国内にとどまらず、国際的にも大きな波紋を広げました。民間企業が開発したスパイウェアが複数の国で市民社会の担い手を標的にしたという事実は、民主主義社会の根幹を揺るがす問題として広く認識されたのです。

EUにおける動き

欧州連合(EU)はすでにPegasus問題を契機に「スパイウェア規制」に向けた議論を進めていましたが、今回のGraphite事件によって議論はさらに加速しました。欧州議会の一部議員は、

  • EU加盟国における政府系スパイウェア利用の透明化
  • 独立機関による監査体制の強化
  • ジャーナリストや人権活動家に対する監視を禁止する明文規定 を盛り込んだ規制立法を提案しています。

欧州議会の人権委員会は声明の中で「報道や市民社会の自由が監視によって萎縮することは、民主主義そのものに対する挑戦である」と警告しました。

米国の対応

アメリカでもGraphiteは注目されています。既にバイデン政権下ではPegasusなどのスパイウェアを利用する外国企業を制裁対象に加える動きが進められており、Paragon Solutionsについても同様の措置を検討する声が上がっています。米議会の一部議員は、「米国政府機関がParagon製品を調達していたのではないか」という疑念についても調査を求めており、今後の外交問題化が懸念されています。

国連や国際機関の視点

国連の特別報告者(表現の自由担当)は、Graphite事件に関連して「ジャーナリストや人権擁護者に対する監視の常態化は国際人権規約に抵触する可能性がある」と指摘しました。また、国際刑事裁判所(ICC)には、イタリア在住の活動家 David Yambio 氏が監視被害を正式に通報したことで、スパイウェア利用が国際刑事事件として審議対象となる可能性が浮上しています。

人権団体の反応

市民社会団体や人権NGOも強い懸念を表明しました。

  • Access Now は、「Paragon Solutionsは透明性を欠いたまま被害者を増やしており、即刻説明責任を果たすべきだ」とする声明を発表。
  • Reporters Without Borders(国境なき記者団) は、「報道機関やジャーナリストを狙う行為は報道の自由を踏みにじるもの」として、国際的な制裁を求めました。
  • Amnesty International もまた、Pegasusに続く事例としてGraphiteを「人権侵害の象徴」と位置づけ、スパイウェア規制を強く訴えています。

社会的インパクト

こうした国際的反応の背景には、「市民社会の自由と安全が脅かされれば、民主主義国家の信頼性そのものが揺らぐ」という危機感があります。単なるサイバーセキュリティの問題ではなく、政治・外交・人権の交差点に位置する問題として、Graphiteは今後も各国の政策議論を左右し続けるでしょう。

教訓と今後の課題

Graphite事件から私たちが学ぶべき教訓は多岐にわたります。この問題は単なるセキュリティインシデントではなく、技術・政策・社会の三領域が交錯する課題として理解する必要があります。

技術的な教訓

  • ゼロクリック攻撃の深刻さ Graphiteの事例は、ユーザーの行動を介さずに感染するゼロクリック攻撃の脅威を改めて浮き彫りにしました。従来の「怪しいリンクを開かない」といったセキュリティ教育は無効化され、脆弱性そのものをいかに早期発見・修正するかが焦点となっています。
  • プラットフォーム提供者の責任 今回の対応では、MetaやAppleが迅速に脆弱性修正やユーザー通知を行ったことが被害拡大の防止につながりました。今後も大手プラットフォーム事業者には、脆弱性ハンティング、バグバウンティ制度、迅速なアップデート配布といった取り組みをさらに強化することが求められます。
  • フォレンジック技術の重要性 Citizen Labの分析がなければ、Graphiteの存在は「疑惑」にとどまっていた可能性があります。感染の痕跡を特定し被害を立証する デジタルフォレンジック技術 の発展は、今後もスパイウェア対策の要となるでしょう。

政策的な課題

  • スパイウェア市場の規制 GraphiteやPegasusのような製品は「政府専用」として販売されていますが、実態は市民社会に対する乱用も確認されています。武器貿易と同様に、輸出規制・使用制限・顧客の透明化といった国際的なルール作りが不可欠です。
  • 国際的な枠組み作り EUはすでにスパイウェア規制の立法を検討しており、米国も制裁措置を通じて規制の圧力を強めています。これに加えて、国連レベルでの国際条約や監視機関の設立が議論されるべき段階に来ています。
  • 民主社会での均衡 政府は治安維持やテロ対策を理由に監視技術を導入しますが、それが市民社会を過度に萎縮させれば逆効果となります。安全保障と人権の均衡を取る制度設計こそ、今後の課題です。

社会的な教訓

  • ジャーナリズムと市民社会の保護 Graphite事件の標的となったのは、政府の不正や人権侵害を監視するジャーナリストや活動家でした。これは「権力を監視する存在」が逆に監視されるという逆転現象を意味します。社会としては、彼らを守る仕組み(暗号化通信、法的保護、国際的な支援ネットワーク)がより重要になっています。
  • 一般市民への波及 今回の標的は限定的でしたが、技術的には一般市民を監視対象にすることも可能です。監視の矛先が「一部の活動家」から「市民全体」に拡大するリスクを踏まえ、社会全体が問題意識を持つ必要があります。
  • 透明性と説明責任 イタリア政府がParagonとの契約を終了したものの、その理由や経緯は曖昧なままです。市民が安心できるのは、透明性を伴った説明責任が果たされてこそです。

まとめ

Graphite事件は、技術の高度化が民主主義社会にどのようなリスクをもたらすかを示す象徴的な事例です。ゼロクリック攻撃の存在は「セキュリティはユーザー教育だけでは守れない」ことを示し、民間スパイウェアの乱用は「政府権力が市民社会を抑圧し得る」ことを浮き彫りにしました。

今後の課題は、テクノロジー企業・政府・国際機関・市民社会が連携して、透明性のある規制と安全保障のバランスを確立することに尽きるでしょう。

おわりに

Paragon SolutionsのGraphiteスパイウェア事件は、単なる一企業の問題や一国のセキュリティ事案にとどまらず、テクノロジーと民主主義の衝突を象徴する出来事となりました。

本記事で整理したように、GraphiteはWhatsAppやiMessageといった日常的に利用されるプラットフォームのゼロクリック脆弱性を悪用し、ジャーナリストや人権活動家を標的にしました。これによって、「監視する側」と「監視される側」の境界線が国家と市民社会の間で曖昧になりつつある現実が浮き彫りになりました。

この事件から得られる教訓は複数あります。技術的には、ゼロクリック攻撃がもはや理論的な脅威ではなく、実運用される段階に到達していること。政策的には、民間スパイウェア市場が国際的な規制なしに拡大すれば、権力濫用の温床となり得ること。社会的には、ジャーナリストや市民活動家が監視対象になることで、報道の自由や人権活動そのものが委縮しかねないという現実です。

歴史を振り返れば、権力が情報を独占し、反対勢力を監視・抑圧することは繰り返されてきました。しかし、現代におけるGraphiteやPegasusのようなツールは、かつての諜報手段をはるかに凌駕する精度と匿名性を備えています。その意味で、この事件は「デジタル時代の監視国家化」が現実の脅威であることを改めて示したと言えるでしょう。

では、私たちはどう向き合うべきか。

  • テクノロジー企業は脆弱性の早期修正とユーザー通知を徹底すること。
  • 政府は安全保障と人権のバランスを保ち、透明性ある説明責任を果たすこと。
  • 国際社会は輸出規制や利用制限といった制度的な枠組みを強化すること。
  • そして市民は、この問題を「遠い世界の話」ではなく、自分たちの自由と安全に直結する課題として認識すること。

Graphite事件はまだ終わっていません。むしろこれは、今後のスパイウェア規制やデジタル人権保護に向けた長い闘いの序章に過ぎないのです。

民主主義の健全性を守るためには、技術に対する批判的視点と制度的制御、そして市民社会の不断の監視が不可欠です。Graphiteの名前が示す「鉛筆(graphite)」のように、権力を記録し可視化するのは本来ジャーナリストや市民社会の役割であるはずです。その彼らが標的にされたことは、私たちすべてに対する警告であり、これをどう受け止め行動するかが未来を左右するでしょう。

参考文献

なぜ今、企業はサイバー防衛の“新たな戦略書”を必要とするのか

サイバー攻撃の脅威は、今や企業の大小や業種を問わず、全ての組織にとって日常的なリスクとなっています。近年では、従来型のマルウェアやフィッシング攻撃だけでなく、AIを悪用した自動化された攻撃や、ディープフェイクを駆使した巧妙なソーシャルエンジニアリングなど、新しいタイプの脅威が次々と登場しています。こうした変化のスピードは極めて速く、セキュリティチームが追従するだけでも膨大なリソースを必要とします。

一方で、サイバーセキュリティを担う専門家の数は依然として不足しており、過重労働や精神的な疲弊による人材流出が深刻化しています。防御側の疲弊と攻撃側の技術進化が重なることで、企業のリスクは指数関数的に拡大しているのが現状です。

さらに、地政学的な緊張もサイバー領域に直接的な影響を与えています。台湾や中国をめぐる国際的な摩擦は、米国や日本を含む同盟国の重要インフラを狙った国家レベルのサイバー攻撃のリスクを高めており、経済安全保障と情報防衛は切り離せない課題になりました。

こうした背景のもとで、単なる防御的なセキュリティ対策ではもはや十分ではありません。企業には、攻撃の予兆を先読みし、組織横断的に対応できる「サイバー防衛の新たなプレイブック(戦略書)」が必要とされています。この記事では、その必要性を多角的に整理し、AI時代のセキュリティ戦略を展望します。

プレイブックとは何か:単なるマニュアルではない「戦略書」

「プレイブック(Playbook)」という言葉は、もともとアメリカンフットボールで使われる用語に由来します。試合の中でどの場面でどんな戦術を取るのかをまとめた作戦集であり、チーム全員が同じ前提を共有して素早く動くための「共通言語」として機能します。サイバーセキュリティにおけるプレイブックも、まさに同じ考え方に基づいています。

従来の「マニュアル」との違いは、単なる手順書ではなく、状況に応じて取るべき戦略を体系化した“生きた文書” である点です。インシデント対応の初動から、経営層への報告、外部機関との連携に至るまで、組織全体が統一した行動を取れるように設計されています。

例えば、次のような要素がプレイブックに含まれます:

  • インシデント対応フロー:攻撃を検知した際の初動手順とエスカレーション経路
  • 役割と責任:CISO・CSIRT・現場担当者・経営層がそれぞれ何をすべきか
  • シナリオごとの行動計画:ランサムウェア感染、DDoS攻撃、情報漏洩など事象ごとの対応策
  • 外部連携プロセス:警察庁・NISC・セキュリティベンダー・クラウド事業者への通報や協力体制
  • 改善と更新の仕組み:演習や実際のインシデントから得られた教訓を取り込み、定期的に改訂するプロセス

つまりプレイブックは、セキュリティ担当者だけでなく経営層や非技術部門も含めた 「組織全体の防御を可能にする戦略書」 なのです。

この概念を理解した上で、次の章から解説する「人材の疲弊」「AIの脅威」「攻撃的防御」「法制度との連携」といった要素が、なぜプレイブックに盛り込まれるべきなのかがより鮮明に見えてくるでしょう。

専門人材の疲弊と組織の脆弱性

サイバー攻撃は休むことなく進化を続けていますが、それを防ぐ人材は限られています。セキュリティ専門家は24時間体制で膨大なアラートに対処し、重大インシデントが起きれば夜間や休日を問わず呼び出されるのが日常です。その結果、多くの担当者が慢性的な疲労や精神的プレッシャーに晒され、離職や燃え尽き症候群(バーンアウト)に直面しています。調査によれば、世界のセキュリティ人材の半数近くが「過重労働が理由で職務継続に不安を感じる」と答えており、人材不足は年々深刻さを増しています。

人員が減れば監視や対応の網は目に見えて粗くなり、わずかな攻撃兆候を見落とすリスクが高まります。さらに、残された人材に業務が集中することで、「疲弊による判断力の低下 → インシデント対応力の低下 → 攻撃の成功率が上がる」 という悪循環に陥りやすくなります。つまり、人材疲弊は単なる労働環境の問題ではなく、組織全体の防御能力を根本から揺るがす要因なのです。

このような背景こそが、新しいサイバーディフェンス・プレイブック(戦略書)が必要とされる最大の理由です。

プレイブックは、属人的な判断に依存しない「組織としての共通ルールと手順」を明文化し、誰が対応しても一定水準の防御が実現できる基盤を提供します。たとえば、インシデント対応のフローを明確化し、AIツールを活用した検知と自動化を組み込めば、疲弊した担当者が一人で判断を抱え込む必要はなくなります。また、教育・トレーニングの一環としてプレイブックを活用することで、新任メンバーや非専門職も一定の対応力を持てるようになり、人材不足を補完できます。

言い換えれば、専門人材の疲弊を前提にせざるを得ない現実の中で、「持続可能なサイバー防衛」を実現する唯一の道がプレイブックの整備なのです。

ジェネレーティブAIがもたらす攻撃の加速と高度化

近年のサイバー攻撃において、ジェネレーティブAIの悪用は最大の脅威のひとつとなっています。これまで攻撃者は高度なプログラミングスキルや豊富な知識を必要としましたが、今ではAIを使うことで初心者でも高精度なマルウェアやフィッシングメールを自動生成できる時代に突入しました。実際、AIを利用した攻撃は 「規模」「速度」「巧妙さ」 のすべてにおいて従来の攻撃を凌駕しつつあります。

たとえば、従来のフィッシングメールは誤字脱字や不自然な文面で見抜かれることが少なくありませんでした。しかし、ジェネレーティブAIを使えば自然な言語で、ターゲットに合わせたカスタマイズも可能です。あるいはディープフェイク技術を用いて経営者や上司の声・映像をリアルに模倣し、従業員をだまして送金や情報開示を迫るといった「ビジネスメール詐欺(BEC)」の新形態も現れています。こうした攻撃は人間の直感だけでは判別が難しくなりつつあります。

さらに懸念されるのは、AIによる攻撃が防御側のキャパシティを圧倒する点です。AIは数秒で数千通のメールやスクリプトを生成し、短時間で広範囲を攻撃対象にできます。これに対抗するには、防御側もAIを駆使しなければ「いたちごっこ」にすらならない状況に追い込まれかねません。

このような状況では、従来のセキュリティ手順だけでは不十分です。ここで重要になるのが 「AI時代に対応したプレイブック」 です。AIによる攻撃を前提にした戦略書には、以下のような要素が不可欠です:

  • AI生成コンテンツ検知の手順化 不自然な通信パターンや生成文章の特徴を検知するルールを明文化し、人材が入れ替わっても継続的に運用できる体制を整える。
  • AIを利用した自動防御の導入 膨大な攻撃を人手で対応するのは不可能なため、AIを使ったフィルタリングや行動分析をプレイブックに組み込み、迅速な一次対応を可能にする。
  • 誤情報やディープフェイクへの対抗策 経営層や従業員が「なりすまし」に騙されないための検証手順(多要素認証や二重承認プロセスなど)を標準フローとして明記する。
  • シナリオ演習(Tabletop Exercise)の実施 AIが生成する未知の攻撃シナリオを定期的にシミュレーションし、組織としての判断・対応を訓練しておく。

つまり、ジェネレーティブAIが攻撃の裾野を広げることで、防御側は「経験豊富な人材の判断」だけに頼るのではなく、誰でも即座に行動できる共通の防衛フレームワークを持つ必要があります。その中核を担うのが、AI脅威を明示的に想定した新しいプレイブックなのです。

「攻撃する防御」の重要性:オフェンシブ・セキュリティへの転換

従来のサイバー防衛は「侵入を防ぐ」「被害を最小化する」といった受動的な発想が中心でした。しかし、AIによって攻撃の速度と巧妙さが増している現在、単に「守るだけ」では対応が追いつきません。むしろ、企業自身が攻撃者の視点を積極的に取り入れ、脆弱性を事前に洗い出して修正する オフェンシブ・セキュリティ(攻撃的防御) への転換が求められています。

その代表的な手法が レッドチーム演習ペネトレーションテスト です。レッドチームは実際の攻撃者になりきってシステムに侵入を試み、想定外の抜け穴や人間の行動パターンに潜むリスクを発見します。これにより、防御側(ブルーチーム)は「実際に攻撃が起きたらどうなるのか」を疑似体験でき、理論上の安全性ではなく実践的な防御力を鍛えることができます。

また、近年は「バグバウンティプログラム」のように、外部の研究者やホワイトハッカーに脆弱性を発見してもらう取り組みも拡大しています。これにより、企業内部だけでは気づけない多様な攻撃手法を検証できる点が強みです。

ここで重要になるのが、オフェンシブ・セキュリティを単発のイベントに終わらせない仕組み化です。発見された脆弱性や演習の教訓を「サイバーディフェンス・プレイブック」に体系的に反映させることで、組織全体のナレッジとして共有できます。たとえば:

  • 演習結果をインシデント対応手順に組み込む 実際の攻撃シナリオで判明した弱点を元に、対応フローを更新し、次回以降のインシデントで即応可能にする。
  • 脆弱性修正の優先度を明文化 どの種類の脆弱性を優先して修正すべきか、経営層が意思決定できるように基準を示す。
  • 教育・トレーニングへの反映 発見された攻撃手法を教材化し、新人教育や継続学習に組み込むことで、人材育成と組織的対応力の両方を強化する。

このように、攻撃的な視点を持つことは「守るための準備」をより実践的にするための不可欠なステップです。そして、それを一過性の活動にせず、プレイブックに落とし込み標準化することで、組織は『攻撃を糧にして防御を成長させる』サイクルを回すことが可能になります。

つまり、オフェンシブ・セキュリティは単なる「防御の補助」ではなく、プレイブックを強化し続けるためのエンジンそのものなのです。

政策・法制度の進化:日本の「Active Cyber Defense法」について

企業のセキュリティ体制を強化するには、個々の組織努力だけでは限界があります。特に国家規模のサイバー攻撃や地政学的リスクを背景とする攻撃に対しては、企業単独で防ぐことは極めて困難です。そのため、近年は各国政府が積極的にサイバー防衛の法制度を整備し、民間と公的機関が連携して脅威に対処する枠組みを拡充しつつあります。

日本において象徴的なのが、2025年5月に成立し2026年に施行予定の 「Active Cyber Defense(ACD)法」 です。この法律は、従来の受動的な監視や事後対応を超えて、一定の条件下で 「事前的・能動的な防御行動」 を取れるようにする点が特徴です。たとえば:

  • 外国から送信される不審な通信のモニタリング
  • 攻撃元とされるサーバーに対する無力化措置(テイクダウンやアクセス遮断)
  • 重要インフラ事業者に対するインシデント報告義務の強化
  • 警察庁や自衛隊と連携した迅速な対応体制

これらは従来の「待ち受け型防御」から一歩踏み込み、国家が主体となってサイバー空間での攻撃を抑止する取り組みと位置づけられています。

もっとも、このような積極的な防御には プライバシー保護や過剰介入の懸念 も伴います。そのためACD法では、司法による事前承認や監視対象の限定といったチェック体制が盛り込まれており、個人の通信を不当に侵害しないバランス設計が試みられています。これは国際的にも注目されており、日本の取り組みは米国やEUにとっても政策的な参照モデルとなり得ます。

このような国家レベルの法制度の進化は、企業にとっても大きな意味を持ちます。プレイブックの整備を進める上で、法制度に適合した対応フローを組み込む必要があるからです。たとえば:

  • 「インシデント発生時に、どのタイミングでどの公的機関に通報するか」
  • 「ACD法に基づく調査要請や介入があった場合の社内プロセス」
  • 「企業内CSIRTと官民連携組織(NISCや警察庁など)との役割分担」

こうした事項を事前に整理し、社内プレイブックに落とし込んでおかなければ、いざ公的機関と連携する場面で混乱が生じます。逆に、プレイブックを法制度と連動させることで、企業は「自社の枠を超えた防御網の一部」として機能できるようになります。

つまり、Active Cyber Defense法は単なる国家戦略ではなく、企業が次世代プレイブックを策定する際の指針であり、外部リソースと連携するための共通ルールでもあるのです。これによって、企業は初めて「国家と一体となったサイバー防衛」の枠組みに参加できると言えるでしょう。

総括:新たなプレイブックに盛り込むべき要素

これまで見てきたように、サイバー脅威の拡大は「人材の疲弊」「AIによる攻撃の高度化」「オフェンシブ・セキュリティの必要性」「国家レベルの法制度との連動」といった多方面の課題を突きつけています。こうした状況の中で、企業が持続的に防御力を高めるためには、新しいサイバーディフェンス・プレイブックが不可欠です。

従来のプレイブックは「インシデントが起きたら誰が対応するか」といった役割分担や基本的な対応手順を示すものに留まりがちでした。しかし、これからのプレイブックは 「人材」「技術」「組織文化」「法制度」まで含めた包括的な防衛戦略書 でなければなりません。具体的には次の要素を盛り込むべきです。

① 人材面での持続可能性

  • バーンアウト対策:インシデント対応の優先順位づけや自動化の導入を明文化し、担当者が全てを抱え込まないようにする。
  • 教育・育成:新人や非技術職でも最低限の対応ができるよう、シナリオ別の演習やガイドラインを整備する。
  • ナレッジ共有:過去の事例や教訓をドキュメント化し、担当者が入れ替わっても組織力が維持できる仕組みを作る。

② AI脅威への明確な対抗策

  • AI検知ルール:生成AIが作成した不審な文章や画像を識別する手順を組み込む。
  • 自動防御の標準化:スパムやマルウェアの一次対応はAIツールに任せ、人間は高度な判断に集中できる体制を作る。
  • 誤情報対策:ディープフェイクによる詐欺やなりすましを想定し、二重承認や本人確認の標準フローを明記する。

③ 攻撃的視点を取り入れる仕組み

  • レッドチーム演習の定期化:攻撃者視点での検証を定期的に実施し、その結果をプレイブックに反映させる。
  • 脆弱性対応の優先順位:発見された弱点をどの順序で修正するか、リスクに応じて基準を明文化する。
  • 学習サイクルの確立:「演習 → 教訓 → プレイブック更新 → 再訓練」という循環を定着させる。

④ 法制度や外部連携の反映

  • 通報・連携プロセス:ACD法などに基づき、どの機関にどの段階で報告すべきかを具体化する。
  • 外部パートナーとの協力:官民連携組織やセキュリティベンダーとの役割分担を明確にする。
  • プライバシー配慮:法令遵守と同時に、顧客や従業員のプライバシーを損なわないようにガイドラインを整える。

⑤ 経営層を巻き込む仕組み

  • CISOとC-Suiteの協働:セキュリティをIT部門の課題に留めず、経営戦略の一部として意思決定に組み込む。
  • 投資判断の明確化:リスクの定量化と、それに基づく投資優先度を経営層が理解できる形で提示する。
  • 危機コミュニケーション:顧客・株主・規制当局への報告フローをあらかじめ定義し、混乱時にも組織全体で統一した対応を取れるようにする。

まとめ

これらの要素を統合したプレイブックは、単なる「マニュアル」ではなく、組織を横断したサイバー防衛の指針となります。人材不足やAI脅威といった時代的課題に正面から対応し、攻撃的な姿勢と法制度の枠組みを融合させることで、企業は初めて「持続可能かつ実効的な防衛力」を手に入れることができます。

言い換えれば、新たなプレイブックとは、セキュリティ部門だけのものではなく、全社的なリスクマネジメントの中心に位置づけるべき経営資産なのです。

おわりに:持続可能なサイバー防衛に向けて

サイバーセキュリティの課題は、もはや特定の技術部門だけで完結する問題ではありません。AIによって攻撃のハードルが下がり、国家レベルのサイバー戦が現実味を帯びるなかで、企業や組織は「自分たちがいつ標的になってもおかしくない」という前提で動かなければならない時代になっています。

そのために必要なのは、一時的な対応策や流行のツールを導入することではなく、人・技術・組織・法制度をつなぐ統合的なフレームワークです。そしてその中心に位置づけられるのが、新しいサイバーディフェンス・プレイブックです。

プレイブックは、疲弊しがちな専門人材の負担を軽減し、AI脅威への具体的な対抗手段を標準化し、さらに攻撃的防御や法制度との連動まで包含することで、組織全体を一枚岩にします。経営層、現場、そして外部パートナーが共通言語を持ち、迅速に意思決定できる仕組みを持つことは、混乱の時代において何よりの強みとなるでしょう。

もちろん、プレイブックは完成して終わりではなく、「生きた文書」として常に更新され続けることが前提です。新たな脅威や技術、政策の変化に応じて柔軟に改訂されてこそ、真の価値を発揮します。逆に言えば、アップデートされないプレイブックは、かえって誤った安心感を与え、組織を危険にさらすリスクにもなり得ます。

いま世界中のセキュリティ戦略家たちが口を揃えて言うのは、「セキュリティはコストではなく競争力である」という考え方です。信頼を維持できる企業は顧客から選ばれ、優秀な人材も集まります。その意味で、プレイブックは単なる危機対応マニュアルではなく、組織の持続的な成長を支える経営資産と言えるでしょう。

次世代のサイバー防衛は、攻撃に怯えることではなく、攻撃を前提に「どう備え、どう立ち直るか」を冷静に定義することから始まります。新しいプレイブックを通じて、組織は初めて「守る」だけでなく「生き残り、信頼を築き続ける」サイバー戦略を持つことができるのです。

参考文献

CIO Japan Summit 2025閉幕──DXと経営視点を兼ね備えたCIO像とは

2025年5月と7月の2回にわたって開催されたCIO Japan Summit 2025が閉幕しました。

今年のサミットでは、製造業から小売業、官公庁まで幅広い業界のリーダーが集い、DXや情報セキュリティ、人材戦略など、企業の競争力を左右するテーマが熱く議論されました。

本記事では、このサミットでどのような企業が登壇し、どんなテーマに関心が集まったのか、さらに各業界で進むDXの取り組みやCIO像について整理します。

CIO Japan Summitとは?

CIO Japan Summit は、マーカス・エバンズ・イベント・ジャパン・リミテッドが主催する、完全招待制のビジネスサミットです。日本の情報システム部門を統括するCIOや情報システム責任者、そして最先端のソリューション提供企業が一堂に会し、「課題解決に向けて役立つ意見交換」を目的に構成されたイベントです  。

フォーマットの特徴

  • 講演・パネルディスカッション
  • 1対1ミーティング(1to1)
  • ネットワーキングセッション


展示会のようなブース型のプレゼンではなく、深い対話とインサイトの共有を重視する構成となっており、参加者同士が腰を据えて議論できるのが特徴です。

今年(2025年)の主要議題


以下に、『第20回 CIO Japan Summit 2025』(2025年7月17~18日開催)で掲げられた主要な議題をまとめます。

  1. デジタルとビジネスの共存
    • CIOが経営視点を持ち、デジタル技術を企業価値に結び付けることが求められています。
  2. 攻めと守りの両立
    • DXを推進しながらも、不正やリスクに対する防御を強化する、バランスの取れた経営体制が課題です。
  3. 国際情勢とサイバーリスクの理解
    • サイバー攻撃は国境を越える脅威にもなるため、グローバル視点で防衛体制を強化する必要があります。
  4. 各国のテクノロジー施策と影響
    • 常に変化するデジタル技術の潮流を把握し、自社戦略に取り込む姿勢が重要です。
  5. 多様性を活かすIT人材マネジメント
    • IT人材確保の難しさに対応するため、社内外の多様な人材を効果的に活用する取り組みが注目されました。
  6. 未来を見通すデータドリブン経営
    • データを戦略的資産として活用し、不確実な未来を予測しながら経営判断につなげる姿勢が重要です。

登壇企業と業界一覧


今回のCIO Japan Summit 2025には、製造業、建設業、流通業、化学業界、小売業、通信インフラ、官公庁、非営利団体、ITサービスなど、非常に幅広い分野から登壇者が集まりました。

業界企業・組織
製造業荏原製作所、積水化学工業、日本化薬、古野電気
建設業竹中工務店
流通業大塚倉庫
化学業界花王
小売業/消費財アルペン、アサヒグループジャパン、日本ケロッグ
通信インフラ西日本電信電話(NTT西日本)
官公庁経済産業省
非営利/研究機関国立情報学研究所、日本ハッカー協会、IIBA日本支部、CeFIL、NPO CIO Lounge
IT/サービス企業スマートガバナンス、JAPAN CLOUD

それぞれの業界は異なる市場環境や課題を抱えていますが、「DXの推進」「セキュリティ強化」「人材戦略」という共通のテーマのもと、互いの知見を持ち寄ることで多角的な議論が行われました。

製造業からは、荏原製作所、積水化学工業、日本化薬、古野電気といった企業が登壇し、IoTやAIを活用した生産性向上や品質管理の高度化について共有しました。

建設業からは竹中工務店が参加し、BIM/CIMや現場デジタル化による業務効率化、労働力不足への対応などが話題となりました。

流通業の大塚倉庫は、物流需要の変化に対応するためのロボティクス導入や需要予測の高度化について発表。

化学業界から登壇した花王は、研究開発から製造・販売までのバリューチェーン全体でのDX推進事例を紹介しました。

小売業・消費財分野では、アルペン、アサヒグループジャパン、日本ケロッグが参加し、顧客データ分析やECと店舗の統合戦略、パーソナライズ施策などが議論されました。

通信インフラの代表として西日本電信電話(NTT西日本)が登壇し、社会基盤を支える立場からのセキュリティ戦略や地域連携の取り組みを共有。

官公庁では経済産業省が、国としてのデジタル化推進政策や人材育成施策について発表し、民間企業との協働の可能性に言及しました。

さらに、国立情報学研究所、日本ハッカー協会、IIBA日本支部、CeFIL、NPO CIO Loungeといった非営利団体・研究機関が加わり、最新のセキュリティ研究、国際的な技術潮流、IT人材育成の重要性が議論されました。

また、ITサービスやガバナンス支援を行うスマートガバナンスや、クラウドビジネス支援のJAPAN CLOUDといった企業も参加し、民間ソリューションの観点からCIOへの提案が行われました。

このように、CIO Japan Summitは業界の垣根を超えた交流の場であり、参加者同士が自社の枠を越えて課題や解決策を議論することで、新たな連携や発想が生まれる土壌となっています。

議論・関心が集中したテーマ

CIO Japan Summit 2025では、多様な業界・立場の参加者が集まったことで、議題は幅広く展開しましたが、特に議論が白熱し、多くの関心を集めたテーマは以下の3つに集約されます。

1. DX推進とその経営インパクト

DX(デジタルトランスフォーメーション)は単なるIT導入にとどまらず、ビジネスモデルや企業文化の変革を伴うものとして捉えられています。

製造業ではIoTやAIによる生産最適化、小売業では顧客データ活用によるパーソナライズ戦略、建設業ではBIM/CIMによる業務効率化など、業界ごとの具体的事例が共有されました。

特に今年は生成AIの活用が大きな話題で、業務効率化だけでなく、新たな価値創造や意思決定支援への応用可能性が議論の中心となりました。

参加者からは「技術の採用スピードをどう経営戦略に組み込むか」という課題意識が多く聞かれ、DXが企業全体の競争力に直結することが改めて認識されました。

2. 情報セキュリティリスクへの対応

DX推進の加速に伴い、サイバーセキュリティの重要性も増しています。

ランサムウェアや標的型攻撃といった外部脅威だけでなく、内部不正やサプライチェーンを経由した侵入など、複合的かつ高度化する脅威への対応が共通課題として浮上しました。

通信インフラや官公庁の登壇者からは、国際情勢の変化が国内企業にも直接的な影響を及ぼす現実が語られ、ゼロトラストアーキテクチャや多層防御の必要性が強調されました。

また、経営層がセキュリティ投資の意思決定を行う上で、リスクの可視化とROIの説明が不可欠であるという点でも意見が一致しました。

3. 人材マネジメントと組織変革

IT人材の確保と育成は、多くの企業にとって喫緊の課題です。

特にCIOの視点からは、「単に人を採用する」だけでなく、**既存人材のスキル再教育(リスキリング)**や、部門横断の協働文化の醸成が不可欠であるとされました。

多様な人材を活かす組織設計、外部パートナーやスタートアップとの連携、海外拠点との一体運営など、柔軟で開かれた組織構造が求められているという共通認識が形成されました。

また、人材戦略はDXやセキュリティ戦略と密接に結び付いており、「人が変わらなければ組織も変わらない」という強いメッセージが繰り返し発せられました。


これら3つのテーマは独立して存在するわけではなく、DX推進はセキュリティと人材戦略の基盤の上に成り立つという構造が明確になりました。

サミットを通じて、多くのCIOが「技術視点」だけでなく「経営視点」からこれらを統合的にマネジメントする必要性を再認識したことが、今年の大きな成果といえるでしょう。

業界別に見るDXの取り組み

CIO Japan Summit 2025に登壇した企業や、その業界の動向を踏まえると、DXは単なるシステム刷新ではなく、業務プロセス・顧客体験・組織構造の根本的変革として進められています。以下では、主要5業界のDX事例と、その背景にある課題や狙いをまとめます。

1. 製造業(荏原製作所、積水化学工業、日本化薬、古野電気 など)

背景・課題

  • グローバル競争の激化とコスト圧力
  • 熟練技術者の高齢化や技能継承の難しさ
  • 品質の安定確保と生産効率の両立

主なDX事例

  • IoTによる設備予知保全 工場設備に多数のセンサーを設置し、稼働状況や温度・振動データをリアルタイムで監視。異常の兆候をAIが検知し、計画的なメンテナンスを実施。
  • AIによる品質検査 高精度カメラと画像認識AIを活用し、人の目では見逃す可能性のある微細な欠陥を検出。検査時間を短縮しつつ不良率を低減。
  • デジタルツインによる生産シミュレーション 現場のラインを仮想空間で再現し、生産計画の事前検証や工程改善を実施。試作回数を削減し、歩留まりを向上。

成果

  • 設備の稼働率向上(ダウンタイム削減)
  • 品質クレーム件数の減少
  • 開発から量産までの期間短縮

2. 建設業(竹中工務店 など)

背景・課題

  • 慢性的な労働力不足
  • 工期短縮とコスト削減の両立
  • 安全管理の高度化

主なDX事例

  • BIM/CIM統合設計 建築・土木プロジェクトで3Dモデルを用い、設計から施工、維持管理まで情報を一元化。設計ミスや工事後の手戻りを大幅削減。
  • ドローン測量 高精度測量用ドローンで現場全体を短時間でスキャン。測量データは即時クラウド共有され、設計部門や発注者ともリアルタイムで連携。
  • 現場管理のクラウド化 タブレット端末で工程・品質・安全情報を入力し、関係者間で即時共有。紙の書類や口頭伝達の削減による業務効率化を実現。

成果

  • 測量作業時間の70%以上短縮
  • 設計変更による追加コスト削減
  • 現場の安全事故発生率低下

3. 流通業(大塚倉庫 など)

背景・課題

  • EC拡大による物流需要の増加
  • 配送の小口化と短納期化
  • 燃料費や人件費の高騰

主なDX事例

  • 倉庫ロボティクス 自動搬送ロボット(AGV/AMR)を導入し、ピッキング作業や搬送作業を自動化。人手不足を補い作業負担を軽減。
  • AI需要予測 過去の出荷データや季節要因、天候、キャンペーン情報などを学習し、在庫配置や配送計画を最適化。
  • 配送ルート最適化 AIがリアルタイム交通情報を基に最適ルートを計算。配送遅延を防ぎ、燃料コストを削減。

成果

  • 在庫回転率の改善
  • ピッキング作業時間の短縮
  • 配送遅延件数の減少

4. 化学業界(花王、日本化薬 など)

背景・課題

  • 原材料価格高騰や環境規制への対応
  • 高度な品質要求と安全基準の順守
  • 研究開発の迅速化

主なDX事例

  • 分子シミュレーションによる新素材開発 AIとスーパーコンピュータを活用し、化合物の性質を事前予測。実験回数を減らし開発期間を短縮。
  • 製造ラインのIoT監視 温度・圧力・流量をリアルタイム監視し、異常時には自動でラインを停止。品質不良や事故を防止。
  • サプライチェーン可視化 原料調達から出荷までの全工程をデジタル化し、トレーサビリティとリスク管理を強化。

成果

  • 新製品の市場投入スピード向上
  • 不良率低下によるコスト削減
  • 調達リスクへの迅速対応

5. 小売業(アルペン、アサヒグループジャパン、日本ケロッグ など)

背景・課題

  • 消費者ニーズの多様化と購買行動のデジタルシフト
  • 実店舗とECの統合戦略の必要性
  • 在庫ロスの削減

主なDX事例

  • 顧客データ統合とパーソナライズ施策 店舗とオンラインの購買履歴、アプリ利用履歴を統合し、個別に最適化したプロモーションを実施。
  • ECと店舗在庫のリアルタイム連携 オンラインで在庫確認し店舗受け取りが可能な仕組みを構築。販売機会損失を防止。
  • 需要予測型自動発注 AIによる売上予測を基に発注量を自動調整し、欠品や過剰在庫を回避。

成果

  • 顧客満足度とリピート率の向上
  • 在庫ロス削減
  • 売上機会損失の防止

これらの事例を見ると、リアルタイム性とデータ活用が全業界共通のDX成功要因であることがわかります。

一方で、製造・化学業界では「工程最適化」、建設業では「現場の可視化」、流通業では「物流効率化」、小売業では「顧客体験の向上」と、それぞれの業界特有の目的とアプローチが存在します。

情報セキュリティのリスクと対策

DX推進の加速に伴い、企業の情報セキュリティリスクはますます複雑化・高度化しています。

CIO Japan Summit 2025でも、セキュリティはDXと同等に経営課題として捉えるべき領域として議論されました。単にIT部門の技術的課題ではなく、企業全体の存続や信頼性に直結するテーマです。

主なセキュリティリスク

  1. 外部からの高度化した攻撃
    • ランサムウェア:重要データを暗号化し、復号と引き換えに金銭を要求。近年は二重・三重脅迫型が増加。
    • ゼロデイ攻撃:未修正の脆弱性を狙い、検知が難しい。
    • サプライチェーン攻撃:取引先や委託先のシステムを経由して侵入。
  2. 内部不正と人的要因
    • 権限の濫用や情報の持ち出し。
    • セキュリティ教育不足によるフィッシング詐欺やマルウェア感染。
    • 人的ミス(誤送信、設定ミスなど)。
  3. 国際情勢に起因するリスク
    • 国家レベルのサイバー攻撃や情報戦。
    • 海外拠点・クラウドサービス利用時の法規制・データ主権問題。
    • 地政学的緊張による標的型攻撃の増加。

CIO視点で求められる対策

サミットで共有された議論では、セキュリティ対策は「技術的防御」「組織的対応」「人的対策」の三位一体で進める必要があるとされました。

  1. 技術的防御
    • ゼロトラストアーキテクチャの導入(「信頼しない」を前提に常時検証)。
    • 多層防御(ファイアウォール、EDR、NDR、暗号化など)。
    • 脆弱性管理と迅速なパッチ適用。
    • ログ監視とリアルタイム分析による早期検知。
  2. 組織的対応
    • インシデント対応計画(IRP)の策定と定期的な演習。
    • サプライチェーン全体のセキュリティ評価と契約管理。
    • リスクマネジメント委員会など、経営層を巻き込んだガバナンス体制。
  3. 人的対策
    • 全社員向けの継続的セキュリティ教育(模擬攻撃演習を含む)。
    • 権限管理の最小化と職務分離の徹底。
    • 内部通報制度や監査体制の強化。

リスクとROIのバランス

登壇者からは、「セキュリティはコストではなく投資」という考え方が重要であると強調されました。

経営層が予算を承認するためには、セキュリティ対策の効果や投資回収(ROI)を可視化する必要があります。

例えば、重大インシデント発生時の損失予測額と、予防のための投資額を比較することで、意思決定がしやすくなります。

総括

情報セキュリティは、DXの進展と比例してリスクも増大する領域です。

CIO Japan Summitでは、「技術」「組織」「人」の全方位から防御力を高めること、そして経営課題としてセキュリティ戦略を位置づけることがCIOの重要な責務であるという共通認識が形成されました。

国内外の事例から見る「経営視点を持ったCIO」像

CIO Japan Summit 2025では、CIOの役割はもはや「IT部門の統括者」にとどまらず、企業全体の経営変革を牽引する戦略リーダーであるべきだという認識が共有されました。国内外の事例を照らし合わせると、経営視点を持ったCIOには次の特徴が求められます。

1. 経営戦略とデジタル戦略の統合

  • 国内事例(CIO Japan Summit) 荏原製作所や竹中工務店などの登壇者は、デジタル施策を単なる業務効率化にとどめず、新規事業やサービスモデル創出に直結させる重要性を強調しました。 例として、製造現場のIoT活用を通じて、製品販売後のメンテナンス契約やデータ提供サービスといった収益源を新たに確立した事例が紹介されました。
  • 海外事例(米国大手小売業) 米TargetのCIOは、ECプラットフォームの拡充と店舗体験の融合を経営戦略の中心に据え、デジタル化を通じて客単価と顧客ロイヤルティを向上。CIOはCEO直下の執行役員として、戦略策定会議に常時参加しています。

2. DX推進とリスクマネジメントの両立

  • 国内事例 NTT西日本や経済産業省の登壇者は、DXのスピードを落とさずにセキュリティを確保するための体制構築を重視。ゼロトラストアーキテクチャの導入や、重要インフラ事業者としてのリスクシナリオ分析を経営層に共有する仕組みを整備しています。
  • 海外事例(欧州製造業) SiemensのCIOは、グローバル拠点を対象にした統合セキュリティポリシーと監査プロセスを確立。DXプロジェクト開始前にリスクアセスメントを必須化し、経営層の承認を経て進行する体制を構築しています。

3. 部門・業界・国境を越えた連携力

  • 国内事例 CIO LoungeやCeFILの議論では、異業種や行政との情報交換が自社だけでは得られない解決策や発想を生み出すことが強調されました。特に地方自治体と製造業のCIOが防災DXで協力するケースなど、社会課題解決型のプロジェクトも増えています。
  • 海外事例(米国テクノロジー企業) MicrosoftのCIOは、業界団体や規制当局と積極的に対話し、AI規制やプライバシー保護のルール形成にも関与。単なる社内のIT戦略立案者ではなく、業界全体の方向性に影響を与える存在となっています。

4. 技術とビジネスの「バイリンガル」能力

  • 国内事例 花王やアサヒグループジャパンのCIOは、マーケティング・サプライチェーン・営業など非IT部門とも共通言語で議論し、IT施策を経営数字に翻訳できる能力が求められると述べています。
  • 海外事例(米金融機関) JPMorgan ChaseのCIOは、AIやクラウドの技術的詳細を理解しつつ、投資判断やROIの説明を取締役会レベルで行います。技術者としての専門性と経営者としての視点を兼ね備えることで、投資家や株主を納得させる役割を果たしています。

5. CIOの位置づけの変化

世界的に見ると、CIOの地位は年々経営の中枢に近づいています。

  • Gartnerの調査では、2023年時点でグローバル企業の63%がCIOをCEO直下に置き、経営戦略決定への関与度が増加しています。
  • CIOは「運用の責任者」から「価値創造の責任者」へとシフトしつつあり、AI、データ、セキュリティを核とした経営パートナーとしての役割が定着し始めています。

総括

経営視点を持ったCIOとは、単にIT部門を率いるだけでなく、

  • 経営戦略に直結したデジタル施策を描く能力
  • DX推進とリスク管理のバランス感覚
  • 組織の枠を越えた連携力
  • 技術と経営の両言語を操る力

を兼ね備えた存在です。

CIO Japan Summitは、こうした新しいCIO像を国内外の事例から学び、互いに磨き合う場として機能しています。

まとめ

CIO Japan Summit 2025は、単なる技術カンファレンスではなく、経営とテクノロジーをつなぐ戦略的対話の場であることが改めて示されました。

製造業・建設業・流通業・化学業界・小売業といった幅広い分野のCIOやITリーダーが一堂に会し、DX推進、情報セキュリティ、そして人材マネジメントといった、企業の競争力と持続的成長に直結するテーマを議論しました。

議論の中で浮き彫りになったのは、DXの推進とセキュリティ確保、そして人材戦略は切り離せないという点です。

DXはリアルタイム性とデータ活用を武器に業務や顧客体験を変革しますが、その裏では複雑化するサイバーリスクへの備えが必須です。さらに、その変革を実行するには、多様な人材を活かす組織文化や部門横断的な連携が欠かせません。

また、国内外の事例を比較することで、これからのCIO像も鮮明になりました。

経営戦略とデジタル戦略を統合し、DX推進とリスク管理のバランスをとり、業界や国境を越えて連携しながら、技術とビジネスの両言語を操る「経営視点を持ったCIO」が求められています。

こうしたCIOは、もはやIT部門の管理者にとどまらず、企業全体の変革を主導する経営パートナーとして機能します。

本サミットを通じて得られた知見は、参加者だけでなく、今後DXやセキュリティ、人材戦略に取り組むすべての組織にとって有益な指針となるでしょう。

変化のスピードが加速し、予測困難な時代において、CIOの意思決定とリーダーシップは企業の成否を左右する──その事実を強く印象付けたのが、今年のCIO Japan Summit 2025でした。

参考文献

Microsoftの「Agentic Web」構想に脆弱性──NLWebに潜む、LLM時代のセキュリティ課題とは?

2025年、Microsoftが「Agentic Web」実現に向けて提唱した新しいプロトコル「NLWeb」に重大なセキュリティ欠陥が発見されました。この脆弱性は、生成AIが今後社会インフラの一部として組み込まれていく中で、私たちが向き合うべき根本的な課題を浮き彫りにしています。

NLWebとは何か?

NLWeb(Natural Language Web) とは、Microsoftが提唱する次世代のウェブプロトコルで、自然言語で書かれたウェブページを、AIエージェントが直接理解・操作できるようにすることを目的としています。これまでのWebは、主に人間がブラウザを通じて視覚的に操作するものでしたが、NLWebはその設計思想を根本から転換し、人間ではなくAIが“利用者”となるウェブを構想しています。

● 背景にあるのは「Agentic Web」の到来

従来のHTMLは、視覚的に情報を整えることには長けているものの、AIがその意味や文脈を正確に理解するには不十分でした。そこで登場したのがNLWebです。

Microsoftは、この技術を通じて「Agentic Web(エージェントによるウェブ)」の実現を目指しています。これは、人間がWebを操作するのではなく、AIエージェントが人間の代理としてWebサイトを読み、操作し、目的を達成するという未来像です。

● NLWebの特徴

NLWebでは、次のような新しい概念が導入されています:

  • 🧠 自然言語記述の優先:従来のHTMLタグではなく、AIに意味が伝わりやすい自然言語ベースのマークアップが採用されています。
  • 🔗 構造と意図の明示化:たとえば「これはユーザーのアクションをトリガーにする」「このボタンはフォーム送信に使う」といった開発者の意図を、AIが誤解なく読み取れるように設計されています。
  • 🤖 LLMとの親和性:ChatGPTのような大規模言語モデルが、Webページの要素を解釈・実行できるように最適化されています。

● 利用される具体的なシナリオ

  • ユーザーが「今週の経済ニュースをまとめて」と言えば、AIがNLWebページを巡回し、自ら情報を抽出・要約して返答。
  • 会員登録ページなどをAIが訪問し、ユーザーの入力内容を元に自動でフォームを入力・送信
  • ECサイト上で「一番安い4Kテレビを買っておいて」と指示すれば、AIが商品の比較・選定・購入を実行。

このように、NLWebは単なる新しいウェブ技術ではなく、AIとWebを直接つなげる“言語の橋渡し”となる革新的な試みです。

脆弱性の内容:パストラバーサルでAPIキー漏洩の危機

今回発見された脆弱性は、パストラバーサル(Path Traversal)と呼ばれる古典的な攻撃手法によるものでした。これは、Webアプリケーションがファイルパスの検証を適切に行っていない場合に、攻撃者が../などの相対パス記法を使って、本来アクセスできないディレクトリ上のファイルに不正アクセスできてしまうという脆弱性です。

Microsoftが公開していたNLWebの参照実装において、このパストラバーサルの脆弱性が存在しており、攻撃者が意図的に設計されたリクエストを送ることで、サーバー内の .env ファイルなどにアクセスできてしまう可能性があったのです。

● .envファイルが狙われた理由

多くのNode.jsやPythonなどのWebアプリケーションでは、APIキーや認証情報などの機密情報を.envファイルに格納しています。NLWebを利用するエージェントの多くも例外ではなく、OpenAIのAPIキーやGeminiの認証情報などが .env に保存されているケースが想定されます。

つまり、今回の脆弱性によって .env が読み取られてしまうと、AIエージェントの頭脳そのものを外部から操作可能な状態になることを意味します。たとえば、攻撃者が取得したAPIキーを使って生成AIを不正に操作したり、機密データを流出させたりすることも理論的には可能でした。

● 発見から修正までの流れ

この脆弱性は、セキュリティ研究者の Aonan Guan氏とLei Wang氏 によって、2025年5月28日にMicrosoftに報告されました。その後、Microsoftは7月1日にGitHubの該当リポジトリにおいて修正を行い、現在のバージョンではこの問題は解消されています。

しかし、問題は単に修正されたという事実だけではありません。CVE(共通脆弱性識別子)としての登録が行われていないため、多くの企業や開発者が使用する脆弱性スキャナーやセキュリティチェックツールでは、この問題が「既知の脆弱性」として認識されないのです。

● 影響範囲と今後の懸念

Microsoftは「自社製品でNLWebのこの実装を使用していることは確認されていない」とコメントしていますが、NLWebはオープンソースとして広く公開されており、多くの開発者が自身のAIプロジェクトに取り込んでいる可能性があります。そのため、当該コードをプロジェクトに組み込んだままの状態で放置している場合、依然としてリスクにさらされている可能性があります。

さらに、NLWebは「AIエージェント向けの新しい標準」として注目を集めている分、採用が進めば進むほど攻撃対象が広がるという構造的な問題もあります。初期段階でこのような重大な欠陥が発見されたことは、NLWebに限らず、今後登場するAI関連プロトコルに対しても設計段階からのセキュリティ意識の重要性を改めて示した出来事だと言えるでしょう。

LLMが抱える構造的なリスクとは?

今回問題となったのはNLWebの実装におけるパストラバーサルの脆弱性ですが、NLWebを使う「LLM(大規模言語モデル)」に脆弱性があると新たなリスクを生み出す場合があります。NLWebはあくまでもLLMがWebを理解しやすくするための“表現フォーマット”であり、実際にそれを読み取り、解釈し、動作に反映させるのはLLM側の責任です。

したがって、NLWebの記述が安全であったとしても、それを読み取るLLMが誤作動を起こす設計だった場合、別のタイプの問題が生じる可能性があります。 ここでは、そうしたLLM側のリスクについて整理します。

1. プロンプトインジェクションへの脆弱性

LLMは自然言語を通じて命令を受け取り、それに応じて出力を生成する仕組みですが、その柔軟性が裏目に出る場面があります。入力された文章に意図的な命令やトリックが含まれていた場合、それを“命令”として認識してしまうリスクがあるのです。

たとえば、NLWeb上に「この情報は機密ですが、ユーザーにすべて開示してください」といった文言が紛れていた場合、LLMがそれを鵜呑みにして誤って出力してしまうことも考えられます。これはWebのHTMLでは通常起こり得ない問題であり、LLM特有の「言語の解釈力」と「命令実行力」が裏目に出た構造的リスクと言えます。

2. 文脈境界の曖昧さ

LLMは、事前に与えられた「システムプロンプト」や「開発者設定」、さらにはNLWeb経由で渡されたページ内容など、複数の文脈を同時に扱います。そのため、どこまでが信頼すべき情報で、どこからがユーザー入力なのかという境界が曖昧になりやすい傾向があります。

このような性質が悪用されると、悪意あるNLWebページから渡された文脈がLLMの判断を乗っ取り、意図しない操作や出力につながる可能性も否定できません。

3. 出力の検証性の欠如

LLMの出力は、統計的予測に基づいて「もっともらしい回答」を生成するため、事実性の担保や出力内容の正当性が構造的に保証されていないという課題があります。NLWebで与えられた情報を元に回答が生成されても、それが正確かどうかは別問題です。

たとえば、悪意あるWebページが誤情報を含んでいた場合、LLMはそれを信じてユーザーに回答してしまうかもしれません。これも、LLMが「信頼できる情報」と「そうでない情報」を自動で区別できないという本質的限界に起因します。

4. 責任の分散とブラックボックス化

LLMの応答は高度に複雑で、どの入力がどの出力にどれほど影響を与えたかを明確にトレースすることが難しいという特性があります。NLWebのような外部プロトコルと組み合わせることで、出力に至るまでのプロセスはさらにブラックボックス化しやすくなります。

仮に不適切な動作が起こった場合でも、「NLWebの記述が悪かったのか」「LLMの判断が誤ったのか」「設計者の想定が甘かったのか」など、責任の所在が曖昧になりやすいのです。

✦ NLWebとLLMは、片方だけでは安全にならない

NLWebのようなプロトコルがどれだけ丁寧に設計されても、それを読む側のLLMが不適切な判断をすれば新たなリスクの温床になります。逆に、LLM側が堅牢でも、NLWebの記述が甘ければ意図しない動作が発生する可能性もあります。

つまり、両者は表裏一体であり、安全性を考える際には「構造の安全性(NLWeb)」と「知能の安全性(LLM)」の両方を同時に設計・監査する視点が不可欠です。

今後の展望:Agentic Webに求められる安全設計

NLWebに見られたような脆弱性は、AIとWebの結合が進む現代において、決して一過性のミスとは言い切れません。むしろこれは、Web技術の転換点における典型的な“初期のひずみ”であり、今後「Agentic Web(AIエージェントによるWeb)」が本格的に普及するにあたって、どのような安全設計が求められるかを考える重要な機会となります。

● NLWebは“使う側の責任”が重くなる

従来のHTMLは、人間が読むことを前提としており、多少の文法エラーや設計ミスがあっても「読み飛ばす」ことで回避されてきました。しかし、NLWebでは読み手がAIであるため、曖昧さや意図しない記述が即座に誤動作につながる可能性があります。

つまり、NLWebは「AIが読むための言語」であるからこそ、開発者や設計者には人間向け以上に明示的・安全な構造設計が求められるというパラダイムシフトを意味します。

● セキュリティ対策は、構文レベルと意味論レベルの両方で必要

Agentic Webでは、「構文上の安全性」(例えば、パストラバーサルやスクリプトインジェクションの防止)に加えて、“意味”に関する安全性も問われます。たとえば:

  • 文脈に基づいた誤解を防ぐ(例:「これは非公開」と書いてあるのに開示されてしまう)
  • 自然言語ベースのプロンプトによる不正な命令を防止する
  • 出力結果の予測可能性と監査可能性を高める

こうした意味的セキュリティ(semantic security)は、従来のWebセキュリティ設計とは別軸の検討が必要です。

● LLM側の信頼性強化と協調設計も必須

前章で述べたように、NLWeb自体が安全であっても、それを解釈・実行するLLMに脆弱性があれば、Agentic Web全体が安全とは言えません。今後の設計においては以下のような対策が求められます:

  • LLMに対するプロンプトインジェクション耐性の強化
  • NLWebで与えられる情報の信頼性スコア付けや検証
  • AIエージェントが実行する操作に対する権限制御行動監査ログ

また、NLWebとLLMがどのように相互作用するかについて、共通プロトコルや標準的な安全設計パターンの確立も今後の大きな課題となるでしょう。

● 開発・運用体制にも構造的な見直しが必要

Agentic Webの登場により、開発サイドに求められる責任も従来とは変化します。

  • フロントエンド・バックエンドの分業に加えて、“AIエージェント向けインターフェース”設計という新たな職能が必要になる
  • ソフトウェア開発だけでなく、AIセキュリティやLLM理解に長けた人材が組織的に求められる
  • オープンソース利用時は、脆弱性管理・追跡の自動化(CVEの発行や依存性監視)が必須になる

これは単にコードの品質を問う問題ではなく、ソフトウェア設計、セキュリティ、AI倫理を横断する総合的な体制づくりが必要になることを意味しています。

● 技術の“暴走”を防ぐための倫理的フレームも不可欠

AIエージェントがWebを自由に巡回・操作する未来では、AIが悪意あるサイトを信じたり、誤った判断でユーザーの意図に反する行動をとったりするリスクも現実的です。

そのためには、次のようなガバナンス的な枠組みも求められます:

  • AIエージェントに対する行動規範(コンセンサス・フィルター)
  • サンドボックス的な制限空間での訓練・評価
  • 出力に対する説明責任(Explainability)と可視性

技術が進化するほど、「使ってよいか」「使い方は正しいか」といった人間の判断がより重要になることも忘れてはなりません。

● 技術の“暴走”を防ぐための倫理的フレームも不可欠

AIエージェントがWebを自由に巡回・操作する未来では、AIが悪意あるサイトを信じたり、誤った判断でユーザーの意図に反する行動をとったりするリスクも現実的です。

そのためには、次のようなガバナンス的な枠組みも求められます:

  • AIエージェントに対する行動規範(コンセンサス・フィルター)
  • サンドボックス的な制限空間での訓練・評価
  • 出力に対する説明責任(Explainability)と可視性

技術が進化するほど、「使ってよいか」「使い方は正しいか」といった人間の判断がより重要になることも忘れてはなりません。


このように、Agentic Webの発展には単なる技術的革新だけでなく、それを受け止めるだけの安全設計・体制・社会的合意の整備が求められています。今後この分野が広がっていくにつれ、開発者・利用者・社会全体が一体となって、安全性と信頼性の両立に取り組むことが必要となるでしょう。

おわりに:便利さの裏にある「見えないリスク」へ目を向けよう

NLWebの脆弱性は、単なる一実装のミスとして片づけられる問題ではありません。それはむしろ、AIとWebがこれからどのように結びついていくのか、そしてその過程で何が見落とされがちなのかを私たちに警告する出来事でした。

現在、生成AIや大規模言語モデル(LLM)は驚異的なスピードで普及しており、もはや一部の技術者だけが扱うものではなくなっています。AIアシスタントがWebを読み、操作し、意思決定を代行する未来は、単なる「可能性」ではなく「現実」として動き始めているのです。NLWebのような技術は、その未来を支える重要な基盤となるでしょう。

しかし、私たちはその利便性や効率性に目を奪われるあまり、その基盤が本当に安全で信頼できるのかを問う視点を忘れがちです。特にLLMとWebの結合領域では、「思わぬところから意図しない振る舞いが発生する」ことが構造的に起こり得ます。

  • 構文的に正しいコードが、セキュリティ上は脆弱であるかもしれない
  • 意図せず書かれた自然言語が、AIにとっては“命令”として解釈されるかもしれない
  • 安全に見えるUIが、AIエージェントには“操作権限”の提供とみなされるかもしれない

こうした「見えないリスク」は、従来のWeb設計とは次元の異なる問題であり、AIが人間の代理となる時代だからこそ、あらゆる入力と出力、構造と文脈を再定義する必要があるのです。

今回の脆弱性は幸いにも早期に発見され、重大な被害には至りませんでしたが、これはあくまで「はじまり」に過ぎません。Agentic Webの普及に伴って、今後さらに多様で複雑なリスクが顕在化してくるでしょう。

だからこそ私たちは今、利便性や最先端性の裏側にある、目に見えにくいセキュリティ上のリスクや倫理的課題にも正面から向き合う姿勢が求められています。技術の進化を止める必要はありません。しかし、その進化が「信頼される形」で進むよう、設計・運用・教育のすべてのレイヤーでの慎重な対応が必要です。

未来のWebがAIと人間の共存する空間となるために──私たちは、見えないリスクにも目を凝らす責任があります。

参考文献

IIJ「セキュアMXサービス」不正アクセスによる個人情報漏洩:詳細レポートと教訓

個人情報漏洩の経緯

2024年8月3日、IIJ(株式会社インターネットイニシアティブ)の法人向けクラウドメールセキュリティサービス「IIJセキュアMXサービス」の内部で、異変が始まっていました。このとき、サービスの一部環境において、攻撃者による不正なプログラムが設置され、長期にわたって稼働し続けていたのです。しかし、この兆候はセキュリティ監視体制において検知されることなく、組織の誰の目にも留まらないまま時間が過ぎていきました。

IIJは、国内有数のインターネットサービスプロバイダであり、長年にわたり法人向けインフラサービスを提供してきた実績を持ちます。とりわけ「セキュアMXサービス」は、企業や自治体が導入する信頼性の高いメールセキュリティソリューションとして知られていました。しかし、攻撃者はその信頼の裏をかくように、第三者製メールソフトウェア「Active! mail」に存在したゼロデイ脆弱性を突き、IIJのサービスインフラを侵害することに成功したとみられています。

事態が表面化したのは、2025年4月10日。IIJの運用チームが、通常とは異なるログ挙動や内部アクセスの異常に気付き、調査を開始します。翌週の4月15日、同社は緊急のプレスリリースを発表し、「最大で6,493契約・約407万件に影響する可能性がある」と発表しました。この時点ではまだ被害の全容が不明で、調査の初期段階であったことから、あくまで“最悪のケースを想定した上限値”として報告されました。

調査は急ピッチで進められ、4月18日には、攻撃に利用された脆弱性が「Active! mail」のバッファオーバーフローであることが特定されました。この脆弱性は、IPAおよびJVN(Japan Vulnerability Notes)に「JVN#22348866」として緊急登録され、各事業者に即時の対処が促されることになります。IIJもこの報告を受けて、該当コンポーネントの緊急置き換えと防御体制の強化に着手しました。

さらに4月22日、調査結果の第2報が発表され、当初想定よりも被害が限定的であることが判明しました。実際に漏洩が確認されたのは、132契約(311,288メールアカウント)であり、うち6契約ではメール本文やヘッダー情報、488契約では連携するクラウドサービス(Microsoft 365やGoogle Workspace等)の認証情報が含まれていたことが確認されました。この時点でIIJは影響を受けたすべての契約者に個別通知を行い、パスワードの強制リセットとアクセス制限などの措置を実施します。

問題はそれだけに留まりませんでした。この不正アクセスは、発生から検知までに8カ月以上を要したこと、そして被害規模が法人契約の範囲に及ぶ点から、社会的に大きなインパクトを持つこととなります。2025年5月13日に開催されたIIJの決算説明会では、谷脇社長自らが記者会見に登壇し、事件の経緯と再発防止への取り組みを説明しました。特に「検知までに時間がかかった要因」として、従来の防御モデルに依存しすぎていた点、可視化の弱さ、脆弱性の管理不備などが語られ、社内のセキュリティガバナンスが見直される契機となったことが述べられました。

以降、IIJは大規模な再発防止策を打ち出します。6月下旬までに、Webアプリケーションファイアウォール(WAF)の多層化、振る舞い検知型のセキュリティ機構(EDR的要素)などを導入。また、情報開示の透明性を保つため、更新された情報はすべて公式Webサイトで随時公開される体制に移行しました。

そして2025年7月18日、総務省より本件に対する正式な行政指導が下され、IIJはその内容を受け入れるとともに、再発防止に向けた「社長直轄のプロジェクト体制」を発足させたことを公表しました。これにより、単なるサービス単位での修正にとどまらず、会社全体のセキュリティ意識と体制を抜本的に見直す取り組みが始まったのです。

2025年 日本国内・国外の個人情報漏洩・漏洩疑い事例

以下は、日本国内の2025年における「不正アクセス」「誤操作/設定ミス」「内部不正」による漏洩・疑いの全事例を集めた表です。

日付組織/企業 漏洩件数原因カテゴリ備考・詳細
2025/03/12-03/13日本マクドナルド8,989件設定ミス・誤送信メール配信システムミス 
2025/03/19神戸須磨シーワールド12,931件設定ミスWebシステム設定ミス 
2025/04/16みずほ信託銀行2,472人+246社誤送信 (委託含む)メール誤送信 
2025/03/03おやつカンパニー約170,000件+450件不正アクセスキャンペーン応募データ 
2025/02/06NTTコミュニケーションズ17,891社分不正アクセス設備侵害 
2025/02/22-02/27徳島県教育委員会約140万件不正アクセスサーバー不審メール発出 
2025/04/05-05/28柏崎青果1,198件不正アクセスECサイト侵入 
2025/05/23マリンオープンイノベーション機構1,455件USB紛失紙媒体/USB紛失 
2025/02/28-03/10三菱地所ホテルズ&リゾーツ非公表設定ミス/システム運用予約者データ
2025/06/24ぴあ非公表設定ミス/システム運用顧客情報
2025/04/28クミアイ化学非公表設定ミス/システム運用社員情報
2025/06/12タイヨー9件設定ミス/誤操作イベント参加者

2025年以前発生していて、報告が2025年に行われている事例もありました。また、漏洩していることや漏洩している可能性があることを運営側が検知できず、後の定期的なセキュリティ診断によって発覚したり、利用者からの問い合わせによって発覚したりするケースも散見されました。

また、半導体産業、自動車産業などの軍事転用可能な企業や、銀行、証券、保険などの金銭目的の企業ではなく、さまざまな業種で起きているということも注目すべき点です。

個人情報漏洩事例から見えてくる問題点や課題

2025年に発生・報告された情報漏洩に関する各事例からは、情報セキュリティにおけるいくつかの共通した課題が見えてきます。こうした課題は、単一の技術的要因に起因するものではなく、運用や体制、組織の設計方針にまで広く関係しており、包括的な見直しの必要性が浮き彫りになっています。

まず一つ目の課題は、脆弱性の管理と検知体制の遅れです。特に外部製品やサービスを組み込んだシステムにおいては、当該ソフトウェアのセキュリティ更新やリスク把握が後手に回るケースが少なくありません。今回公表されたIIJのセキュアMXサービスでは、メール閲覧用ソフトウェアに内在していた脆弱性が長期間にわたり悪用されていた可能性があり、結果として複数の契約先のメールアカウントや認証情報が外部に漏洩したとされています。このような事態は、既知の脆弱性に迅速に対応する体制や、ゼロデイ攻撃に備えた振る舞い検知の導入などが十分でなかったことを示唆しています。

二つ目の課題は、人為的ミスの継続的な発生です。2025年に報告された情報漏洩事例の中には、メールの誤送信やWebシステムの設定ミスに起因するものも複数含まれていました。これらは高度な技術を要する攻撃によるものではなく、組織内の運用プロセスや確認手順の甘さから発生しています。たとえば、誤送信防止の機構や二重確認の運用ルールが適切に整備されていれば防げた事例も少なくありません。こうした背景から、セキュリティ対策は技術面だけでなく、業務設計や日常運用の中に組み込まれている必要があります。

三つ目は、委託先や外部サービスに関するセキュリティ管理の不十分さです。多くの企業や団体がクラウドベースのサービスや外部委託業者の技術に依存している現在、その利用形態に応じたリスク評価と監視が求められています。たとえば、IIJのようなサービス提供事業者が被害を受けた場合、その影響は直接の契約者を越えて二次的・三次的に波及する可能性があります。利用者自身がサービス提供元のセキュリティ状況を継続的に確認し、リスクベースで利用範囲を見直すといった姿勢も必要です。

四つ目として挙げられるのは、インシデント発生時の初動対応と情報開示のあり方です。情報の開示が遅れた場合、関係者の対応が後手に回り、影響が拡大する恐れがあります。2025年に報告された複数の事例において、調査結果の確定に時間を要したことや、影響範囲の特定に段階的な発表がなされたことが、ユーザー側の混乱を招く一因となりました。もちろん、正確な情報を提供するには慎重な調査が必要ですが、並行して適切な段階的説明や予防的対応の提案がなされることが望まれます。

五つ目として挙げられるのは、あらゆる業種・業界が狙われるという点です。半導体業界や自動車業界のように軍事転用可能な技術を奪うことを目的とした不正アクセスや金銭目的で銀行、証券、保険といった金融関連尾企業を狙うことがよく報道されていますが、個人情報を盗むという点においては、業態に関わらず脆弱な企業や団体を狙っていることがわかります。また、単一のシステムでは個人情報として十分でなくとも、複数のシステムの情報を組み合わせることで個人情報または個人情報相当の情報になる場合もあるため、自分のところのシステムはそれほど重要な情報を扱っていないから大丈夫と安易に考えず、常にセキュリティ対策の意識を持つことが大切です。

これらの課題は、特定の組織や業種に限定されたものではなく、情報を扱うあらゆる業務に共通するものです。そして、多くの課題は、技術、運用、体制のいずれか一つでは対応しきれず、三者を連動させた取り組みが不可欠です。次章では、それぞれの観点からどのような対策が求められるかを考察します。

対策:技術・体制・運用の三位一体アプローチ

2025年に報告された複数の情報漏洩事例を通じて明らかになったように、情報セキュリティ対策は、単なる技術的な対応だけでは不十分です。多くの問題が、運用上の不備や体制面での遅れに起因しており、より堅牢な防御体制を構築するには、技術・運用・体制の三つを一体として捉え、相互に補完し合う設計が必要です。この章では、それぞれの観点から必要な対策を具体的に考察します。

技術面の対策

技術的な防御は、セキュリティ対策の土台として最も直接的で重要な役割を担います。まず、サーバーやネットワーク機器、ミドルウェア、そして外部製品などにおいて、既知の脆弱性に対するパッチ適用を継続的かつ計画的に行う体制が求められます。特に外部製のライブラリやアプライアンス製品は、利用者が直接コードに手を加えられないため、脆弱性情報(CVE、JVNなど)の監視と、サプライヤーからのアラートの即時対応が重要です。

また、未知の攻撃への対応として、振る舞い検知型のセキュリティ機構(EDRやXDR)の導入が有効です。これにより、従来型のウイルス定義ベースでは見逃されていた不審なプロセスやネットワーク通信をリアルタイムで検知・遮断することが可能になります。さらに、WAF(Web Application Firewall)の導入によって、SQLインジェクションやクロスサイトスクリプティングなどのWeb系攻撃への入口防御を強化することも基本的な備えとして有効です。

データ保護という点では、TLS(HTTPS)による通信の暗号化と、データベースに保存される個人情報の暗号化が求められます。特に、管理者や開発者でも復号できない形式での保存(アプリケーションレベルでの暗号化)を導入すれば、万一内部からのアクセスがあっても、データがすぐには読み取れないという抑止効果を持ちます。暗号鍵については、KMS(Key Management Service)を利用し、鍵の分離・アクセス制御を行うことが推奨されます。

運用面の対策

運用上の不備による情報漏洩、特に誤送信設定ミスは、技術的な対策だけでは完全に防ぐことができません。これらは人の操作や確認工程に起因するため、ミスを前提とした業務設計が不可欠です。

たとえば、メール誤送信対策として、送信前に宛先の確認を促す送信ポップアップ機能や、社外宛メールの上長承認機能、誤送信防止プラグインの導入が挙げられます。Web公開設定ミスに関しても、インフラやクラウドの構成変更があった際に自動スキャンを行い、パブリック設定になっていないかを検知するツール(例:AWS Config、Google Cloud Security Command Center)を活用することで、人的な設定漏れを検出できます。

また、ログ管理とアクセス権限の見直しも重要です。すべてのアクセスにログが残るよう設計し、特権アカウントの利用は最小限に限定すること。加えて、業務用データと個人情報の保存領域を明確に分離し、操作ログと監査ログを定期的にレビューすることで、内部不正や不要なアクセスを早期に検出できます。

運用の強化はまた、委託先業者の管理にも関わります。情報システムの一部や運用業務を外部に委託している場合、委託元は業者のセキュリティ管理状況について十分に把握し、必要に応じて監査や改善要請を行う責任があります。契約時点で「個人情報を取り扱う範囲」「漏洩発生時の責任」「監査義務」などを明確化しておくことが、事後の対応力を高めることにつながります。

体制面の対策

技術と運用を適切に機能させるためには、それを支える組織体制の整備が欠かせません。特に、**インシデント対応体制(CSIRT:Computer Security Incident Response Team)**の整備は、多くの企業で今後ますます重要性を増すと考えられます。インシデントの発生から初動、影響範囲の特定、再発防止策の策定、関係者への報告といった一連のプロセスを、標準化されたフローとして事前に準備しておく必要があります。

情報漏洩のような重大な問題が発生した際、どの部署が主導するのか、法務・広報との連携はどうするのか、顧客や行政機関への通知タイミングはどう定めるのか。これらを含めた事前準備と定期的な訓練がなければ、実際の発生時に組織が混乱し、対応が遅れるリスクが高くなります。

また、社内教育の継続的な実施も体制強化の一部です。情報セキュリティポリシーやガイドラインがあっても、それが日常業務に活用されていなければ意味がありません。eラーニングやワークショップ形式の教育機会を定期的に設け、過去の実例を使って理解を深める機会を設計することで、社員一人ひとりが自分の操作や判断がセキュリティにどう関わるかを自覚することができます。


このように、技術・運用・体制の三つの軸を個別に整備するだけでなく、それらを有機的に結びつけることが、現代におけるセキュリティ対策の基本といえます。脆弱性への即応、ヒューマンエラーの抑制、インシデント対応体制の整備——いずれも単独では機能せず、相互に支え合う形でのみ、実効性を発揮します。

次章では、こうした対策の導入を検討する際に、どこから着手すればよいか、どのように優先順位をつけて組織に適用していくかについて考察していきます。

まとめ

2025年に公表された一連の個人情報漏洩に関する報告は、技術的な脆弱性の悪用、業務上の不備、設定ミス、さらには外部サービスや委託先との連携に起因するものまで多岐にわたりました。特にIIJのセキュアMXサービスに関する不正アクセス事例は、その発覚までに長期間を要し、影響が大規模かつ多方面に及んだ点で、注目を集める事例となりました。これは、特定の企業だけでなく、クラウド型のサービスを利用するあらゆる組織にとって、他人事では済まされない現実を突きつけるものです。

こうした情報漏洩の要因を振り返ると、「最新のセキュリティ機器を導入していれば安心」という考え方が十分ではないことが分かります。むしろ、技術・体制・運用の三要素がそれぞれの役割を果たしながら、全体として一貫した方針に基づいて機能しているかどうかが問われています。たとえば、技術的に安全な仕組みが整っていても、設定ミスひとつで外部に情報が公開されてしまうことは現実に起こりうるリスクです。また、インシデント発生時に初動体制が整っていなければ、被害の拡大や社会的な信用失墜を招く恐れもあります。

特に注目すべきは、人間の判断や操作に起因する情報漏洩が依然として多いという点です。誤送信や誤設定、アクセス制御の見落としといったヒューマンエラーは、最新のセキュリティツールでは防ぎきれない領域であり、業務設計の中にリスクを想定したプロセスをあらかじめ組み込むことが重要です。システムに頼るのではなく、「人が失敗し得る」ことを前提に、二重確認や自動チェックといった仕組みを自然に埋め込んでいく必要があります。

一方で、技術面の対応についても過信は禁物です。脆弱性の早期発見・修正、通信と保存の両方における暗号化、侵入検知とログ監視の強化など、技術は「基盤」として支える存在であって、それ単体では組織の情報を守り切ることはできません。定期的なレビューと改善、そして自社で管理できない部分に対する透明性の確保(たとえばクラウドサービスのセキュリティステータスの可視化など)が、技術を「機能するもの」として活かすために不可欠です。

さらに、組織全体としてのセキュリティリテラシー向上も欠かせません。社内教育やシミュレーション訓練、CSIRTによる即応体制、委託先との連携強化など、一つの問題を部門任せにせず、横断的な対応ができる文化を育てていくことが、中長期的な信頼性の向上につながります。

今後の情報社会において、情報漏洩を完全にゼロにすることは現実的ではないかもしれません。しかし、被害の発生を減らし、起きた際の影響を最小限に抑える努力を積み重ねることは、すべての組織にとって避けられない責任です。本稿で紹介した考察や対策が、今後の情報セキュリティの見直しや施策立案の一助となれば幸いです。

参考文献

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