NFT × 観光DX:JTB・富士通・戸田建設が福井県越前市で試験導入

観光産業は今、デジタル技術の力によって大きな変革期を迎えています。
これまで観光といえば「現地を訪れ、実際に体験する」ことが中心でした。しかし近年では、デジタルを通じて体験の設計そのものを再定義する動きが世界的に加速しています。いわゆる「観光DX(デジタルトランスフォーメーション)」です。

観光DXの目的は、単に観光情報をオンライン化することではありません。観光客と地域、そして事業者をデータと技術でつなぎ、持続可能な観光経済を構築することにあります。
観光地の混雑をリアルタイムで把握して分散を促すスマートシティ型の施策、交通データや宿泊データを統合して移動を最適化するMaaSの導入、生成AIによる多言語観光案内、AR・VRによる没入型体験――そのどれもが「デジタルを介して旅の価値を拡張する」という共通の思想に基づいています。

そして今、新たな潮流として注目されているのが、NFT(非代替性トークン)を観光体験の中に取り入れる試みです。
ブロックチェーン技術を用いたNFTは、デジタルデータに「唯一性」と「所有権」を与える仕組みです。これを観光体験に応用することで、「訪れた証明」や「体験の記録」をデジタル上に残すことが可能になります。つまり、旅そのものが“記録され、所有できる体験”へと変わりつつあるのです。

その象徴的な事例が、福井県越前市で2025年11月から始まる「ECHIZEN Quest(エチゼンクエスト)」です。JTB、富士通、戸田建設の3社が連携し、地域文化とNFTを組み合わせた観光DXの実証実験を行います。
この取り組みは、観光体験を単なる消費行動から“デジタルによる価値共有”へと変えていく第一歩といえるでしょう。

本稿では、この越前市の事例を起点に、国内外で進む観光DXの動きを整理し、さらに今後の方向性を考察します。NFTをはじめとする新技術が観光体験にどのような変化をもたらし得るのか、その可能性と課題を探ります。

福井県越前市「ECHIZEN Quest」:NFT × 観光DXの実証

観光分野におけるNFT活用は、世界的にもまだ新しい試みです。アートやゲームなどの分野で注目されたNFTを「体験の証明」として応用する動きは、デジタル技術が人と場所の関係性を再定義しつつある象徴といえるでしょう。
従来の観光は「現地で体験して終わる」ものでしたが、NFTを導入することで、体験がデジタル上に“残り続ける”観光が可能になります。これは、旅の記録が単なる写真や投稿ではなく、「ブロックチェーン上で保証された証拠」として残るという点で画期的です。

こうした観光DXの新潮流の中で、実際にNFTを本格導入した先進的なプロジェクトが、福井県越前市で始まろうとしています。それが、JTB・富士通・戸田建設の三社による実証事業「ECHIZEN Quest(エチゼンクエスト)」です。
地域の伝統工芸をデジタル技術と組み合わせ、文化の体験をNFTとして可視化することで、「来訪の証」「地域との絆」「再訪の動機」を同時に生み出すことを狙いとしています。
単なる観光促進策ではなく、観光を介して地域文化を循環させるデジタル社会実験――それがECHIZEN Questの本質です。

プロジェクトの背景

北陸新幹線の敦賀延伸を目前に控える福井県越前市では、地域の魅力を再構築し、全国・海外からの来訪者を呼び込むための観光施策が求められていました。
従来の観光は「名所を訪れて写真を撮る」スタイルが中心でしたが、コロナ禍を経て、地域文化や職人技に触れる“体験型観光”が重視されるようになっています。
そうした潮流を踏まえ、JTB・富士通・戸田建設の3社が協業して立ち上げたのが「ECHIZEN Quest(エチゼンクエスト)」です。

このプロジェクトは、伝統文化とデジタル技術を融合させた新しい観光体験の創出を目的としています。観光地の回遊、体験、記録、共有を一体化し、「訪問の証」をNFTとして残すことで、地域とのつながりをデジタルの上でも継続可能にする試みです。

実証の内容と仕組み

「ECHIZEN Quest」では、越前市の伝統産業――越前和紙、越前打刃物、越前漆器、越前焼、越前箪笥、眼鏡、繊維――をテーマとした体験プログラムが用意されます。
観光客は、市内の各工房や体験施設を巡り、職人の技を実際に体験しながら「クエスト(冒険)」を進めていきます。

各体験を終えると、参加者のウォレットに紫式部をモチーフにしたNFTが発行されます。これは単なる記念品ではなく、「その体験を実際に行った証」としての機能を持ちます。
NFTの発行には富士通のブロックチェーン基盤技術が活用され、トランザクションごとに改ざん不可能な証跡を残します。
また、発行されるNFTは、将来的に地域限定のデジタル特典やクーポン、ポイント制度と連携させる構想もあり、「デジタル経済圏としての地域観光」を形成する足がかりと位置づけられています。

体験の内容は、伝統工芸体験だけでなく、歴史散策や地元飲食店の利用も含まれます。観光客の行動データをもとに、次回訪問時のおすすめルートを提案する仕組みなども検討されており、NFTが観光行動のハブとなる可能性を持っています。

関係企業の役割

  • 戸田建設:事業全体の統括とスマートシティ基盤整備を担当。観光インフラの整備やデータ基盤構築を通じて、地域の長期的なデジタル化を支援。
  • JTB:観光商品の企画・造成、旅行者の送客・プロモーションを担当。観光データを活用したマーケティング支援にも関与。
  • 富士通:NFT発行・デジタル通貨関連基盤の技術支援を担当。NFTウォレット、発行管理、利用トラッキングなどの技術領域を提供。

3社の連携により、「観光 × ブロックチェーン × 地域産業支援」という従来にない多層的な仕組みが実現しました。

狙いと意義

この実証の本質は、“観光体験をデータ化し、地域と来訪者の関係を継続的に可視化すること”にあります。
NFTは、単にコレクションとしての側面だけでなく、「どの地域に、どんな関心を持って訪れたか」を示すデータの単位としても機能します。
このように体験をデジタル上で可視化することで、自治体や事業者は観光行動の傾向を定量的に把握でき、次の施策立案にもつなげられます。

また、越前市のようにものづくり文化が根付いた地域では、“体験を記録し、継承する”という価値観とも親和性が高く、単なる観光消費に留まらない持続可能な関係づくりを支援します。
「NFTを使った観光体験の証明」は、日本の地方観光の再構築における1つのモデルケースになる可能性があります。

将来展望

今回の実証は2025年11月から2026年1月まで行われ、その成果を踏まえて他地域への展開が検討されています。
もし成功すれば、北陸地方だけでなく、全国の観光地が「地域体験のNFT化」を進め、観光のパーソナライズ化と文化の継承を両立する新モデルが生まれる可能性があります。

特に、体験の証をデジタルで所有できる仕組みは、若年層やインバウンド旅行者にとって大きな魅力になります。
「旅をすること」から「旅を残すこと」へ――ECHIZEN Questは、その転換点を象徴するプロジェクトといえるでしょう。

国内における観光DXの広がり

日本の観光産業は、ここ十数年で急速に環境が変化しました。
かつては「インバウンド需要の拡大」が成長の原動力でしたが、パンデミックによる国際移動の停止、円安や物価上昇、そして人手不足が重なり、観光事業はこれまでにない構造的な課題に直面しています。
さらに、SNSの普及によって旅行の目的が「有名地を訪れる」から「自分らしい体験を得る」へと移り変わり、観光の価値そのものが変化しつつあります。

こうした中で注目されているのが、デジタル技術を活用して観光体験と運営を再設計する“観光DX(Tourism Digital Transformation)”です。
観光DXは、単なるオンライン化や予約システムの導入ではなく、観光を構成するあらゆる要素――交通、宿泊、文化体験、地域経済――をデータでつなぎ、継続的に改善していく仕組みを指します。
いわば、観光そのものを「情報産業」として再構築する取り組みです。

この考え方は、地方創生とも強く結びついています。観光DXを通じて地域資源をデータ化し、分析・活用することで、人口減少社会においても地域が経済的に自立できるモデルを作る。これは、観光を超えた「地域経済のDX」とも言える取り組みです。

背景と政策的な位置づけ

日本国内でも観光DXの流れは急速に広がっています。観光業は少子高齢化や人口減少の影響を強く受ける分野であり、従来型の「集客頼み」のモデルから脱却しなければ持続が難しくなりつつあります。
観光庁はこれに対応する形で、2022年度から「観光DX推進事業」を本格化させました。DXの目的を「観光地の持続的発展」「地域経済の循環」「来訪者体験の高度化」の3点に定め、地方自治体やDMO(観光地域づくり法人)を支援しています。

国のロードマップでは、2027年までに「観光情報のデータ化・共有化」「周遊・予約・決済などのシームレス化」「AIによる需要予測と体験最適化」を実現することが掲げられています。
こうした政策的な支援を背景に、自治体単位でのデジタル化や、地域データ連携基盤の整備が進んでいます。観光は単なる地域振興策ではなく、地域経済・交通・防災・文化振興をつなぐ社会システムの一部として再定義されつつあるのです。

技術導入の方向性

観光DXの導入は、大きく次の3つの方向で進展しています。

  • 来訪者体験の高度化(CX:Customer Experience)  AI・AR・MaaSなどを活用して、旅行者が「便利で楽しい」と感じる仕組みを構築。
  • 観光地運営の効率化(BX:Business Transformation)  宿泊・交通・施設運営の統合管理を進め、生産性と収益性を改善。
  • 地域全体のデータ連携(DX:Data Transformation)  観光行動や消費データを横断的に集約・分析し、政策や商品設計に活用。

特に、スマートフォンの普及とQR決済の浸透によって、観光客の行動をデジタル的にトラッキングできる環境が整ったことが、DX推進の大きな追い風になっています。

利便性向上の代表事例

  • 山梨県「やまなし観光MaaS」 公共交通と観光施設をICTで統合し、チケット購入から移動・入場までをスマホ1つで完結。マイカー以外の観光を可能にし、環境負荷低減にも寄与しています。
  • 大阪観光局「観光DXアプリ」 拡張現実(AR)を活用して観光名所にデジタル案内を重ねる仕組みを整備。多言語対応で、インバウンド客の体験価値を向上。
  • 熊本県小国町「チケットHUB®」 チケット販売・入場管理をクラウド化し、複数施設を横断的に運用。観光地全体のデジタル化を自治体主導で進めるモデルとして注目。
  • 山口県美祢市「ミネドン」 生成AIを活用した観光チャットボット。観光案内所のスタッフ不足を補う仕組みで、観光案内の質を落とさずに対応力を拡大。

これらの事例はいずれも、「情報の非対称性をなくし、観光体験を一貫化する」ことを目指しています。観光客の時間と行動を最適化し、“迷わない旅”を実現する仕組みが各地で整備されつつあります。

データ・プラットフォームの整備と連携

観光DXを支える土台となるのが「データ連携基盤」の整備です。

全国レベルでは、観光庁が推進する「全国観光DMP(データマネジメントプラットフォーム)」が構築され、宿泊、交通、商業施設、天候、SNSなどのデータを一元管理できる体制が整いつつあります。

各地域でも同様の取り組みが進んでいます。

  • 福井県「観光マーケティングデータコンソーシアム」では、観光客の回遊データを可視化し、混雑回避策やイベント設計に反映。
  • 山形県「Yamagata Open Travel Consortium」では、販売・予約システムの標準化を行い、広域観光の連携を強化。
  • 箱根温泉DX推進協議会では、観光地のWi-Fi利用データや交通データをもとに、混雑予測モデルを実装。

このように、観光データの活用は「感覚や経験に頼る運営」から「数値と行動データに基づく運営」へと転換を進めています。

生成AI・自動化の活用

近年の注目トレンドとして、生成AIを活用した観光案内や情報整備があります。
熱海市では、観光Webサイトの文章を生成AIで多言語化し、人的リソースを削減。AIが自動的に各国語に翻訳・ローカライズすることで、短期間で情報提供範囲を拡大しました。
また、地方自治体では、観光案内所の対応履歴やSNSの投稿内容を学習させたAIチャットボットを導入し、24時間観光案内を実現している例も増えています。

AIを通じた「デジタル接客」は、今後の観光人材不足に対する現実的な解決策の一つと見られています。

現状の課題と今後の方向性

一方で、観光DXにはいくつかの課題も残っています。
まず、データ連携の標準化が進んでおらず、自治体ごとにシステム仕様が異なるため、広域連携が難しいという問題があります。
また、AIやNFTなどの新技術を活用するには、現場スタッフのリテラシー向上も不可欠です。DXを「IT導入」と誤解すると、現場に負担が残り、持続しないケースも少なくありません。

それでも、方向性は明確です。
今後の観光DXは、「効率化」から「価値創造」へと焦点を移していくでしょう。
データを活用して旅行者の嗜好を把握し、個人ごとに最適化された体験を提供する「パーソナライズド・ツーリズム」が主流になります。さらに、NFTやAIが結びつくことで、観光体験の証明・共有・再体験が可能になり、旅の価値そのものが拡張されていくと考えられます。

海外における観光DXの先進事例

観光DXは、日本だけでなく世界各国でも急速に進展しています。
欧州では「スマートツーリズム(Smart Tourism)」、アジアでは「デジタルツーリズム」、米国では「エクスペリエンス・エコノミー」と呼ばれる流れが広がっており、いずれも共通しているのは、観光をデータで最適化し、地域の持続可能性を高めることです。
パンデミック以降、観光産業は再び成長軌道に戻りつつありますが、その形は以前とはまったく異なります。単に「多くの観光客を呼ぶ」ことではなく、「観光客・住民・行政が共存できる構造をつくる」ことが重視されるようになりました。

DXの核心は、“デジタルで観光地を管理する”のではなく、“デジタルで観光体験を再設計する”ことです。
その思想のもと、欧州・アジア・中南米などで多様なアプローチが実現されています。

欧州:スマートツーリズム都市の先進モデル

アムステルダム(オランダ)

アムステルダムは、観光DXの「都市スケールでの成功例」として世界的に知られています。
同市は「Amsterdam Smart City」構想のもと、交通・宿泊・店舗・観光施設のデータを統合したプラットフォームを構築。観光客の移動履歴や滞在時間を分析し、混雑地域をリアルタイムで検出して、観光客の自動誘導(ルート最適化)を行っています。
また、観光税収や宿泊データを連動させて、季節・天候・イベントに応じた需要調整を実施。観光の「量」ではなく「質」を高める都市運営が実現しています。

バルセロナ(スペイン)

バルセロナは、欧州連合(EU)が推進する「European Capital of Smart Tourism」の初代受賞都市です。
観光客の移動やSNS投稿、宿泊予約などの情報をAIで解析し、住民の生活環境に配慮した観光政策を実現。たとえば、特定エリアの混雑が一定値を超えると、AIが観光バスの経路を自動変更し、地元住民への影響を最小化します。
また、観光施設への入場チケットはデジタルIDで一元管理され、キャッシュレス決済・交通利用・宿泊割引がすべて連動。観光客は「一つのアカウントで街全体を旅できる」体験を享受できます。

テネリフェ島・エル・イエロ島(スペイン領カナリア諸島)

スペインは観光DX分野で最も積極的な国の一つです。
テネリフェ島ではホテル内にARフォトスポットを設置し、観光客がスマートフォンで拡張現実の映像を生成・共有できるようにしています。エル・イエロ島は「スマートアイランド」を掲げ、再生可能エネルギー・IoT・観光データの統合を推進。観光のサステナビリティと地域住民の生活改善を両立させる取り組みとして高く評価されています。

北米:パーソナライズド・ツーリズムとAI活用

アメリカ(ニューヨーク/サンフランシスコ)

米国では、AIとデータ分析を活用した「体験最適化」が観光DXの主流になっています。
ニューヨーク市観光局は、Google Cloudと連携して観光ビッグデータ分析基盤を構築。SNS投稿や交通データをもとに、来訪者の興味関心をリアルタイムで推定し、観光アプリを通じてパーソナライズドな観光ルートを提案します。
また、サンフランシスコでは、宿泊業界と連携してAIによるダイナミックプライシングを導入。イベントや天候に応じて宿泊料金を自動調整し、観光需要の平準化を図っています。

カナダ(バンクーバー)

バンクーバーは、観光地としての環境負荷低減を目指す「グリーンDX」を推進しています。
AIによる交通量の最適化、再生可能エネルギーによる宿泊施設の電力供給、そして観光客の移動を可視化する「Carbon Travel Tracker」を導入。観光客自身が旅行中のCO₂排出量を把握・削減できる仕組みを構築しています。
このように、北米ではデジタル技術を「効率化」ではなく「行動変容の促進」に活かす方向性が顕著です。

アジア:デジタル国家による観光基盤の構築

韓国(ソウル・釜山)

韓国では観光DXを国家戦略として位置づけています。
政府主導の「K-Tourism 4.0」構想では、観光客の移動データ・消費データ・口コミ情報を統合し、AIが自動でレコメンドを行う観光プラットフォームを整備中です。
また、釜山ではメタバース上に「仮想釜山観光都市」を構築。訪問前にVRで街を体験し、現地に到着するとARでリアル空間と重ね合わせて観光できる仕組みを実装しています。

中国(広西省・杭州市)

中国では、文化遺産や歴史的建築物の保護・活用を目的に観光DXを展開。
広西省の古村落では、IoTセンサーとクラウドを活用して建築構造や観光動線を監視し、文化遺産の保全と観光利用の両立を実現。
杭州市では「スマート観光都市」プロジェクトを推進し、QRコードで観光施設の入場・支払い・ナビゲーションを一括管理。観光客はWeChatを通じてルート案内・宿泊・交通すべてを操作できる統合体験を提供しています。

新興国・途上国での応用と展開

デジタルインフラが整備途上の国々でも、観光DXは地域経済振興の中核に位置づけられています。
南アフリカ発の「Tourism Radio」はその代表例で、レンタカーに搭載されたGPSと連動して、目的地周辺に近づくと音声ガイドが自動再生される仕組みを導入。インターネット接続が不安定な地域でも利用可能な“オフライン型DX”として注目されています。

また、東南アジアでは観光アプリに電子決済とデジタルIDを統合する事例が増えています。タイやベトナムでは、地域市場や寺院などの観光スポットでキャッシュレス化を進め、観光データの可視化と収益分配を同時に実現しています。
これらの国々では、DXが「効率化」ではなく「観光資源の社会的包摂」を目指す方向で活用されている点が特徴的です。


世界の共通トレンドと技術動向

これらの多様な取り組みを俯瞰すると、観光DXにはいくつかの世界的トレンドが見えてきます。

  • データ駆動型観光政策(Data-Driven Tourism)  都市単位で観光データをリアルタイムに収集し、政策決定や施設運営に反映。
  • 没入型体験(Immersive Experience)  AR/VR/デジタルツインを用いて、観光地の「見せ方」そのものを再設計。
  • サステナビリティとの統合  エネルギー管理・交通最適化・行動誘導を組み合わせた「グリーンツーリズム」。
  • 分散型プラットフォームの台頭  ブロックチェーンやNFTを用いた“デジタル所有型観光”の概念が欧州を中心に拡大中。
  • 観光の民主化(Tourism for All)  DXによって、身体的・地理的制約を超えた観光アクセスが可能に。

観光DXの潮流は、「観光客のための便利な技術」から、「地域・社会全体を支える構造的変革」へと進化しつつあります。
技術が観光地を“効率化”するのではなく、“人間中心の体験”を創り出すための道具として再定義されているのです。

今後の観光DXの方向性とNFTの可能性

国内では、MaaS・AIチャット・データ連携基盤の整備が進み、地域単位で観光体験の効率化と利便性向上が実現されつつあります。
一方で海外では、都市全体をデジタルで統合する「スマートツーリズム」や、メタバース・デジタルツインを用いた没入型体験の創出など、より包括的な変革が進んでいます。

こうした動向を俯瞰すると、観光DXはすでに「デジタル技術を導入する段階」から、「デジタルを前提に観光のあり方を再構築する段階」へと移行しつつあるといえます。
つまり、デジタル化の目的が“効率化”から“体験設計”へと変わりつつあるのです。

この文脈の中で注目されているのが、NFT(非代替性トークン)を用いた新しい観光体験の創出です。
NFTは観光の文脈において、単なる技術的要素ではなく、体験をデジタル上で保存・証明・共有するための新しい構造として機能し始めています。
これまでの観光が「訪れる」「撮る」「思い出す」ものであったのに対し、NFTを取り入れた観光DXは、「体験する」「所有する」「再体験する」という次の段階を切り開こうとしています。

以下では、観光DXがどのような進化段階を経ていくのか、そしてNFTがその中でどのような役割を果たし得るのかを整理します。

DXの進化段階 ― 「効率化」から「体験設計」へ

これまでの観光DXは、主に「効率化」を目的として進められてきました。
予約の電子化、決済のキャッシュレス化、観光情報のデジタル化など、運営側と利用者双方の利便性を高める取り組みが中心でした。
しかし、近年はその焦点が明確に変わりつつあります。
観光DXの本質は、単に観光業務をデジタル化することではなく、「旅そのものの価値を再設計する」ことへと移行しています。

観光庁が示す次世代観光モデルでは、DXの進化を3段階に整理できます。

  1. デジタル整備期(現在)  紙や電話に依存していた観光プロセスをデジタル化し、業務効率と利用者の利便性を改善する段階。
  2. 体験価値創造期(今後数年)  AI・AR・NFTなどを組み合わせ、観光客の嗜好や目的に合わせたパーソナライズドな体験を提供する段階。
  3. デジタル共創期(中長期)  観光客・地域・企業・行政がデータを共有し、観光体験を共同でデザイン・更新していく段階

この流れの中で、NFTは単なる一技術ではなく、「体験をデジタル資産として保持・共有する仕組み」として重要な位置を占めるようになっています。

NFTの観光応用 ― 体験を「所有」する時代へ

NFT(Non-Fungible Token)は、本来アートやコレクションの分野で注目された技術ですが、観光分野に応用すると、体験そのものを記録・証明・継承する新たな手段となります。
旅の記念はこれまで写真やお土産でしたが、NFTはそれを「ブロックチェーン上に刻まれた体験データ」として残します。

たとえば、越前市のECHIZEN Questで発行されるNFTは、単なるデジタル画像ではなく「その体験を実際に行った証拠」です。
これは、観光の概念を「体験したことを覚えている」から「体験したことを証明できる」へと拡張するものであり、観光体験の価値をより客観的・共有可能なものへ変えます。

さらにNFTは、地域経済と観光体験を結びつける「デジタルコミュニティ形成」の基盤にもなり得ます。
NFT保有者に地域限定の特典を付与する、再訪時の割引や特別体験を提供する、あるいは地域文化のクラウドファンディングに参加する――このように、NFTが観光客と地域を継続的に結びつける仕組みとして機能する可能性があります。

新しい価値提案 ― 「見る」から「持つ」観光へ

筆者としては、NFTを「デジタルな所有の喜び」として捉えた観光体験が広がると考えます。

たとえば、

  • その土地でしか見られない特定の季節・時間帯・気象条件の景色を高画質NFTとして所有する。
  • 博物館や寺院の所蔵物をデジタルアーカイブ化し、鑑賞権付きNFTとして発行する。
  • フェスティバルや文化行事の瞬間を、限定NFTとして収集・共有する。

これらは「売買の対象」ではなく、「体験の継続的な所有」としてのNFT利用です。
つまり、NFTは“金融資産”ではなく、“文化資産”の形を取るべきでしょう。
その地域に訪れた証、そこに存在した時間の証――NFTは、旅の一部を永続的に保持するためのデジタル記憶装置ともいえます。

技術と社会構造の融合 ― NFTがもたらす新しい観光エコシステム

観光DXが次の段階へ進むためには、技術・経済・文化を横断する仕組みづくりが不可欠です。

NFTはこの統合点として、以下のような新しいエコシステムを形成する可能性があります。

領域NFTの機能期待される効果
体験証明ブロックチェーンによる改ざん防止体験の真正性を保証し、偽造チケットや不正取引を防止
地域経済NFT保有者向け特典・優待地域への再訪・ファンコミュニティ形成を促進
文化継承デジタルアーカイブとの連携無形文化や伝統技術の「記録と共有」を容易化
サステナビリティ観光行動の可視化訪問・消費のデータを分析し、持続的な観光管理へ反映

こうした構造が実現すれば、観光地は単なる「目的地」ではなく、デジタル上で価値を再生産する文化プラットフォームへと進化します。

倫理的・制度的課題

もっとも、NFT観光の普及には慎重な制度設計が必要です。

  • 所有権の定義:NFTの「所有」と「利用権」の境界を明確にする必要があります。
  • 環境負荷の問題:ブロックチェーンの電力消費を考慮し、環境配慮型チェーン(例:PoS方式)を採用することが望ましい。
  • 投機化リスク:観光NFTが転売や投機の対象となることを防ぐガバナンス設計が不可欠です。

観光DXは文化・経済・テクノロジーの交差点にあるため、技術導入だけでなく、社会的合意形成とガイドライン整備が並行して進められる必要があります。

展望 ― 「体験が資産になる」社会へ

観光DXの未来像を描くなら、それは「体験が資産になる社会」です。
AIが旅行者の嗜好を解析し、ブロックチェーンが体験を記録し、ARが記憶を再現する――そうした連携の中で、旅は「消費」から「蓄積」へと変わっていきます。

観光とは、一度きりの行動でありながら、個人の記憶と文化をつなぐ永続的な営みです。
NFTは、その“つながり”をデジタルの形で保証する技術です。
「あるときにしか見られない風景」「その土地にしか存在しない文化」「人と場所の偶然の出会い」――これらがNFTとして残る世界では、旅は時間を超えて続いていくでしょう。

観光DXの行き着く先は、技術が主役になることではなく、技術が人の感動を保存し、再び呼び覚ますことにあります。
NFTはその役割を担う、観光の新しい記憶装置となるかもしれません。

まとめ

観光DXは、単なるデジタル化の取り組みではありません。
それは「観光」という産業を、人と地域とデータが有機的につながる社会システムへと再定義する試みです。
観光庁の政策、地方自治体のデータ連携、AIやMaaSによる利便性向上、そしてNFTやメタバースといった新技術の導入――これらはすべて、「観光を一度の体験から継続する関係へ変える」ための要素に過ぎません。

福井県越前市の「ECHIZEN Quest」に象徴されるように、観光DXの焦点は「訪れる」から「関わる」へと移行しています。
NFTを活用することで、旅の体験はデジタル上に記録され、地域との関係が時間を超えて持続可能になります。
それは“観光のデータ化”ではなく、“体験の永続化”です。
旅行者は「その瞬間にしか見られない風景」や「その土地にしかない文化」を自らのデジタル資産として所有し、地域はその体験を再生産する文化基盤として活かす。
この相互作用こそが、観光DXの最も重要な価値です。

国内では、観光DXが行政・交通・宿泊を中心に「構造のデジタル化」から進んでおり、効率的で快適な旅行環境が整いつつあります。
一方、海外の動向は一歩先を行き、データ・文化・環境を統合した都市レベルの観光DXを実現しています。
アムステルダムやバルセロナのように、都市全体で観光客の行動データを活用し、社会的負荷を抑えながら体験価値を高める事例は、日本の地域観光にも大きな示唆を与えています。
今後、日本が目指すべきは、地域単位のデジタル化から、社会全体で観光を支える情報基盤の整備へと進むことです。

NFTをはじめとする分散型技術は、その未来像において極めて重要な位置を占めます。
NFTは、経済的な交換価値よりも、「記録」「証明」「文化的共有」という非金融的な価値を提供できる点に強みがあります。
観光DXが成熟するほど、「デジタルで体験を残し、再訪を誘発し、地域に循環させる」仕組みが必要になります。
NFTは、まさにその循環を支える観光データの“文化的層”を形成する技術といえるでしょう。

観光DXの最終的な目的は、技術そのものではなく、人と場所の関係性を豊かにすることです。
AIが旅程を提案し、データが動線を最適化し、NFTが記憶を保存する。
そうしたデジタルの連携によって、私たちは「訪れる旅」から「つながる旅」へと移行していきます。

これからの観光は、時間と空間を超えて続く“体験の共有”として発展するでしょう。
NFTを通じて旅の記録が形を持ち、AIを通じて地域との対話が続き、データを通じて新たな価値が生まれる。
観光DXは、そうした未来社会への入り口に立っています。
そしてその中心には常に、人の感動と地域の物語があります。
技術はその橋渡し役であり、NFTはその「記憶を残す器」として、次の時代の観光を静かに支えていくはずです。

参考文献

日本政府が進めるAI利活用基本計画 ― 社会変革と国際競争力への挑戦

2025年6月、日本では「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律(いわゆるAI新法)」が成立しました。この法律は、AIを社会全体で適切かつ効果的に活用していくための基本的な枠組みを定めたものであり、政府に対して「AI利活用の基本計画」を策定する義務を課しています。すでに欧米や中国ではAI分野への投資や規制整備が急速に進んでおり、日本としても後れを取らないために、法制度の整備と政策の具体化が急務となっています。

9月12日には「AI戦略本部」が初めて開催され、同会合で基本計画の骨子案が示されました。骨子案は単なる技術政策にとどまらず、AIを社会や産業にどう根付かせ、同時にリスクをどう制御するかという包括的な戦略を示しています。AIの利用拡大、国産技術開発、ガバナンス強化、そして教育・雇用といった社会構造への対応まで幅広い視点が盛り込まれており、日本がAI時代をどう迎え撃つのかを示す「羅針盤」と言える内容です。

本記事では、この骨子案に基づき、今後どのような変化が生まれるのかを整理し、日本社会や産業界にとっての意味を掘り下げていきます。

基本方針と骨子案のポイント

政府が示した骨子案は、単なるAIの推進計画ではなく、今後の社会・経済・ガバナンスを方向づける「国家戦略」として位置づけられています。大きく4つの基本方針が掲げられており、それぞれに具体的な施策や政策課題が盛り込まれています。以下にそのポイントを整理します。

1. AI利活用の加速的推進

AIを行政や産業分野に積極的に導入することが柱の一つです。行政手続きの効率化、医療や教育におけるサービスの質の向上、農業や物流などの伝統産業の生産性改善など、多様な分野でAIが利活用されることを想定しています。また、中小企業や地域社会でもAI導入が進むよう、政府が積極的に支援を行う仕組みを整備することが骨子案に盛り込まれています。これにより、都市部と地方の格差是正や、中小企業の競争力強化が期待されます。

2. AI開発力の戦略的強化

海外の基盤モデル(大規模言語モデルや生成AIなど)への依存を減らし、日本国内で独自のAI技術を育てていく方針です。高性能なデータセンターやスーパーコンピュータの整備、人材の育成や海外からの誘致も計画に含まれています。さらに、産学官が一体となって研究開発を進める「AIエコシステム」を構築することが強調されており、国内発の基盤モデル開発を国家的プロジェクトとして推進することが想定されています。

3. AIガバナンスの主導

ディープフェイク、著作権侵害、個人情報漏洩といったリスクへの対応が重要視されています。骨子案では、透明性・説明責任・公平性といった原則を制度として整備し、事業者に遵守を求める方向が示されています。また、日本独自の規制にとどまらず、国際的な標準化やガバナンス議論への積極的関与が方針として打ち出されています。これにより、日本が「ルールメーカー」として国際社会で発言力を持つことを狙っています。

4. 社会変革の推進

AIの導入は雇用や教育に大きな影響を及ぼします。骨子案では、AIによって失われる職種だけでなく、新たに生まれる職種への移行を円滑に進めるためのリスキリングや教育改革の必要性が強調されています。さらに、高齢者やデジタルに不慣れな層を取り残さないよう、誰もがAI社会の恩恵を享受できる環境を整えることが明記されています。社会全体の包摂性を高めることが、持続可能なAI社会への第一歩と位置づけられています。


このように骨子案は、技術開発だけではなく「利用」「規制」「社会対応」までを包括的に示した初の国家戦略であり、今後の政策や産業の方向性を大きく左右するものとなります。

予想される変化

骨子案が実際に計画として策定・実行に移されれば、日本の社会や産業、そして市民生活に多面的な変化が生じることが予想されます。短期的な動きから中長期的な構造的変化まで、いくつかの側面から整理します。

1. 産業・経済への影響

まず最も大きな変化が期待されるのは産業分野です。これまで大企業を中心に利用が進んできたAIが、中小企業や地域の事業者にも広がり、業務効率化や新規事業開発のきっかけになるでしょう。製造業や物流では自動化・最適化が進み、農業や医療、観光など従来AI導入が遅れていた領域でも普及が見込まれます。特に、国産基盤モデルが整備されることで「海外製AIへの依存度を下げる」という産業安全保障上の効果も期待されます。結果として、日本独自のイノベーションが生まれる土壌が形成され、国内産業の国際競争力向上につながる可能性があります。

2. ガバナンスと規制環境

AIの活用が進む一方で、透明性や説明責任が事業者に強く求められるようになります。ディープフェイクや誤情報拡散、個人情報漏洩といったリスクへの対策が法制度として明文化されれば、企業はガイドラインや規制に沿ったシステム設計や監査体制の整備を余儀なくされます。特に「リスクベース・アプローチ」が導入されることで、高リスク分野(医療、金融、公共安全など)では厳しい規制と監視が行われる一方、低リスク分野では比較的自由な実装が可能になります。この差別化は事業環境の明確化につながり、企業は戦略的にAI活用領域を選択することになるでしょう。

3. 教育・雇用への波及

AIの普及は労働市場に直接影響を与えます。単純作業や定型業務の一部はAIに代替される一方で、データ分析やAI活用スキルを持つ人材の需要は急増します。骨子案で強調されるリスキリング(再教育)や教育改革が進めば、学生から社会人まで幅広い層が新しいスキルを習得する機会を得られるでしょう。教育現場では、AIを活用した個別最適化学習や学習支援システムが普及し、従来の画一的な教育から大きく転換する可能性があります。結果として「人材市場の流動化」が加速し、キャリア設計のあり方にも変化をもたらすと考えられます。

4. 市民生活と社会構造

行政サービスの効率化や医療診断の高度化、交通や都市インフラのスマート化など、市民が日常的に接する領域でもAI活用が進みます。行政手続の自動化により窓口業務が減少し、オンラインでのサービス利用が標準化される可能性が高いです。また、医療や介護ではAIが診断やケアを補助することで、サービスの質やアクセス性が改善されるでしょう。ただし一方で、デジタルリテラシーの差や利用環境の格差が「取り残され感」を生む恐れもあり、骨子案にある包摂的な社会設計が実効的に機能するかが問われます。

5. 国際的な位置づけの変化

日本がAIガバナンスで国際標準作りに積極的に関与すれば、技術的な後発性を補う形で「ルールメーカー」としての存在感を高めることができます。欧州のAI法や米国の柔軟なガイドラインに対し、日本は「安全性と実用性のバランスを重視したモデル」を打ち出そうとしており、アジア地域を含む他国にとって参考となる可能性があります。国際協調を進める中で、日本発の規範や枠組みがグローバルに採用されるなら、技術的影響力を超えた外交資産にもなり得ます。

まとめ

この骨子案が本格的に実行されれば、産業競争力の強化・規制環境の整備・教育改革・市民生活の利便性向上・国際的なガバナンス主導といった変化が連鎖的に生じることになります。ただし、コンプライアンスコストの増加や、リスキリングの進展速度、デジタル格差への対応など、解決すべき課題も同時に顕在化します。日本が「AIを使いこなす社会」となれるかは、これらの課題をどこまで実効的に克服できるかにかかっています。

課題と論点

AI利活用の基本計画は日本にとって大きな方向性を示す一歩ですが、その実現にはいくつかの構造的な課題と論点が存在します。これらは計画が「理念」にとどまるのか「実効性ある政策」となるのかを左右する重要な要素です。

1. 実効性とガバナンスの確保

AI戦略本部が司令塔となり政策を推進するとされていますが、実際には各省庁・自治体・民間企業との連携が不可欠です。従来のIT政策では、縦割り行政や調整不足によって取り組みが断片化する事例が多くありました。AI基本計画においても、「誰が責任を持つのか」「進捗をどのように監視するのか」といった統治体制の明確化が課題となります。また、政策を定めても現場に浸透しなければ形骸化し、単なるスローガンで終わってしまうリスクも残ります。

2. 企業へのコンプライアンス負担

AIを導入する事業者には、透明性・説明責任・リスク管理といった要件が課される見込みです。特にディープフェイクや著作権侵害の防止策、個人情報保護対応は技術的・法的コストを伴います。大企業であれば専任部門を設けて対応できますが、中小企業やスタートアップにとっては大きな負担となり、AI導入をためらう要因になりかねません。規制の強化と利用促進の両立をどう設計するかは大きな論点です。

3. 国際競争力の確保

米国や中国、欧州はすでにAIへの巨額投資や法規制の枠組みを整備しており、日本はやや後発の立場にあります。国内基盤モデルの開発や計算資源の拡充が進むとしても、投資規模や人材の絶対数で見劣りする可能性は否めません。国際的な標準化の場で発言力を高めるには、単にルールを遵守するだけではなく、「日本発の成功事例」や「独自の技術優位性」を打ち出す必要があります。

4. 教育・雇用の移行コスト

AIの普及により一部の職種は縮小し、新たな職種が生まれることが予想されます。その移行を円滑にするためにリスキリングや教育改革が打ち出されていますが、実際には教育現場や企業研修の制度が追いつくまでに時間がかかります。さらに、再教育の機会を得られる人とそうでない人との間で格差が拡大する可能性があります。「誰一人取り残さない」仕組みをどこまで実現できるかが試される部分です。

5. 社会的受容性と倫理

AIの導入は効率性や利便性を高める一方で、監視社会化への懸念やアルゴリズムの偏見による差別の拡大といった副作用もあります。市民が安心してAIを利用できるようにするためには、倫理原則や透明な説明責任が不可欠です。技術の「安全性」だけでなく、社会がそれを「信頼」できるかどうかが、最終的な普及を左右します。

6. 財源と持続性

基本計画を実行するには、データセンター建設、人材育成、研究開発支援など多額の投資が必要です。現時点で日本のAI関連予算は欧米に比べて限定的であり、どの程度持続的に資金を確保できるかが課題となります。特に、民間投資をどこまで呼び込めるか、官民連携の枠組みが実効的に機能するかが重要です。

まとめ

課題と論点をまとめると、「実効性のある司令塔機能」「企業負担と普及のバランス」「国際競争力の確保」「教育と雇用の移行コスト」「社会的受容性」「持続可能な財源」という6つの軸に集約されます。これらをどう解決するかによって、日本のAI基本計画が「実際に社会を変える戦略」となるのか、それとも「理念にとどまる政策」となるのかが決まると言えるでしょう。

おわりに

日本政府が策定を進める「AI利活用の基本計画」は、単なる技術政策の枠を超え、社会の在り方そのものを再設計する試みと位置づけられます。骨子案に示された4つの柱 ― 利活用の推進、開発力の強化、ガバナンスの主導、社会変革の促進 ― は、AIを「技術」から「社会基盤」へと昇華させるための方向性を明確に打ち出しています。

この計画が実行に移されれば、行政や産業界における業務効率化、国産基盤モデルを軸とした研究開発力の向上、透明性・説明責任を重視したガバナンス体制の確立、そして教育や雇用を含む社会構造の変革が同時並行で進むことが期待されます。短期的には制度整備やインフラ投資による負担が生じますが、中長期的には新たな産業の創出や国際的な影響力強化といった成果が見込まれます。

しかしその一方で、課題も多く残されています。縦割り行政を克服して実効性ある司令塔を確立できるか、企業が過度なコンプライアンス負担を抱えずにAIを導入できるか、教育やリスキリングを通じて社会全体をスムーズに変化へ対応させられるか、そして国際競争の中で存在感を発揮できるか――いずれも計画の成否を左右する要素です。

結局のところ、この基本計画は「AIをどう使うか」だけでなく、「AI社会をどう設計するか」という問いに対する答えでもあります。日本がAI時代において持続可能で包摂的な社会を実現できるかどうかは、今後の政策実行力と柔軟な調整にかかっています。AIを成長のエンジンとするのか、それとも格差やリスクの温床とするのか――その分岐点に今、私たちは立っているのです。

参考文献

Apple発表会2025 ― 未来を変える5つの衝撃的なイノベーション

毎年恒例のApple新製品発表会。今年もまた、私たちの期待をはるかに超える情報の洪水でした。新しいチップ、進化したカメラ、洗練されたデザイン。しかし、その膨大な情報の渦の中で、本当に私たちの生活を一変させる可能性を秘めた「本質的な変化」とは何だったのでしょうか?この記事では、単なるスペックの羅列ではなく、未来の常識を書き換えるかもしれない、特に衝撃的だった5つの事実に絞って、その核心を深く掘り下げていきます。

「デザインは単なる見た目や感触ではない。 どう機能するかだ」 — スティーブ・ジョブズ

AirPodsが、あなたの耳元で「翻訳家」兼「フィットネストレーナー」になる

これまでのAirPodsは、音楽や動画を快適に楽しむための「受動的なメディアデバイス」という位置づけでした。しかし、AirPods Pro 3が持ち込んだ新しい方向性は、その存在意義を大きく変えています。単に音を聞かせるイヤホンではなく、日常のあらゆるシーンにおいて「伴走者」として機能する多機能デバイスへと進化したのです。

リアルタイム翻訳が切り拓く新しいコミュニケーションの形

AirPods Pro 3のライブ翻訳機能は、これまで専用デバイスやアプリに頼ってきた「言葉の壁を越える体験」を、耳に装着するだけで実現してしまいました。たとえば海外旅行でレストランに入ったとき、店員の言葉が瞬時に翻訳され、自分の言葉も相手に伝わる。これまではスマートフォンを取り出して翻訳アプリを立ち上げる必要があった状況が、AirPodsを通じて自然な会話体験へと変わるのです。

さらに特筆すべきは、アクティブノイズキャンセリングと翻訳機能が連携している点です。ANCが相手の声を少し抑制し、翻訳音声に自然と耳が向かうよう設計されており、単に「翻訳する」だけでなく「快適に翻訳を受け取れる」ユーザー体験が緻密にデザインされています。教育現場や国際会議でも応用でき、グローバル社会での交流が一段とスムーズになる未来を予感させます。

健康を耳から管理するという新たなアプローチ

もう一つの革新的なポイントは、AirPodsに搭載された心拍センサーです。これまではApple Watchが担ってきた領域ですが、イヤホンという「常に耳に装着されるデバイス」にセンサーが組み込まれたことで、利用シーンが大きく広がります。

たとえばランニングやジムでのトレーニング時、ユーザーは時計を装着していなくても、AirPodsさえあれば心拍数や消費カロリーを自動的に記録できます。イヤホンから直接「ペースが上がりすぎています」「この調子であと5分維持しましょう」といったリアルタイムフィードバックが届く未来も遠くありません。これは、まるで耳元にトレーナーが付き添っているかのような体験を可能にするのです。

社会的インパクトと今後の可能性

これらの進化は単なる機能追加ではなく、AirPodsを「日常生活の中で最も身近なヘルスケアデバイス」へと押し上げるきっかけとなります。Apple Watchを持たない層にとっても、AirPodsを使うだけで健康データを取得できるようになれば、より多くの人が健康意識を高めることにつながります。また、翻訳機能は多文化社会における障壁を取り除き、教育や国際ビジネスの現場で強力な武器となるでしょう。

AirPodsはもはや「音楽プレイヤーの延長線上」ではありません。国境と言語を超えるコミュニケーションの鍵であり、健康を守るフィットネストレーナーであり、さらには日常生活を豊かにする最先端のアシスタントです。その進化の先には、イヤホンという形を超えた「人間拡張デバイス」としての未来像が浮かび上がってきます。

Apple Watchが「サイレントキラー」からあなたを守る、プロアクティブな健康の番人へ

Apple Watchはこれまでも、転倒検出、心房細動の通知、緊急通報などによって、数え切れない命を救ってきました。スマートウォッチという枠を超えて、すでに「身に着ける医療機器」に近い存在といっても過言ではありません。そんなApple Watchが今年、さらに大きな進化を遂げました。それが 「高血圧通知機能」 です。

高血圧という見えない脅威

アメリカ心臓協会が「サイレントキラー」と呼ぶ高血圧は、自覚症状がないまま進行し、脳卒中や心筋梗塞といった致命的な疾患を引き起こすことで知られています。特に現代社会ではストレスや食生活の乱れによって発症リスクが高まり、世界中で数億人が罹患していると推計されています。しかし多くの人は、定期的に血圧を測定する習慣がなく、気づいたときには手遅れというケースが少なくありません。

Apple Watchが変える予防医療のあり方

Apple Watch Series 11に搭載された高血圧通知機能は、光学式心拍センサーや独自のアルゴリズムを組み合わせ、ユーザーの血管反応を継続的にモニタリングします。これにより、医療機関での診断前に「高血圧の可能性」を検知し、ユーザーに注意を促します。

従来の血圧測定はカフ(腕帯)を使った断続的なものでしたが、Apple Watchは日常生活の中で常時データを取得できる点で優れています。これにより、ストレス時や夜間など「従来の測定では見逃されがちだったタイミング」にも血圧変動を捉えることが可能になります。

社会的インパクト

Appleによると、この機能はFDA(アメリカ食品医薬品局)をはじめとする規制当局の認可を順次取得予定であり、最初の1年だけで診断されていない100万人以上にリスクを知らせられる可能性があるとされています。これは単なる「新機能」ではなく、医療の仕組みに直接インパクトを与える規模の変革です。

健康保険制度や医療現場にとっても、早期発見による医療費削減や、重篤な疾患の予防といった波及効果が期待できます。企業の健康経営の取り組みや公共政策にも直結し、社会全体の医療コストを抑制する手段となり得るのです。

プロアクティブから「パーソナライズド」へ

Apple Watchの進化は、単に「問題が起きたら通知する」というリアクティブな役割から、「問題が起きる前に予兆をとらえて警告する」というプロアクティブな役割へとシフトしました。そして今後は、取得データをAIが解析し、個々人のライフスタイルに合わせて最適なアドバイスを提供する「パーソナライズド・ヘルスケア」へと発展していく可能性があります。

例えば「今週は睡眠不足が続いているため血圧が上昇傾向です。夕方に軽い運動を取り入れましょう」といった具体的な提案が、将来的にはApple Watchから直接届くかもしれません。


このようにApple Watchは、単なる「通知機能付きの時計」ではなく、健康を守るための 能動的な医療パートナー へと進化しました。それは「テクノロジーが命を救う」時代を象徴する動きであり、ユーザーのライフスタイルや社会の医療システム全体に大きな変革をもたらす可能性を秘めています。

標準モデルのiPhoneが、昨年の「Proモデル」を超えた

iPhoneのラインナップにおいて「Proモデル」と「標準モデル」はこれまで明確に線引きされていました。最新技術や最先端のデザインはまずProに搭載され、その後数年かけて標準モデルに降りてくる――それがこれまでの常識でした。しかし、iPhone 17の標準モデルはこの慣例を打ち破り、「Proでなければ得られない体験」という考え方を根本から覆しました。

Pro機能の“標準化”

iPhone 17は従来Pro専用だった機能を惜しみなく搭載しています。

  • ProMotionディスプレイ:最大120Hzのアダプティブリフレッシュレートに対応し、スクロールやアニメーションが格段に滑らかになりました。これにより、SNSの閲覧やゲーム、動画編集といった日常的な体験が、標準モデルでもPro並みの快適さに到達しています。
  • Dual Fusionカメラシステム:48MPの高解像度センサーをメインカメラと超広角カメラの両方に採用。従来の標準モデルでは考えられなかったレベルのディテールと色再現力を誇り、風景撮影から夜景まで幅広く高品質な撮影を可能にしています。
  • センターフレームフロントカメラ:正方形センサーを活用し、縦持ちのまま横向きのセルフィーを撮影できる新体験を提供。これは単なる画質向上ではなく、「撮影スタイルそのものの革新」と言えるものです。

ユーザーに与える影響

この変化は、ユーザーの購買行動に直接影響を与える可能性があります。これまで「最新体験が欲しいから高価でもProを選ぶ」という層が多かったのに対し、iPhone 17では標準モデルで十分以上の満足度が得られるため、より多くの人がコストパフォーマンスを重視して標準モデルを選ぶことになるでしょう。

特に学生や若年層にとっては、従来手が届きにくかった「Pro級の体験」をより手軽に享受できるようになり、世代を超えてiPhoneの利用体験が均質化していく可能性があります。

市場構造の変化

標準モデルがここまで進化すると、Proモデルの立ち位置も変化せざるを得ません。Proは「最高のカメラ」や「最新の素材」といった付加価値に加え、クリエイターやハイエンドユーザー向けの特化機能にシフトしていくことになるでしょう。言い換えれば、標準モデルは「大衆のためのハイエンド」、Proモデルは「特定用途の究極装備」という二極化が進むと考えられます。

歴史的転換点としてのiPhone 17

iPhone 17の標準モデルは、単なるスペックの強化ではなく、「標準とProの境界を曖昧にした」という点で大きな意味を持ちます。スマートフォン市場において、メーカーがモデル間であえて差別化をつけるのは常套手段でしたが、Appleはその枠組みすら超えて「標準=十分以上」という新しい価値観を提示しました。

結果として、今後のユーザー体験は価格帯によって制約されることが少なくなり、誰もが最新のテクノロジーを享受できる時代が到来しつつあるのです。

Appleが「未来のかけら」を形にした。常識を覆すiPhone Airの誕生

今年の発表会で最も大きなサプライズは、間違いなく iPhone Air の登場でした。これまでのiPhoneの進化は性能強化やカメラの刷新が中心でしたが、Airはその文脈とは一線を画し、「薄さと軽さ」というシンプルながらも実現が困難な領域に真正面から挑んだモデルです。

「手にのせていることを忘れるほどの軽さ」と表現されたそのデザインは、単なる美辞麗句ではありません。厚さはわずか 5.6mm。それは歴代iPhoneの中で最も薄く、しかも軽量でありながら頑丈さを失っていないという、矛盾した条件をクリアしています。

デザインと素材の革新

iPhone Airの実現を支えたのは、Appleが長年追求してきた素材工学と製造技術です。宇宙船にも採用されるグレード5のチタニウムフレームを用い、従来のアルミニウムやステンレスよりも軽くて強い骨格を実現しました。さらに、iPhone史上初めて前面と背面の両方にCeramic Shieldを採用。これにより、従来なら「薄さと強度はトレードオフ」という常識を打ち破っています。

内部設計とeSIM化

iPhone Airは物理SIMスロットを廃止し、完全にeSIM専用とする大胆な決断を下しました。この変更によって内部スペースが生まれ、その分をバッテリー容量に回すことで、「薄さと長時間駆動」の両立を実現しています。加えて、最新の A19 Proチップ と専用の冷却設計により、薄型ながらもProモデルに迫るパフォーマンスを提供する点は特筆に値します。

新しいユーザー体験

この薄さは単に「持ちやすい」という利便性にとどまりません。長時間の通話や読書、動画視聴の際に手や腕への負担が減少し、デバイスを使う時間そのものが快適になります。また、軽量化によってウェアラブル感覚に近づき、スマートフォンがより自然に日常へ溶け込むことになるでしょう。

特に女性や子ども、高齢者など「重さ」がこれまで障壁となっていたユーザー層にとって、iPhone Airは新しい選択肢を提供します。つまりAirは、これまで「高性能は大きくて重いものに宿る」とされてきた常識を完全に逆転させたのです。

iPhone Airが示す未来像

iPhone Airの存在は、Appleがスマートフォンを単なる「スペック競争の延長」ではなく、 デザインとテクノロジーの調和による未来的なライフスタイル提案 へと進化させようとしている証拠です。Airは「次世代の携帯端末がどうあるべきか」という問いに対する、一つの回答でもあります。

これは単なる新モデルの追加ではなく、Appleの製品哲学の方向転換を象徴する出来事です。将来的にはAirの思想が、iPadやMacBookといった他のデバイスにも波及し、「薄く、軽く、しかし妥協なき性能」という流れを加速させるかもしれません。

Proの再定義。iPhone 17 Proは「チタン」を捨て「アルミニウム」を選んだ

iPhone 17 Proが下した最大の決断は、前モデルで採用され「高級感の象徴」とされていた チタンフレームを廃止 し、代わりに 航空宇宙産業グレードのアルミニウム合金 を選んだことでした。この決断は一見すると「グレードダウン」に見えます。しかし、その実態はAppleの設計哲学を体現する、極めて合理的かつ先進的な選択でした。

チタンからアルミニウムへ ― 真の理由

チタンは軽量かつ強靭な素材であり、iPhone 15 Proで初めて採用された際には「究極の高級素材」として高い注目を集めました。しかし、熱伝導率の面ではアルミニウムに大きく劣るという欠点があります。

一方、iPhone 17 Proが採用した新しいアルミニウム合金は、チタンよりも約20倍高い熱伝導率を持ちます。この特性を活かし、筐体全体を巨大なヒートシンクのように機能させることで、A19 Proチップが発生する熱を効率的に逃がすことが可能になりました。結果として、従来比40%もの高い持続的パフォーマンス を安定して発揮できるようになったのです。

「素材=高級感」から「素材=機能性」へ

Appleのこの選択は、スマートフォンデザインにおける「素材の価値」の再定義でもあります。これまで「高級素材=高級モデル」という単純な構図が市場を支配していました。しかしiPhone 17 Proは、「最高の素材とは見た目や希少性ではなく、目的に最適化された機能を果たす素材である」という哲学を打ち出しました。

つまり、Proモデルに求められるのは「希少性」ではなく「性能を最大限引き出す合理性」。この思想は、スティーブ・ジョブズが語った「デザインとはどう見えるかではなく、どう機能するかだ」という言葉を想起させます。

ユーザー体験への影響

この熱設計の刷新により、iPhone 17 Proは長時間のゲームプレイや動画編集、さらにはProRes RAW撮影といった高負荷作業でも安定した性能を発揮できます。これまで「短時間なら快適だが、長時間では発熱による性能低下が避けられない」という制約が、実質的に大幅緩和されました。特にモバイルでのクリエイティブワークに従事するユーザーにとって、この恩恵は計り知れません。

デザイン的意義と市場へのメッセージ

アルミニウムへの回帰は、「Proモデル=より実用的かつ持続的に性能を発揮できるツール」であるという新しい方向性を示しています。これは、単にラグジュアリー志向を追い求める他社のフラッグシップスマホとの差別化にもつながります。Appleは「Pro=見栄えの高級感」ではなく、「Pro=性能と信頼性の象徴」として再定義したのです。

また、アルミニウムは加工性やリサイクル性にも優れており、環境配慮という観点からも合理的です。Appleが掲げるサステナビリティ戦略においても、この変更は重要な意味を持ちます。


iPhone 17 Proがチタンを捨ててアルミニウムを選んだことは、単なる素材変更ではなく、「Proとは何か」を根本から問い直す出来事 でした。性能を安定して引き出すための合理的な選択こそが真の高級である――Appleはその思想を形にし、再び業界の常識を書き換えようとしているのです。

おわりに

今年の発表会で紹介された5つの衝撃的な事実は、それぞれが独立した技術革新でありながら、共通して一つの大きな流れを示しています。それは「Apple Intelligenceを軸とした体験の深化」と「健康と安全へのより強いコミットメント」です。デバイスはもはや「便利な道具」や「高性能ガジェット」という枠を超え、私たちの 能力を拡張する存在 であり、時には 命を守るパートナー としての役割を担い始めています。

AirPodsは翻訳家やフィットネストレーナーとなり、Apple Watchは病気の予兆を検知する医療的アシスタントとなり、iPhoneは標準モデルすらProを超える力を持ち、iPhone Airは「薄さと性能の両立」という未来の方向性を提示しました。そしてiPhone Proは素材の選択を通じて「高級とは何か」を再定義しました。これらは単なる製品のアップデートではなく、Appleという企業が 人とテクノロジーの関係性をどのように設計するか を示すメッセージそのものです。

さらに注目すべきは、この進化が特定の一部ユーザーだけでなく、より幅広い層に恩恵をもたらす形で展開されている点です。標準モデルの強化によって、先端技術はより多くの人に手の届くものとなり、AirPodsやApple Watchによって「健康と安全」という社会的課題に寄与する道が切り開かれました。Appleの発表は、単なるビジネス戦略を超えて、テクノロジーの公共性や社会的責任 にも踏み込んでいるといえます。

次にあなたがスマートフォンを買い換えるとき、それはもはや「電話」や「通信端末」ではなく、あなたの 健康の守護神 であり、世界への扉 であり、さらには 未来を一歩先に体験させてくれる存在 となるでしょう。テクノロジーは私たちの生活をどう変えるのか――その問いに対してAppleが示したのは、機能や性能を超えた「人間の生き方に寄り添う進化」でした。

あなたは、この変化の波にどう向き合い、どのように受け入れていくでしょうか?

参考文献

出社回帰はなぜ進むのか ― 日本企業とIT大手の実態から読み解く

コロナ禍を契機に急速に普及したリモートワークは、日本でも一時は「新しい働き方のスタンダード」として広がりました。しかし2025年現在、その流れは変化しつつあります。日本企業の36.1%が出社頻度を増加させたとの調査結果が報じられており、理由として最も多かったのは「コミュニケーションが希薄になった」(46.6%)でした。さらに「新人教育がしにくい」(34.2%)、「従業員の生産性が低下した」(32.1%)といった声も多く挙がっており、日本企業では組織運営上の課題に対応する形で出社回帰が進んでいます。こうした現実は「リモートでも十分やれる」という従業員の実感とは対照的であり、両者の意識のずれが鮮明になっています。

一方で、海外でも同様に大手IT企業を中心に出社回帰が強まっています。GoogleやAmazon、Metaなどは、リモート環境だけでも業務が成立するにもかかわらず、イノベーションの停滞、企業文化の希薄化、人材育成の難しさを理由に出社を義務付ける方向へと舵を切っています。経営層が見ているのは「組織全体の持続的な競争力」であり、従業員が重視する「個人の効率性や自由度」とは根本的に視点が異なります。

本記事では、まず日本企業の実態を押さえたうえで、海外大手の方針や背景を整理し、さらに従業員側の主張とのすれ違いを検証します。そのうえで、両者が対立するのではなく、ファクトを共有しながら調整していくためのフレームを考察していきます。

日本企業における出社回帰の実態:コミュニケーションと教育の課題

2025年8月29日付で公開された Monoist の調査記事 によれば、コロナ禍を経た現在、日本のIT関連企業の 36.1%が「出社頻度を増加させた」と回答しました。リモートワークを一気に拡大した2020〜2022年の流れと比較すると、明確に「出社回帰」へと傾きつつあることがうかがえます。

その最大の理由は、「コミュニケーションが希薄になった」であり、回答割合は 46.6% に達しました。つまり約2社に1社が「リモート下では社員同士の交流や連携が不十分になる」と感じていることになります。単なる雑談の減少というレベルではなく、部門横断の情報共有や偶発的な会話を通じたアイデア創出が失われていることへの危機感が強いと考えられます。

また、他の理由としては以下が挙げられています。

  • 新人教育がしにくい(34.2%) 新入社員や若手のOJTがオンライン中心では機能しづらく、成長スピードや定着率に影響していると捉える企業が多い。特に「隣に座っている先輩にすぐ質問できる」といった環境はリモートでは再現困難。
  • 従業員の生産性が低下した(32.1%) リモートで集中しやすい社員もいる一方、家庭環境や自己管理能力によっては業務効率が下がるケースもある。企業としては「全体最適」を考えた際に、出社を求めざるを得ないとの判断。
  • 企業文化が浸透しない(20%前後) 長期的にリモートが続くと、組織の一体感や価値観共有が難しくなり、離職やモチベーション低下につながる懸念がある。

出社環境の整備策

単に「出社しろ」と命じるだけでは従業員の納得感が得られないため、出社を後押しする施策を導入する企業も増えています。調査によれば以下のような取り組みが進んでいます。

  • 集中スペースやリフレッシュスペースの設置(53.9%) オフィスを「単なる作業場」ではなく「快適で効率的に働ける場」に進化させる試み。集中と休憩のメリハリをつけやすくし、出社の価値を高める狙いがある。
  • 社内イベントの増加(34.7%) チームビルディングやコミュニケーションの機会を設計的に増やすことで、リモートで失われがちな「偶発的な交流」を補う。イベントを通じて帰属意識や文化醸成を促進する効果も期待されている。

背景にある日本特有の事情

こうした日本企業の動きには、海外とは異なる要素も存在します。

  • 日本企業は新卒一括採用とOJTによる育成が依然として主流であり、若手社員の教育・同調圧力を重視する文化が強い。
  • 経営層の多くがリモートワークに懐疑的で、「社員の働きぶりを目で確認したい」という心理的要因も根強い。
  • 法制度や労務管理の観点からも、リモートより出社の方が管理が容易という事情がある。

まとめ

この調査結果は、日本における出社回帰が単なる「古い働き方への逆戻り」ではなく、コミュニケーション不足、新人育成の難しさ、生産性低下への対応といった具体的な課題に基づく合理的な選択であることを示しています。同時に、企業がオフィス環境を刷新し、イベントを増やすなど「出社のメリットを高める工夫」を行っている点も重要です。

経営層が出社を求める理由の背景を理解するためには、こうした国内の実態を踏まえた議論が不可欠といえるでしょう。

経営層の論理:組織全体視点での出社回帰の根拠

経営層が出社回帰を推進する背景には、単なる「従業員の姿を見たい」という表面的な理由以上に、組織全体の成果、文化、統制 といった広い観点からの判断があります。とりわけ、イノベーション、人材育成、企業文化、セキュリティの4つが柱です。以下では各企業の具体例を交えながら整理します。

1. イノベーションと創造性の維持

リモート環境では、会議やチャットは可能であっても、偶発的な会話や対話から生まれるアイデアが生まれにくいという懸念があります。

  • Google は週3日の出社を義務付けた背景について「対面での協働が新しいサービスや製品開発に直結する」と説明しています。特にAI部門など、技術革新が競争力に直結する領域では「オフィスでの密度の高い議論」が不可欠とされています。共同創業者セルゲイ・ブリンはAIチームに向け「週5日、60時間こそが生産性の最適点」と記したメモを残しており、企業トップレベルでの危機感が示されています。
  • Amazon のアンディ・ジャシーCEOも「ブレインストーミングや問題解決は対面が最も効果的だ」と繰り返し強調し、オンラインだけでは議論の速度や深さが不足すると述べています。
  • McKinsey の分析でも、リモートでは「ネットワークの弱体化」「部門横断的な交流の減少」が顕著となり、イノベーションに必要な知識の結合が阻害されるとされています。

2. 人材育成と企業文化の強化

経営者が特に強調するのは、新人教育や若手育成におけるオフィスの役割です。

  • Meta(マーク・ザッカーバーグCEO) は「企業文化や学習スピードはオフィスの方が強い」と明言。特に若手社員が自然に先輩の仕事を見て学ぶ「シャドーイング」や、ちょっとした雑談を通じた知識習得はリモートでは再現困難だとしています。
  • Salesforce のマーク・ベニオフCEOも、新入社員はオフィスで同僚と接することで成長スピードが上がると述べています。実際、Salesforceでは職種によって出社日数を細かく分け、営業部門は週4〜5日、エンジニアは四半期10日程度とするなど、文化維持と人材育成を軸にした柔軟な制度設計を行っています。
  • IBM も同様に「リーダー育成やコーチングは対面の方が効果的」として管理職に強い出社義務を課しており、上層部から文化醸成を徹底する方針を打ち出しています。

3. セキュリティとガバナンス

情報を扱う業界では、セキュリティと統制の観点からも出社が有利とされます。

  • 自宅での作業は、画面の写真撮影や家族による覗き見、個人デバイスの利用といった物理的リスクが常に存在します。
  • 金融や医療、行政などの規制産業では、監査対応や証跡管理を徹底するために、オフィス勤務を前提にした方がリスクが低いという判断がなされています。
  • Google でも一部チームは「イノベーションを守るためのセキュリティ確保」を理由にオフィス勤務を強制しており、配置転換や退職を選ばせるケースも報告されています。

4. 経済的・戦略的要因

表向きにはあまり語られませんが、経済的な理由も影響しています。

  • 大手企業は長期リース契約を結んだ大型オフィスを保有しており、遊休化させれば財務上の無駄になります。
  • 都市経済や地元政府との関係もあり、「オフィス街に人を戻す」こと自体が社会的責務とみなされる場合もあります。Amazonの本社があるシアトルやニューヨークなどでは、企業が出社を進めることが都市経済を維持する一因ともなっています。

まとめ

経営層が出社回帰を求めるのは、単に「働きぶりを見たい」からではありません。

  • イノベーションの創出
  • 新人教育と文化醸成
  • セキュリティと統制
  • 経済的背景

といった多層的な理由が絡み合っています。従業員の「個人効率」だけでは測れない、組織全体の持続的成長が根拠となっている点が重要です。

従業員の論理:個人視点からの主張とその検証

経営層が「組織全体の成果や文化」を理由に出社を求める一方で、従業員は「個人の効率性や生活の質」を根拠にリモートワークの継続を望む傾向があります。ただし、これらの主張には 合理性があるものと誤解や誇張に基づくもの が混在しています。ここでは代表的な主張を列挙し、その妥当性を検証します。

1. 通勤時間・通勤コストは無駄である

  • 主張:往復1〜2時間を移動に使うのは非効率で、業務や学習、副業にあてられる。さらに交通費も会社の負担であり、社会全体にとっても無駄が大きい。
  • 検証:確かに通勤時間が長い都市圏では合理的な主張であり、特に知的労働者にとって「無駄」と感じやすいのは事実。ただし、交通費は多くの企業で非課税支給され、年金や社会保険料の算定基礎に含まれるため、個人にとってはむしろ収入メリットとなる場合もある。時間効率の観点では妥当性があるが、金銭的には必ずしも損ではないといえる。

2. 通勤は体力を消耗する

  • 主張:満員電車や長距離通勤で疲弊し、業務開始時点で集中力が削がれる。リモートなら疲労を抑えられる。
  • 検証:体力的負担は確かに存在するが、一方で通勤は「強制的な運動の機会」ともいえる。歩行・階段移動は日常の運動不足解消につながり、在宅勤務ではむしろ体を動かさなくなるリスクが高い。実際、リモートワークが長期化した社員の健康診断で肥満・運動不足が増えたという調査もある。個人差は大きいが「消耗=悪」とは単純に言えない

3. リモートの方が集中できる

  • 主張:オフィスでは飛び込みの質問や雑談、打ち合わせに時間を奪われやすい。リモートなら静かな環境で集中できる。
  • 検証:エンジニアやデザイナーなど「深い集中」が必要な職種では妥当性が高い。ただし、リモートでもSlackやTeamsで即時応答を求められれば同じく中断は発生する。さらに、集中が維持できるかどうかは家庭環境(子ども・同居人の有無、作業スペースの有無)にも依存する。主張としては正しいが、全員に当てはまるわけではない

4. 成果で評価されるべきで、出社日数を評価に反映するのは矛盾

  • 主張:会社は「成果主義」を標榜しているのに、出社日数を評価に加えるのは合理性がない。
  • 検証:一見正しいが、経営層が言う「成果」は短期的な個人アウトプットだけでなく、長期的なイノベーション・チーム力・文化形成を含む。出社が評価されるのは、この「見えにくい成果」を担保するためでもある。論点のすれ違いが顕著に表れる主張といえる。

5. 働く時間を自律的に選べる

  • 主張:リモートなら自分のペースで働ける。
  • 検証:裁量労働制や完全フレックス制度でなければ、勤務時間の拘束はリモートでも出社でも同じ。リモート=自由ではなく、制度設計次第である。

6. 場所を自律的に選べる

  • 主張:自宅でもカフェでも旅行先でも働けるのがリモートの魅力。
  • 検証:セキュリティやコンプライアンスを考慮すると、実際には自宅や許可されたワークスペース以外は禁止される企業が大半。公共の場での作業は盗み見や盗撮リスクが高く、むしろ危険。理論上の自由度と実務上の制約の間にギャップがある

7. 評価の不公平感(近接バイアス)

  • 主張:出社して上司に「顔を見せる」社員が有利になり、リモート主体の社員は不利になる。
  • 検証:これは実際に組織心理学で確認された「近接バイアス(proximity bias)」という現象であり、根拠のある主張。Googleが出社状況を評価制度に反映させているのも、ある意味で「バイアスを制度に組み込んだ」と解釈できる。従業員にとって最も合理性の高い不満点の一つ

まとめ

従業員側の論理は、

  • 成立しにくいもの(交通費の無駄、体力消耗、時間の自由など)
  • 一定の合理性があるもの(通勤時間の非効率、集中しやすさ、評価の不公平感)

が混ざり合っています。

つまり従業員の主張は必ずしも「誤り」ではなく、組織全体の論理と個人の論理のレイヤーが異なるために齟齬が生じているのが実態です。経営層が「全体成果」、従業員が「個人効率」を優先している点を認識した上で、ファクトに基づいた対話を進める必要があります。

両者をすり合わせるための対話フレーム

経営層と従業員は、それぞれ異なる前提から議論をしています。経営層は「組織全体の持続的成長」を基準にし、従業員は「個人の効率や生活の質」を基準にしているため、互いの論理は平行線をたどりがちです。対立を解消するには、共通のファクトを前提とした対話と、仕組みによる納得感の担保が不可欠です。以下に具体的なフレームを整理します。

1. ファクトベースでの議論を徹底する

  • 組織視点のデータ 出社率と売上成長率、イノベーション指標(新規特許数・新規プロジェクト数)、離職率、若手社員の定着率など、組織全体の数値を共有する。
  • 個人視点のデータ リモート勤務時と出社勤務時のタスク処理量、会議時間、残業時間、通勤負担などを見える化する。
  • 目的 「感覚論」ではなく、「どの領域でリモートが成果を出し、どの領域で出社が必要か」を双方が納得できる形で把握する。

事例:Microsoftは社内調査を通じて「リモートでは部門横断ネットワークが弱まる」とデータで示し、イノベーション領域での出社必要性を説得力を持って説明しました。

2. ハイブリッド勤務の戦略的設計

  • 業務特性に応じた最適化
    • 集中業務(開発・設計・ドキュメント作成):リモート中心
    • 協働業務(企画立案・クロスチーム会議・新人教育):出社中心
  • 曜日や頻度の明確化 「週3日出社」など一律ではなく、プロジェクトのフェーズや部門ごとに柔軟に設定する。
  • 実例
    • Salesforceは営業・カスタマーサポートは週4〜5日出社、エンジニアは四半期10日程度と職務に応じた基準を採用。
    • Googleは一律週3日の出社を定めつつも、チーム単位で例外を設け、AI部門など革新性の高い領域はより厳格な出社を義務付けている。

3. 評価制度の透明化と再設計

  • 従来の問題 出社して上司の目に触れる社員が評価されやすい「近接バイアス」が不公平感を増幅している。
  • 改善の方向性
    • 出社そのものではなく、「出社によって生まれた成果」(例:アイデア創出、チーム連携の改善)を評価対象とする。
    • リモートでも成果が出せる領域はリモート成果を同等に評価する。
    • 評価指標を明確に公開し、曖昧さを減らす。
  • 実例 IBMは管理職の評価に「対面でのメンタリング実施状況」を組み込み、単なる出社日数ではなく「出社を通じて何を達成したか」を評価する形に移行しつつあります。

4. コミュニケーション設計の再構築

  • 出社を「無駄に顔を合わせる日」にせず、協働・交流・教育にフォーカスする設計をする。
  • 例:毎週の出社日に全員が集まる「チームデイ」を設定し、オフラインでしかできない活動(ブレスト・雑談・懇親会)を計画的に実施。
  • 経営層が「出社する価値」を示すことで、従業員が納得感を持ちやすくなる。

5. 双方向の合意形成プロセス

  • 経営層の説明責任:なぜ出社が必要なのか、どの指標に基づいて判断しているのかを具体的に説明する。
  • 従業員の声の吸い上げ:アンケートやパルスサーベイを実施し、不満や実感を定量化する。
  • 合意形成:ルールを一方的に押し付けるのではなく、従業員の意見を踏まえた調整プロセスを組み込む。

6. 実験とフィードバックのサイクル

  • 出社回帰を一気に進めるのではなく、一定期間の試行導入 → データ収集 → 見直しのサイクルを組む。
  • 出社日数を増やした結果、生産性・離職率・従業員満足度がどう変化するかを追跡し、柔軟に修正する。
  • 実例として、Metaは「週3日出社」を段階的に導入し、四半期ごとに調整を行っていると報じられています。

まとめ

両者の対立は「個人の効率」対「組織の成果」という異なるレイヤーの議論です。解決の鍵は、

  • データを共有して事実認識を揃える
  • 業務特性ごとにハイブリッドを設計する
  • 出社の価値を成果に結びつける評価制度を整える
  • 双方向の合意形成を組み込み、試行錯誤を繰り返す

というフレームにあります。

「どちらが正しいか」ではなく、「どの業務にどの働き方が最適か」を合意形成していくプロセスが、企業と従業員の信頼関係を再構築する鍵となります。

おわりに

リモートワークと出社回帰をめぐる議論は、単純に「どちらが正しいか」という二者択一ではありません。経営層は 組織全体の持続的な成長・文化・セキュリティ を基準に判断し、従業員は 個人の効率性・生活の質・公平性 を重視します。つまり両者は異なるレイヤーの論理に立っており、どちらかを一方的に押し通す限り、すれ違いと摩擦は避けられません。

出社回帰を強行した企業では、短期的に文化や統制が戻る一方、離職や従業員の不満が増加した事例も報告されています。逆にリモートを全面的に維持した企業では、イノベーションや新人育成が停滞し、長期的な競争力を削ぐリスクが指摘されています。どちらにも明確なメリットとデメリットがあり、「正解は環境や業務特性ごとに異なる」のが実情です。

重要なのは「対立」ではなく「調整」です。組織の成長と従業員の納得感を両立させるためには、以下のような視点が欠かせません。

  • 透明性ある説明責任 経営層は「なぜ出社が必要なのか」をデータや事例を示して説明し、従業員が納得できる論理を提示する必要があります。
  • 柔軟性のある制度設計 集中作業はリモート、協働や教育は出社、といったハイブリッド型を業務ごとに設計することで双方のメリットを引き出せます。
  • 双方向の合意形成 従業員の声を吸い上げながら制度を調整することで、「押し付けられている」感覚を減らし、心理的な納得感を高められます。
  • 継続的な試行錯誤 出社とリモートのバランスは固定的に決めるのではなく、四半期ごとに検証と修正を繰り返すことで、最適な形を模索できます。

出社回帰の議論は、単なる「場所」の問題にとどまらず、企業がどのように成果を定義し、どのように人を育て、どのように文化を維持するのかという根源的な問いを突きつけています。経営層と従業員が同じ土俵で事実を共有し、互いの論理を理解しながら調整を重ねることこそ、ポスト・コロナ時代の働き方を形作る道筋になるでしょう。

最終的には、「リモートか出社か」ではなく、「どの業務にどの働き方が最も適しているか」を基準にした実践的な合意形成が鍵となります。そのプロセスを通じて、企業は持続的な競争力を維持しつつ、従業員は納得感と働きやすさを得ることができます。対立を超えた先にこそ、次の時代のワークスタイルが見えてくるはずです。

AI時代の新卒採用──人員削減から事業拡大への転換

生成AIの登場は、ここ数十年で最もインパクトの大きい技術革新のひとつです。ビジネスの効率化や新しい価値創出の手段として急速に浸透し、ソフトウェア開発、データ分析、カスタマーサポート、クリエイティブ制作など、多くの領域で日常的に利用されるようになりました。その一方で、AIの普及は雇用の在り方に大きな影響を及ぼしています。特に深刻なのが、社会人としての最初の一歩を踏み出そうとする新卒やジュニア層に対する影響です。

従来、新卒は「未経験だが将来性がある人材」として採用され、簡単なタスクや定型業務を通じて実務経験を積み、数年をかけて中堅・リーダー層へと成長していくのが一般的なキャリアの流れでした。しかし、AIがこの「定型業務」を代替し始めたことで、新卒が最初に経験を積む“入口の仕事”が急速に失われているのです。米国ではすでに新卒採用枠が半減したとの報告もあり、日本や欧州でも同様の傾向が見られます。

さらに、この変化は採用市場にとどまりません。大学や専門学校といった教育現場でも、「基礎研究」より「即戦力スキル」へのシフトが加速し、カリキュラムや進路選択にもAIの影響が色濃く反映されています。つまり、AIの普及は「学ぶ」段階から「働く」段階まで、人材育成の全体像を揺さぶっているのです。

こうした状況において、企業がAIをどう位置づけるかは極めて重要です。AIを「人員削減のためのツール」として短期的に使うのか、それとも「人材育成と事業拡大のためのパートナー」として長期的に活用するのか──その選択が、今後の競争力や社会全体の健全性を左右するといっても過言ではありません。

本記事では、各国の新卒採用とAIの関係性を整理したうえで、人員削減に偏るAI利用が抱える危険性と、事業拡大に向けたAI活用への転換の必要性を考察していきます。

各国における新卒採用とAIの関係性

米国:エントリーレベル職の急減と即戦力志向

米国では、新卒やジュニア層が従事してきたエントリーレベル職が急速に姿を消しています。テック業界では2017年から新卒採用が50%以上減少したとされ、特にプログラミング、データ入力、テスト作業、カスタマーサポートなどの「入口仕事」がAIに置き換えられています。その結果、「経験を積む最初のステップが存在しない」という深刻な問題が発生しています。

加えて、米国の採用市場はもともと「中途即戦力」を重視する文化が強いため、AIによってエントリー層の価値がさらに低下し、「実務経験のある人材だけを欲しい」という企業側の姿勢が顕著になっています。その一方で、新卒や非大卒者は就職機会を得られず、サービス業や非正規雇用へ流れるケースが増加。これは個人にとってキャリア形成の断絶であり、社会全体にとっても将来的な人材の空洞化を招きかねません。

教育の現場でも変化が見られ、基礎研究よりも「AI応用」「データサイエンス」「サイバーセキュリティ」といった分野へのシフトが進み、大学は研究機関というよりも「即戦力養成機関」としての役割を強めています。

英国・インド:スキルベース採用の加速

英国やインドでは、AI時代に対応するために採用基準そのものが再編されています。特に顕著なのが「学歴よりスキル」へのシフトです。かつては一流大学の卒業証書が大きな意味を持ちましたが、現在は「AIを使いこなせるか」「実務に直結するスキルを持っているか」が評価の中心に移りつつあります。

このため、従来の大学教育に加え、短期集中型の教育プログラムや専門学校、オンライン資格講座が人気を集めています。特にインドではITアウトソーシング需要の高まりもあり、AIやクラウドのスキルを短期間で学べるプログラムに学生が集中し、「大学に4年間通うより、専門教育で即戦力化」という選択が現実的な進路となっています。

また、英国ではAIの倫理や規制に関する教育プログラムも広がっており、単に「AIを使える人材」だけでなく、「AIを安全に導入・運用できる人材」の養成が重視されています。

日本:伝統的な新卒一括採用の揺らぎ

日本では依然として「新卒一括採用」という独特の慣習が根強く残っています。しかし、AIの普及によってその前提が崩れつつあります。これまで「研修やOJTで徐々に育てる」ことを前提に大量採用を行ってきた企業も、AIと既存社員の活用で十分と考えるケースが増加。結果として、新卒枠の縮小や、専門性を持つ学生だけを選抜する傾向が強まりつつあります。

教育現場でも、大学が「就職に直結するスキル教育」にシフトしている兆しがあります。例えば、AIリテラシーを必修科目化する大学や、企業と連携した短期集中型プログラムを導入するケースが増えています。さらに、日本特有の専門学校も再評価されており、プログラミング、デザイン、AI応用スキルなどを実践的に学べる場として人気が高まっています。

一方で、こうした変化は「学びの短期化」や「基礎研究の軽視」につながるリスクもあります。長期的には応用力や独創性を持つ人材が不足する懸念があり、教育と採用の双方においてバランスの取れた戦略が求められています。

教育と雇用をつなぐ世界的潮流

総じて、各国の共通点は「AI時代に即戦力を育てる教育と、それを前提とした採用」へのシフトです。大学や専門学校は、AIリテラシーを前提に据えたカリキュラムを整備し、企業はスキルベース採用を進める。こうして教育と採用がますます近接する一方で、基礎研究や広い教養の価値が軽視される危険性も浮き彫りになっています。

人員削減のためのAI利用が抱える危険性

1. 人材育成パイプラインの崩壊

企業がAIを理由に新卒やジュニア層の採用を削減すると、短期的には人件費を削れるかもしれません。しかし、その結果として「経験者の供給源」が枯渇します。

経験豊富な中堅・シニア社員も最初は誰かに育成されてきた存在です。新卒や若手が経験を積む場が失われれば、数年後にマネジメント層やリーダーを担える人材が不足し、組織全体の成長が停滞します。これは、農業でいえば「種を蒔かずに収穫だけを求める」ようなもので、持続可能性を著しく損ないます。

2. 短期合理性と長期非合理性のジレンマ

経営層にとってAIによる人員削減は、短期的な財務数値を改善する魅力的な選択肢です。四半期決算や株主への説明責任を考えれば、「人件費削減」「業務効率化」は説得力のあるメッセージになります。

しかし、この判断は長期的な競争力を削ぐ危険性を孕んでいます。若手の採用を止めると、将来の幹部候補が生まれず、組織の人材ピラミッドが逆三角形化。ベテランが引退する頃には「下から支える人材がいない」という深刻な構造的問題に直面します。

つまり、人員削減としてのAI利用は「当座の利益を守るために未来の成長余地を削っている」点で、本質的には長期非合理的な戦略なのです。

3. 労働市場全体の格差拡大

新卒やジュニア層が担うエントリーレベルの仕事は、社会全体でキャリア形成の入口として重要な役割を果たしてきました。そこがAIに奪われれば、教育機会や人脈に恵まれた一部の人材だけが市場で生き残り、それ以外は排除されるリスクが高まります。

特に社会的に不利な立場にある学生や、非大卒の若者にとって、就労機会が閉ざされることは格差拡大の加速につながります。これは単なる雇用問題にとどまらず、社会全体の安定性や公平性を脅かす要因となります。

4. 組織文化と多様性の喪失

新卒やジュニア層は、必ずしも即戦力ではないかもしれませんが、新しい価値観や柔軟な発想を持ち込み、組織文化を活性化させる存在でもあります。

彼らの採用を削減すれば、多様な視点や新しい発想が組織に入りにくくなり、長期的にはイノベーションの停滞を招きます。AIに頼り切り、経験豊富だが同質的な人材だけで組織を構成すれば、変化に対応できない硬直的なカルチャーが生まれやすくなるのです。

5. スキル退化と人間の役割の縮小

AIが定型業務を担うこと自体は効率的ですが、新人がそこで「基礎スキルを練習する機会」まで失われることが問題です。例えば、コードレビューや簡単なテスト作業は、プログラマーにとって初歩を学ぶ貴重な場でした。これをAIに置き換えると、新人が基礎を学ばないまま“応用業務”に直面することになり、結果的に人間の能力全体が弱体化する恐れがあります。

6. 「AIを理由にする」ことで隠れる真の問題

実際のところ、企業が採用縮小やリストラを発表する際に「AI導入のため」と説明することは、コスト削減や景気悪化といった根本理由を隠す“免罪符”になっているケースも少なくありません。

本当の理由は市場不安や収益低下であるにもかかわらず、「AIの進展」を理由にすれば株主や世間に納得されやすい。これにより「AIが雇用を奪った」という印象ばかりが残り、実際の問題(経営戦略の短期化や景気動向)は議論されなくなる危険性があります。

7. 社会的信頼と企業ブランドのリスク

人員削減のためにAIを利用した企業は、短期的には株価や収益を守れるかもしれませんが、「雇用を犠牲にする企業」というレッテルを貼られやすくなります。特に若者の支持を失えば、長期的には人材獲得競争で不利に働きます。AI時代においても「人を育てる企業」であるかどうかはブランド価値そのものであり、それを軽視すれば結局は自社に跳ね返ってくるのです。

事業拡大のためのAI活用へ

AIを「人員削減のための道具」として使う発想は、短期的にはコスト削減につながるかもしれません。しかし、長期的に見れば人材パイプラインの断絶や組織の硬直化を招き、むしろ競争力を失う危険性があります。では、AIを持続的成長につなげるためにはどうすればよいのでしょうか。鍵は、AIを「人を減らす道具」ではなく「人を育て、事業を拡大するためのパートナー」と位置づけることです。

1. 教育・育成支援ツールとしてのAI活用

AIは単なる代替要員ではなく、新人教育やOJTを効率化する「教育インフラ」として大きな可能性を秘めています。

  • トレーニングの効率化:新人がつまずきやすいポイントをAIが自動で解説したり、演習問題を生成したりできる。
  • 疑似実務体験の提供:AIによる模擬顧客や模擬システムを用いた実践トレーニングで、新人が安全に失敗できる環境を作れる。
  • 学習のパーソナライズ:各人の弱点に応じてカリキュラムを動的に調整し、習熟度を最大化できる。

これにより、企業は少人数の指導者でより多くの新人を育てられ、結果的に人材育成スピードを高められます。

2. スキルベース採用の推進とAIによる補完

これまでの学歴中心の採用から脱却し、「何ができるか」に基づいたスキルベース採用を進める動きが世界的に広がっています。AIはこの仕組みをさらに強化できます。

  • 応募者のポートフォリオやコードをAIが解析し、スキルの適性を客観的に評価。
  • 面接練習ツールとしてAIを利用し、候補者が自身の強みを磨くことを支援。
  • 学歴に左右されず、「実力を可視化」できる仕組みを提供することで、多様な人材の採用が可能になる。

これにより、従来は「大企業や一流大学の卒業生」でなければ得られなかった機会を、より広い層に開放でき、結果として組織の多様性と創造性が高まります。

3. 人材パイプラインの維持と拡張

AIを単に効率化のために用いるのではなく、育成の余力を生み出す手段として活用することが重要です。

  • AIが定型業務を肩代わりすることで、既存社員はより付加価値の高い業務に集中できる。
  • その分生まれたリソースを「新人教育」「ジュニア育成」に振り分けることで、持続的に人材が循環する仕組みを維持できる。
  • 組織が一時的にスリム化しても、AI活用を通じて「教育余力を拡張」すれば、長期的な成長を確保できる。

4. イノベーション創出のためのAI×人材戦略

AIそのものが新しい価値を生むわけではありません。価値を生むのは、AIを用いて新しいサービスや事業モデルを生み出せる人材です。

  • 新卒や若手の柔軟な発想 × AIの計算力 → 今までにない製品やサービスを創出。
  • 多様性のある人材集団 × AI分析 → 異なる視点とデータを組み合わせ、競合が真似できない発想を形にする。
  • 現場の知見 × AI自動化 → 生産性向上だけでなく、顧客体験の質を高める。

つまり、AIはイノベーションを支える「触媒」となり、人材が持つ潜在力を拡張する装置として活用すべきなのです。

5. 社会的信頼とブランド価値の強化

AIを人員削減のためではなく、人材育成や事業拡大のために活用する企業は、社会からの評価も高まります。

  • 「人を育てる企業」というブランドは、若手や優秀な人材から選ばれる理由になります。
  • 株主や顧客にとっても、「AIを使っても人材を大切にする」という姿勢は安心感につながります。
  • ESG(環境・社会・ガバナンス)や人的資本開示の観点からも、持続可能な人材戦略は企業価値を押し上げる要因になります。

おわりに

生成AIの登場は、私たちの働き方や学び方を根本から変えつつあります。特に新卒やジュニア層の採用に与える影響は大きく、従来のキャリア形成モデルが揺らいでいることは否定できません。これまで当たり前だった「新人がまず定型業務をこなしながら経験を積む」というプロセスが、AIの台頭によって大きく縮小してしまったのです。

しかし、この変化を「脅威」として受け止めるだけでは未来を切り拓けません。むしろ重要なのは、AIの力をどう人材育成や組織の成長に活かせるかという視点です。AIを単なる人件費削減の手段として扱えば、人材の供給源は枯渇し、数年後には経験豊富な人材がいなくなり、組織も社会も持続性を失います。これは短期的な利益と引き換えに、長期的な競争力を失う「自分で自分の首を絞める」行為に等しいでしょう。

一方で、AIを「教育の補助」「スキル評価の支援」「育成余力の拡張」といった形で組み込めば、新卒や若手が効率的に力を伸ばし、経験を積みやすい環境をつくることができます。企業にとっては、人材育成のスピードを高めながら事業拡大を図るチャンスとなり、社会全体としても格差を広げずに人材の循環を維持することが可能になります。

いま私たちが直面しているのは、「AIが人間の雇用を奪うのか」という単純な二択ではありません。実際の問いは、「AIをどう位置づけ、どう活かすか」です。人材を削る道具とするのか、人材を育てるパートナーとするのか。その選択によって、企業の未来も、教育のあり方も、社会の持続可能性も大きく変わっていきます。

AI時代においてこそ問われているのは、人間にしかできない創造性や柔軟性をどう育むかという、人材戦略の本質です。短期的な効率化にとどまらず、長期的に人と組織が成長し続ける仕組みをAIと共につくること。それこそが、これからの企業が社会的信頼を獲得し、持続可能な発展を遂げるための道筋なのではないでしょうか。

参考文献

リモートワークの現在地──出社回帰とハイブリッド時代の行方

リモートワークはコロナ禍を契機に一気に普及しましたが、その後数年を経て各国・各企業での位置づけは多様に変化しています。単なる一時的な施策にとどまらず、セキュリティやコスト、働き方の柔軟性、雇用の継続性など、多面的な議論を生み出してきました。本記事では、最新の動向や課題を整理し、今後の展望を考えます。

米国を中心に進む「出社回帰」の流れ

コロナ禍で一気に広がったリモートワークですが、近年は米国を中心に「出社回帰」の動きが強まっています。MicrosoftやAmazonをはじめ、多くの大手企業が出社日数を増やす方針を打ち出しました。その背景には以下のような意図があります:

  • コラボレーションと文化醸成:対面の方がコミュニケーションの質が高く、社内文化を維持しやすい。偶発的な会話や雑談の中から新しい発想が生まれるという期待もある。
  • 業績・士気の改善:出社率が増えた社員は幸福度やパフォーマンス指標が改善したという調査もある。社員のメンタル面での安定やチームの一体感向上にもつながるとされる。
  • 評価の公平性:リモート社員は昇進や人事評価で不利になりがち(プロキシミティ・バイアス)。この偏りを是正する目的で出社を求める企業も多い。
  • コスト構造:出社義務の強化は「不要な人材の自然淘汰」にもつながり得る。社員の忠誠心や企業文化への適応力を試す施策とも見られている。

さらに近年の米国企業では、以下のような追加的な要因が見られます:

  • 経営者の意識変化:パンデミック直後はリモートを容認していた経営層も、数年経って「柔軟性よりもスピードと一体感」を重視する傾向にシフトしている。いわゆる“Big Boss Era”と呼ばれる風潮が広がり、強いリーダーシップによる出社推進が増えている。
  • 若手育成の観点:新入社員や若手にとって、先輩社員の働き方を間近で学ぶ「職場での暗黙知の習得」が欠かせないという考え方が強い。特に専門職や技術職では、現場での観察や指導がパフォーマンスに直結する。
  • 都市部のオフィス再評価:不動産コスト削減のためにオフィス縮小を進めた企業も、実際には「オフィスでの偶発的な会話」や「部門横断の連携」が価値を持つことを再認識し、再びオフィス空間の活用を見直している。オフィスの役割を「単なる作業場」から「コラボレーションの場」に再定義する動きもある。
  • データ上の傾向:2025年現在、米国全体の出社率はパンデミック前より依然低いものの、ニューヨークやサンフランシスコなどの主要都市では回復傾向が強まりつつある。Microsoftなど一部企業は2026年以降の週3日以上出社を制度化予定であり、中期的には“リモート常態化”から“ハイブリッド主流化”へ移行する流れが見えている。

つまり出社回帰は単に「働き方を元に戻す」のではなく、組織文化や経営戦略上の狙いが込められています。

リモートワークがもたらすセキュリティ上の課題

リモートワークは柔軟性を高める一方で、セキュリティの観点からは企業に新たなリスクを突きつけています。従来のオフィス中心の働き方では企業内ネットワークで守られていた情報も、外部環境に持ち出されることで脆弱性が一気に増します。

具体的な課題としては以下のようなものがあります:

  • 不安定なネットワーク:自宅や公共Wi-Fiからのアクセスは盗聴や中間者攻撃に弱い。カフェや空港などで仕事をする際には、意図せぬ情報漏洩リスクが高まる。
  • BYODのリスク:個人PCやスマホはパッチ適用やセキュリティ基準が甘く、情報漏洩のリスクが増える。業務と私用のアプリやデータが混在することでマルウェア感染の温床にもなりやすい。
  • 可視性の低下:オフィス外ではIT部門による監視や制御が難しく、ソフトウェアの更新漏れや意図しない設定での接続が起こりやすい。セキュリティインシデントの検知が遅れる可能性もある。
  • 人間の脆弱性:リモート環境ではセキュリティ意識が下がりがちで、フィッシングやマルウェアに騙されやすくなる。孤立した環境では同僚に相談して未然に防ぐことも難しい。
  • エンドノード問題:最終的に業務を行う端末が攻撃対象となるため、そこが突破されると企業システム全体に被害が及ぶ危険がある。

これらの課題に対処するため、企業は以下のような対応を進めています:

  • EDR/XDRの導入:端末レベルでの脅威検知・ふるまい検知を行い、感染拡大を未然に防ぐ。
  • ゼロトラストモデルの採用:ネットワークの内外を問わず「常に検証する」仕組みを導入し、アクセス権を厳格に制御。
  • MDMやEMMによる管理:リモート端末を集中管理し、紛失時には遠隔でデータ削除が可能。
  • 従業員教育の徹底:フィッシング訓練やセキュリティ研修を継続的に行い、人的リスクを最小化。
  • クラウドセキュリティの強化:SaaSやクラウドストレージ利用時のデータ保護、暗号化、ログ監視を強化する。

このようにリモートワークの普及は、従来の境界防御型セキュリティを根本から見直す必要を突きつけています。企業にとっては追加コストの発生要因であると同時に、セキュリティ産業にとっては大きな商機となっています。

リモートワークがもたらす企業のコスト問題

リモートワークは従業員の柔軟性を高める一方で、企業にとっては様々なコスト増加の要因にもなります。単に「通信環境を整えれば済む」という話ではなく、情報システムや人事制度、不動産戦略にまで影響を及ぼすのが実情です。

具体的なコスト要因としては次のようなものがあります:

  • セキュリティコスト:EDR/XDR、VPN、ゼロトラスト製品、MDMなどの導入・運用コスト。特にゼロトラストは導入設計が複雑で、専門人材の確保にも費用がかかる。
  • デバイス管理費用:リモート社員用にPCや周辺機器を支給し、リモートサポートやヘルプデスクを整備する必要がある。ハードウェア更新サイクルも短くなりがち。
  • 通信・クラウドコスト:リモートアクセス増加に伴い、VPN帯域やクラウド利用料が拡大。クラウドVDIの採用ではユーザー数に応じた従量課金が発生し、長期的な固定費としての負担が増す。
  • 教育・研修コスト:フィッシング対策や情報管理ルール徹底のためのセキュリティ教育が不可欠。継続的に実施するためにはトレーニングプログラムや外部サービス利用が必要。
  • 不動産コスト:リモートワーク率が高まる中で、自社ビルの維持や事業所の賃借は従来以上に固定費負担となる。利用率が下がることで「空間コストの無駄」が顕在化し、経営上の重荷になりやすい。オフィスの縮小やシェアオフィス活用に切り替える企業も出ているが、移行には追加費用が発生する。
  • 制度設計コスト:リモートワーク規程の整備や人事評価制度の見直し、労務管理システムの導入なども企業負担となる。

これらの負担は特に中小企業にとって重く、リモートワークを許容するかどうかの判断に直結します。一方で、この投資を成長戦略と位置づけ、セキュリティ強化や柔軟な働き方を武器に人材獲得力を高める企業も増えています。つまりリモートワークのコスト問題は「単なる負担」ではなく、企業の競争力や事業継続性に関わる戦略的なテーマといえるのです。

リモートワークと出社が労働者にもたらす満足度の違い

前章では企業にとってのコストの側面を見ましたが、次に重要なのは「労働者自身がどのように感じているか」という観点です。リモートワークと出社は働き手の生活や心理に大きく影響し、満足度に直結します。

  • リモートの利点:通勤時間がゼロになり、ワークライフバランスが改善する。子育てや介護と両立しやすく、個人のライフステージに合わせやすい。自宅の環境を自由にカスタマイズできるため、集中しやすい人にとっては満足度の向上につながる。また、柔軟なスケジューリングが可能で、日中に私用を済ませて夜に業務をこなすなど、生活全体を最適化しやすい。
  • リモートの課題:孤立感やモチベーション低下が生じやすい。オフィスにいる仲間との距離を感じることがあり、心理的安全性が下がる場合もある。さらに評価の不利を感じると不満が高まりやすく、昇進やキャリア形成の機会を逃す不安を抱える人も少なくない。また、家庭と職場の境界が曖昧になり、オンオフの切り替えが難しくなるケースも多い。
  • 出社の利点:仲間とのつながりや社内文化を直接体感できることで安心感や一体感が得られる。雑談や偶発的な出会いから得られる刺激はモチベーション向上につながり、メンタル面での支えにもなる。特に若手社員にとっては先輩社員から学ぶ機会が増え、自己成長の実感につながりやすい。
  • 出社の課題:通勤時間や交通費の負担が増え、家庭生活や個人の自由時間を削る要因になる。混雑や長距離通勤は心身のストレス源となり、慢性的な疲労感を生み出すこともある。また、家庭の事情で出社が難しい社員にとっては「出社圧力」が逆に不公平感や不満を増大させる。

こうした要素が複雑に絡み合い、労働者の満足度は個人差が大きいのが特徴です。特に世代や家庭環境によって重視するポイントが異なり、例えば若手は学びや人間関係を重視する一方、中堅や子育て世代は柔軟性を最優先する傾向があります。そのため、企業側が一律の制度で満足度を担保することは難しく、個別事情に応じた柔軟な制度設計が求められています。

企業から見たパフォーマンスと事業への影響

前章では労働者の満足度という個人の視点から見ましたが、次に重要なのは企業からの視点です。従業員の働き方が事業全体の成果や競争力にどのように影響するかを整理します。

  • リモートの利点:集中作業の効率化や離職率低下により、組織全体の安定性が高まる。採用の間口を広げ、地理的制約を超えた人材獲得が可能になることで、多様性や専門性が強化される。また、柔軟な勤務制度を整えることは企業の魅力向上につながり、優秀な人材を呼び込む効果もある。さらに、災害やパンデミックといった非常事態においても業務継続性(BCP)の強化に資する。
  • リモートの課題:チームワークやイノベーションが停滞し、事業スピードが落ちる可能性がある。情報共有の遅延や意思決定プロセスの複雑化もリスクとなる。企業文化の浸透が難しくなり、長期的な一体感を損なう恐れもある。特に新規事業やイノベーションを必要とするフェーズでは、リモート主体の働き方が制約要因になりやすい。
  • 出社の利点:協働による新しいアイデア創出や若手育成が事業成長につながる。リアルタイムでの意思決定や迅速な問題解決が可能になり、競争環境で優位性を発揮できる。経営層にとっては従業員の姿勢や雰囲気を直接把握できる点も、組織マネジメント上のメリットとされる。
  • 出社の課題:従業員の疲弊や離職増加が逆にコストやリスクを増やすこともある。特に通勤負担が重い都市圏では生産性の低下や欠勤リスクが高まりやすい。また、オフィス維持費や通勤手当といったコスト増につながる点も無視できない。

総じて、リモートワークと出社は労働者の満足度だけでなく、事業そのものの成長性や安定性に直結する重要な要素です。企業は「どちらが優れているか」を一律に決めるのではなく、自社の業種や事業戦略、社員構成に応じた最適なバランスを模索する必要があります。例えば、開発や研究部門ではリモート比率を高めつつ、営業や企画部門では出社頻度を維持するなど、部門ごとの最適解を設計するアプローチが有効です。この柔軟な制度設計こそが、今後の企業競争力を左右するといえるでしょう。

リモートワークを行うための環境

リモートワークを安全かつ効率的に実現するには、従業員がどこからでも業務を遂行できるだけでなく、セキュリティと運用負荷のバランスをとる仕組みが必要です。単に「ノートPCを貸与する」だけでは不十分であり、業務環境全体をどのように設計するかが大きな課題となります。現在、代表的な環境整備の方法としては大きく2つが挙げられます。

  • オンプレPCへのリモートアクセス: オフィスに設置されたPCにリモートデスクトップや専用ソフトで接続する方式です。既存の社内システムやオンプレ環境を活用できるため初期投資は抑えやすく、従来型の業務資産をそのまま活用できるのが強みです。高性能なワークステーションを必要とする開発・設計部門などでは有効な手段となります。ただし、電源管理やネットワーク接続の維持が必須であり、利用率に対してコストが膨らむ可能性があります。また物理的な端末に依存するため、拠点の停電や災害時には脆弱という課題も残ります。
  • クラウド上のVDI環境: クラウドに仮想デスクトップ基盤(VDI)を構築し、社員がインターネット経由で業務環境にアクセスできる方式です。セキュリティの集中管理が可能で、スケーラビリティにも優れ、端末にデータを残さないため情報漏洩リスクを低減できます。また、多拠点や海外からのアクセスが必要な場合にも柔軟に対応可能です。ただしクラウド利用料やライセンス費用は高額になりやすく、トラフィック集中時のパフォーマンス低下、設計や運用に専門知識が求められるといった課題があります。

実際にはこの2つを組み合わせ、業務の性質や社員の役割に応じて環境を切り分ける企業も増えています。たとえば、開発部門は高性能なオンプレPCへのリモート接続を利用し、営業やコールセンター部門はクラウドVDIを活用する、といったハイブリッド型の運用です。さらに、ゼロトラストネットワークや多要素認証を組み合わせることで、セキュリティレベルを確保しつつ利便性を損なわない仕組みを整える動きも広がっています。

リモートワーク環境の設計は、セキュリティ・コスト・利便性のバランスをどう取るかが最大の課題といえるでしょう。将来的には、AIによるアクセス制御や仮想空間でのコラボレーションツールがさらに発展し、リモートと出社の垣根を一層低くする可能性もあります。

セーフティネットとしてのリモートワーク

リモートワークは単に柔軟性を高めるだけでなく、労働市場におけるセーフティネットとしての役割も持っています。育児や介護、怪我や持病などで通勤が困難な場合でも、在宅勤務が可能であれば雇用を継続できる可能性があります。これは従業員にとって失業リスクを下げる大きな支えとなり、企業にとっても人材の維持や多様性推進に資する仕組みとなります。

具体的には以下のような状況でリモートワークは有効です:

  • 育児や介護の両立:子どもの送り迎えや親の通院付き添いが必要な社員にとって、在宅勤務はライフイベントと仕事の両立を支える仕組みとなる。
  • 身体的制約:骨折や慢性的な持病などで通勤が困難な場合でも、自宅から働ける環境があれば就労の継続が可能となる。
  • 障害者雇用の推進:米国ではADA(Americans with Disabilities Act)のもと、リモートワークが「合理的配慮」として認められる事例が増えている。移動や設備面で負担を抱える人材でも働きやすい環境が整う。
  • 災害時の雇用維持:自然災害やパンデミックのように出社が制限される場合にも、リモート勤務をセーフティネットとして準備しておくことで雇用を守れる。

実際に日本でも育児・介護中の社員向けに限定的なリモートワークを制度化する企業が増えています。これは「優遇措置」ではなく、人材の流出を防ぎ、組織全体の持続可能性を高める経営戦略と位置づけられます。離職を防ぐことで採用や教育にかかるコストを削減できるため、企業にとっても合理的な投資といえます。

この視点はリモートワークを完全に廃止せず、制度の一部として残すべき理由の一つです。全社員に一律で提供するのではなく、特定の事情を抱える社員を支援する仕組みとして位置づければ、企業は公平性と効率性の両立を実現できます。結果として、多様な人材が安心して働き続けられる環境を整備できるのです。

出社とリモートワークのワークバランスと今後の展望

リモートワークと出社をどのように組み合わせるかは、今後の企業戦略における最重要テーマの一つです。どちらかに極端に偏るのではなく、両者の強みを生かしたハイブリッド型の働き方が現実的な解となりつつあります。単なる勤務形態の選択ではなく、組織運営や人材戦略の中核に位置づけられる課題となっているのです。

  • 出社の価値:コラボレーションや文化の醸成、若手育成、迅速な意思決定など、対面でしか得られないメリットが存在する。特に組織の一体感や創造性の発揮においては出社の強みが大きい。また、経営層が従業員の姿勢や雰囲気を直接把握できることも、組織マネジメントにおいて大きな意味を持つ。
  • リモートの価値:柔軟性や多様性への対応、雇用継続のセーフティネットとしての機能など、現代の労働市場に不可欠な要素を担う。育児・介護・健康上の制約を抱える社員の活躍機会を広げる点でも重要であり、離職率の低下や人材獲得力の向上といった経営的メリットもある。

今後は、職種や役割ごとに最適な出社・在宅比率を定義する「ポートフォリオ型」の働き方設計が広がると考えられます。例えば、研究開発や営業は出社を重視し、システム開発や事務処理はリモートを中心に据えるといった具合です。さらにテクノロジーの進化によって、仮想空間でのコラボレーションやAIを活用した業務支援が進めば、リモートと出社の境界はより流動的になるでしょう。

また、国や地域ごとにインフラ環境や文化が異なるため、グローバル企業では一律の方針ではなく、地域事情に応じた最適化が求められます。欧州ではワークライフバランス重視の文化からリモート許容度が高い一方、米国では経営層主導の出社回帰が進むなど、国際的な温度差も見逃せません。こうした多様な環境を踏まえた調整力が、グローバル企業の競争力に直結します。

総じて、未来の働き方は「一律の正解」ではなく、組織の文化や戦略、そして従業員の多様なニーズに応じた最適解の組み合わせによって形作られることになります。むしろ重要なのは、状況の変化に応じて柔軟に制度を見直し、進化させ続けられるかどうかだと言えるでしょう。

まとめ

リモートワークを巡る状況は単純に「便利か不便か」という二元論では収まりません。ここまで見てきたように、リモートワークは経営戦略、セキュリティ、コスト、働き方の柔軟性、雇用継続といった多角的な論点を孕んでおり、各企業や国の事情に応じて異なる解釈と実践が行われています。

まず米国を中心に進む「出社回帰」の動きは、単なるリバウンドではなく、企業文化の醸成や若手育成、迅速な意思決定といった組織運営上の合理性を背景にしています。一方で、リモートワークが生み出すセキュリティ上の課題や追加コストも現実的な問題であり、それらをどのように克服するかが重要な経営課題となっています。

また、コスト構造の観点では、リモートワークがもたらすIT投資や不動産コスト、教育・制度設計コストは無視できない負担ですが、それを成長戦略の一環として活用する企業も少なくありません。セキュリティ製品市場やクラウドサービス市場にとっては新たな商機となり、企業にとっては競争力強化の手段にもなり得ます。

さらに、働き手の視点からはリモートと出社で満足度が大きく分かれることが明らかになりました。ワークライフバランスや心理的安全性、学びの機会など、世代や家庭環境によって重視する要素が異なるため、企業は一律の解を押し付けることはできません。個別事情を尊重し、柔軟な制度設計を行うことが不可欠です。これは企業パフォーマンスの観点から見ても同様で、部門や業務の性質に応じて最適な組み合わせを探る「ポートフォリオ型」の発想が今後広がるでしょう。

加えて、リモートワークをセーフティネットとして活用する視点も重要です。育児や介護、身体的制約を抱える人々にとって、在宅勤務は働き続けるための選択肢となり、労働市場の多様性を支える仕組みとなります。これは社会的な公平性の観点からも、企業の持続可能性の観点からも見逃せない要素です。

最後に、未来の働き方は「リモートか出社か」という単純な二者択一ではなく、技術の進化や文化の変化に応じて柔軟に進化するものです。AIや仮想コラボレーションツールの発展により、リモートと出社の境界はますます曖昧になっていくでしょう。企業に求められるのは、変化する外部環境に対応しながら、自社の文化や戦略に合致した最適解を更新し続ける力です。

つまり、リモートワークを巡る議論は終わったわけではなく、今まさに進化の途上にあります。各企業が抱える制約や機会を踏まえ、柔軟かつ戦略的に制度をデザインしていくことが、次世代の競争力を左右する鍵となるでしょう。

参考文献

CIO Japan Summit 2025閉幕──DXと経営視点を兼ね備えたCIO像とは

2025年5月と7月の2回にわたって開催されたCIO Japan Summit 2025が閉幕しました。

今年のサミットでは、製造業から小売業、官公庁まで幅広い業界のリーダーが集い、DXや情報セキュリティ、人材戦略など、企業の競争力を左右するテーマが熱く議論されました。

本記事では、このサミットでどのような企業が登壇し、どんなテーマに関心が集まったのか、さらに各業界で進むDXの取り組みやCIO像について整理します。

CIO Japan Summitとは?

CIO Japan Summit は、マーカス・エバンズ・イベント・ジャパン・リミテッドが主催する、完全招待制のビジネスサミットです。日本の情報システム部門を統括するCIOや情報システム責任者、そして最先端のソリューション提供企業が一堂に会し、「課題解決に向けて役立つ意見交換」を目的に構成されたイベントです  。

フォーマットの特徴

  • 講演・パネルディスカッション
  • 1対1ミーティング(1to1)
  • ネットワーキングセッション


展示会のようなブース型のプレゼンではなく、深い対話とインサイトの共有を重視する構成となっており、参加者同士が腰を据えて議論できるのが特徴です。

今年(2025年)の主要議題


以下に、『第20回 CIO Japan Summit 2025』(2025年7月17~18日開催)で掲げられた主要な議題をまとめます。

  1. デジタルとビジネスの共存
    • CIOが経営視点を持ち、デジタル技術を企業価値に結び付けることが求められています。
  2. 攻めと守りの両立
    • DXを推進しながらも、不正やリスクに対する防御を強化する、バランスの取れた経営体制が課題です。
  3. 国際情勢とサイバーリスクの理解
    • サイバー攻撃は国境を越える脅威にもなるため、グローバル視点で防衛体制を強化する必要があります。
  4. 各国のテクノロジー施策と影響
    • 常に変化するデジタル技術の潮流を把握し、自社戦略に取り込む姿勢が重要です。
  5. 多様性を活かすIT人材マネジメント
    • IT人材確保の難しさに対応するため、社内外の多様な人材を効果的に活用する取り組みが注目されました。
  6. 未来を見通すデータドリブン経営
    • データを戦略的資産として活用し、不確実な未来を予測しながら経営判断につなげる姿勢が重要です。

登壇企業と業界一覧


今回のCIO Japan Summit 2025には、製造業、建設業、流通業、化学業界、小売業、通信インフラ、官公庁、非営利団体、ITサービスなど、非常に幅広い分野から登壇者が集まりました。

業界企業・組織
製造業荏原製作所、積水化学工業、日本化薬、古野電気
建設業竹中工務店
流通業大塚倉庫
化学業界花王
小売業/消費財アルペン、アサヒグループジャパン、日本ケロッグ
通信インフラ西日本電信電話(NTT西日本)
官公庁経済産業省
非営利/研究機関国立情報学研究所、日本ハッカー協会、IIBA日本支部、CeFIL、NPO CIO Lounge
IT/サービス企業スマートガバナンス、JAPAN CLOUD

それぞれの業界は異なる市場環境や課題を抱えていますが、「DXの推進」「セキュリティ強化」「人材戦略」という共通のテーマのもと、互いの知見を持ち寄ることで多角的な議論が行われました。

製造業からは、荏原製作所、積水化学工業、日本化薬、古野電気といった企業が登壇し、IoTやAIを活用した生産性向上や品質管理の高度化について共有しました。

建設業からは竹中工務店が参加し、BIM/CIMや現場デジタル化による業務効率化、労働力不足への対応などが話題となりました。

流通業の大塚倉庫は、物流需要の変化に対応するためのロボティクス導入や需要予測の高度化について発表。

化学業界から登壇した花王は、研究開発から製造・販売までのバリューチェーン全体でのDX推進事例を紹介しました。

小売業・消費財分野では、アルペン、アサヒグループジャパン、日本ケロッグが参加し、顧客データ分析やECと店舗の統合戦略、パーソナライズ施策などが議論されました。

通信インフラの代表として西日本電信電話(NTT西日本)が登壇し、社会基盤を支える立場からのセキュリティ戦略や地域連携の取り組みを共有。

官公庁では経済産業省が、国としてのデジタル化推進政策や人材育成施策について発表し、民間企業との協働の可能性に言及しました。

さらに、国立情報学研究所、日本ハッカー協会、IIBA日本支部、CeFIL、NPO CIO Loungeといった非営利団体・研究機関が加わり、最新のセキュリティ研究、国際的な技術潮流、IT人材育成の重要性が議論されました。

また、ITサービスやガバナンス支援を行うスマートガバナンスや、クラウドビジネス支援のJAPAN CLOUDといった企業も参加し、民間ソリューションの観点からCIOへの提案が行われました。

このように、CIO Japan Summitは業界の垣根を超えた交流の場であり、参加者同士が自社の枠を越えて課題や解決策を議論することで、新たな連携や発想が生まれる土壌となっています。

議論・関心が集中したテーマ

CIO Japan Summit 2025では、多様な業界・立場の参加者が集まったことで、議題は幅広く展開しましたが、特に議論が白熱し、多くの関心を集めたテーマは以下の3つに集約されます。

1. DX推進とその経営インパクト

DX(デジタルトランスフォーメーション)は単なるIT導入にとどまらず、ビジネスモデルや企業文化の変革を伴うものとして捉えられています。

製造業ではIoTやAIによる生産最適化、小売業では顧客データ活用によるパーソナライズ戦略、建設業ではBIM/CIMによる業務効率化など、業界ごとの具体的事例が共有されました。

特に今年は生成AIの活用が大きな話題で、業務効率化だけでなく、新たな価値創造や意思決定支援への応用可能性が議論の中心となりました。

参加者からは「技術の採用スピードをどう経営戦略に組み込むか」という課題意識が多く聞かれ、DXが企業全体の競争力に直結することが改めて認識されました。

2. 情報セキュリティリスクへの対応

DX推進の加速に伴い、サイバーセキュリティの重要性も増しています。

ランサムウェアや標的型攻撃といった外部脅威だけでなく、内部不正やサプライチェーンを経由した侵入など、複合的かつ高度化する脅威への対応が共通課題として浮上しました。

通信インフラや官公庁の登壇者からは、国際情勢の変化が国内企業にも直接的な影響を及ぼす現実が語られ、ゼロトラストアーキテクチャや多層防御の必要性が強調されました。

また、経営層がセキュリティ投資の意思決定を行う上で、リスクの可視化とROIの説明が不可欠であるという点でも意見が一致しました。

3. 人材マネジメントと組織変革

IT人材の確保と育成は、多くの企業にとって喫緊の課題です。

特にCIOの視点からは、「単に人を採用する」だけでなく、**既存人材のスキル再教育(リスキリング)**や、部門横断の協働文化の醸成が不可欠であるとされました。

多様な人材を活かす組織設計、外部パートナーやスタートアップとの連携、海外拠点との一体運営など、柔軟で開かれた組織構造が求められているという共通認識が形成されました。

また、人材戦略はDXやセキュリティ戦略と密接に結び付いており、「人が変わらなければ組織も変わらない」という強いメッセージが繰り返し発せられました。


これら3つのテーマは独立して存在するわけではなく、DX推進はセキュリティと人材戦略の基盤の上に成り立つという構造が明確になりました。

サミットを通じて、多くのCIOが「技術視点」だけでなく「経営視点」からこれらを統合的にマネジメントする必要性を再認識したことが、今年の大きな成果といえるでしょう。

業界別に見るDXの取り組み

CIO Japan Summit 2025に登壇した企業や、その業界の動向を踏まえると、DXは単なるシステム刷新ではなく、業務プロセス・顧客体験・組織構造の根本的変革として進められています。以下では、主要5業界のDX事例と、その背景にある課題や狙いをまとめます。

1. 製造業(荏原製作所、積水化学工業、日本化薬、古野電気 など)

背景・課題

  • グローバル競争の激化とコスト圧力
  • 熟練技術者の高齢化や技能継承の難しさ
  • 品質の安定確保と生産効率の両立

主なDX事例

  • IoTによる設備予知保全 工場設備に多数のセンサーを設置し、稼働状況や温度・振動データをリアルタイムで監視。異常の兆候をAIが検知し、計画的なメンテナンスを実施。
  • AIによる品質検査 高精度カメラと画像認識AIを活用し、人の目では見逃す可能性のある微細な欠陥を検出。検査時間を短縮しつつ不良率を低減。
  • デジタルツインによる生産シミュレーション 現場のラインを仮想空間で再現し、生産計画の事前検証や工程改善を実施。試作回数を削減し、歩留まりを向上。

成果

  • 設備の稼働率向上(ダウンタイム削減)
  • 品質クレーム件数の減少
  • 開発から量産までの期間短縮

2. 建設業(竹中工務店 など)

背景・課題

  • 慢性的な労働力不足
  • 工期短縮とコスト削減の両立
  • 安全管理の高度化

主なDX事例

  • BIM/CIM統合設計 建築・土木プロジェクトで3Dモデルを用い、設計から施工、維持管理まで情報を一元化。設計ミスや工事後の手戻りを大幅削減。
  • ドローン測量 高精度測量用ドローンで現場全体を短時間でスキャン。測量データは即時クラウド共有され、設計部門や発注者ともリアルタイムで連携。
  • 現場管理のクラウド化 タブレット端末で工程・品質・安全情報を入力し、関係者間で即時共有。紙の書類や口頭伝達の削減による業務効率化を実現。

成果

  • 測量作業時間の70%以上短縮
  • 設計変更による追加コスト削減
  • 現場の安全事故発生率低下

3. 流通業(大塚倉庫 など)

背景・課題

  • EC拡大による物流需要の増加
  • 配送の小口化と短納期化
  • 燃料費や人件費の高騰

主なDX事例

  • 倉庫ロボティクス 自動搬送ロボット(AGV/AMR)を導入し、ピッキング作業や搬送作業を自動化。人手不足を補い作業負担を軽減。
  • AI需要予測 過去の出荷データや季節要因、天候、キャンペーン情報などを学習し、在庫配置や配送計画を最適化。
  • 配送ルート最適化 AIがリアルタイム交通情報を基に最適ルートを計算。配送遅延を防ぎ、燃料コストを削減。

成果

  • 在庫回転率の改善
  • ピッキング作業時間の短縮
  • 配送遅延件数の減少

4. 化学業界(花王、日本化薬 など)

背景・課題

  • 原材料価格高騰や環境規制への対応
  • 高度な品質要求と安全基準の順守
  • 研究開発の迅速化

主なDX事例

  • 分子シミュレーションによる新素材開発 AIとスーパーコンピュータを活用し、化合物の性質を事前予測。実験回数を減らし開発期間を短縮。
  • 製造ラインのIoT監視 温度・圧力・流量をリアルタイム監視し、異常時には自動でラインを停止。品質不良や事故を防止。
  • サプライチェーン可視化 原料調達から出荷までの全工程をデジタル化し、トレーサビリティとリスク管理を強化。

成果

  • 新製品の市場投入スピード向上
  • 不良率低下によるコスト削減
  • 調達リスクへの迅速対応

5. 小売業(アルペン、アサヒグループジャパン、日本ケロッグ など)

背景・課題

  • 消費者ニーズの多様化と購買行動のデジタルシフト
  • 実店舗とECの統合戦略の必要性
  • 在庫ロスの削減

主なDX事例

  • 顧客データ統合とパーソナライズ施策 店舗とオンラインの購買履歴、アプリ利用履歴を統合し、個別に最適化したプロモーションを実施。
  • ECと店舗在庫のリアルタイム連携 オンラインで在庫確認し店舗受け取りが可能な仕組みを構築。販売機会損失を防止。
  • 需要予測型自動発注 AIによる売上予測を基に発注量を自動調整し、欠品や過剰在庫を回避。

成果

  • 顧客満足度とリピート率の向上
  • 在庫ロス削減
  • 売上機会損失の防止

これらの事例を見ると、リアルタイム性とデータ活用が全業界共通のDX成功要因であることがわかります。

一方で、製造・化学業界では「工程最適化」、建設業では「現場の可視化」、流通業では「物流効率化」、小売業では「顧客体験の向上」と、それぞれの業界特有の目的とアプローチが存在します。

情報セキュリティのリスクと対策

DX推進の加速に伴い、企業の情報セキュリティリスクはますます複雑化・高度化しています。

CIO Japan Summit 2025でも、セキュリティはDXと同等に経営課題として捉えるべき領域として議論されました。単にIT部門の技術的課題ではなく、企業全体の存続や信頼性に直結するテーマです。

主なセキュリティリスク

  1. 外部からの高度化した攻撃
    • ランサムウェア:重要データを暗号化し、復号と引き換えに金銭を要求。近年は二重・三重脅迫型が増加。
    • ゼロデイ攻撃:未修正の脆弱性を狙い、検知が難しい。
    • サプライチェーン攻撃:取引先や委託先のシステムを経由して侵入。
  2. 内部不正と人的要因
    • 権限の濫用や情報の持ち出し。
    • セキュリティ教育不足によるフィッシング詐欺やマルウェア感染。
    • 人的ミス(誤送信、設定ミスなど)。
  3. 国際情勢に起因するリスク
    • 国家レベルのサイバー攻撃や情報戦。
    • 海外拠点・クラウドサービス利用時の法規制・データ主権問題。
    • 地政学的緊張による標的型攻撃の増加。

CIO視点で求められる対策

サミットで共有された議論では、セキュリティ対策は「技術的防御」「組織的対応」「人的対策」の三位一体で進める必要があるとされました。

  1. 技術的防御
    • ゼロトラストアーキテクチャの導入(「信頼しない」を前提に常時検証)。
    • 多層防御(ファイアウォール、EDR、NDR、暗号化など)。
    • 脆弱性管理と迅速なパッチ適用。
    • ログ監視とリアルタイム分析による早期検知。
  2. 組織的対応
    • インシデント対応計画(IRP)の策定と定期的な演習。
    • サプライチェーン全体のセキュリティ評価と契約管理。
    • リスクマネジメント委員会など、経営層を巻き込んだガバナンス体制。
  3. 人的対策
    • 全社員向けの継続的セキュリティ教育(模擬攻撃演習を含む)。
    • 権限管理の最小化と職務分離の徹底。
    • 内部通報制度や監査体制の強化。

リスクとROIのバランス

登壇者からは、「セキュリティはコストではなく投資」という考え方が重要であると強調されました。

経営層が予算を承認するためには、セキュリティ対策の効果や投資回収(ROI)を可視化する必要があります。

例えば、重大インシデント発生時の損失予測額と、予防のための投資額を比較することで、意思決定がしやすくなります。

総括

情報セキュリティは、DXの進展と比例してリスクも増大する領域です。

CIO Japan Summitでは、「技術」「組織」「人」の全方位から防御力を高めること、そして経営課題としてセキュリティ戦略を位置づけることがCIOの重要な責務であるという共通認識が形成されました。

国内外の事例から見る「経営視点を持ったCIO」像

CIO Japan Summit 2025では、CIOの役割はもはや「IT部門の統括者」にとどまらず、企業全体の経営変革を牽引する戦略リーダーであるべきだという認識が共有されました。国内外の事例を照らし合わせると、経営視点を持ったCIOには次の特徴が求められます。

1. 経営戦略とデジタル戦略の統合

  • 国内事例(CIO Japan Summit) 荏原製作所や竹中工務店などの登壇者は、デジタル施策を単なる業務効率化にとどめず、新規事業やサービスモデル創出に直結させる重要性を強調しました。 例として、製造現場のIoT活用を通じて、製品販売後のメンテナンス契約やデータ提供サービスといった収益源を新たに確立した事例が紹介されました。
  • 海外事例(米国大手小売業) 米TargetのCIOは、ECプラットフォームの拡充と店舗体験の融合を経営戦略の中心に据え、デジタル化を通じて客単価と顧客ロイヤルティを向上。CIOはCEO直下の執行役員として、戦略策定会議に常時参加しています。

2. DX推進とリスクマネジメントの両立

  • 国内事例 NTT西日本や経済産業省の登壇者は、DXのスピードを落とさずにセキュリティを確保するための体制構築を重視。ゼロトラストアーキテクチャの導入や、重要インフラ事業者としてのリスクシナリオ分析を経営層に共有する仕組みを整備しています。
  • 海外事例(欧州製造業) SiemensのCIOは、グローバル拠点を対象にした統合セキュリティポリシーと監査プロセスを確立。DXプロジェクト開始前にリスクアセスメントを必須化し、経営層の承認を経て進行する体制を構築しています。

3. 部門・業界・国境を越えた連携力

  • 国内事例 CIO LoungeやCeFILの議論では、異業種や行政との情報交換が自社だけでは得られない解決策や発想を生み出すことが強調されました。特に地方自治体と製造業のCIOが防災DXで協力するケースなど、社会課題解決型のプロジェクトも増えています。
  • 海外事例(米国テクノロジー企業) MicrosoftのCIOは、業界団体や規制当局と積極的に対話し、AI規制やプライバシー保護のルール形成にも関与。単なる社内のIT戦略立案者ではなく、業界全体の方向性に影響を与える存在となっています。

4. 技術とビジネスの「バイリンガル」能力

  • 国内事例 花王やアサヒグループジャパンのCIOは、マーケティング・サプライチェーン・営業など非IT部門とも共通言語で議論し、IT施策を経営数字に翻訳できる能力が求められると述べています。
  • 海外事例(米金融機関) JPMorgan ChaseのCIOは、AIやクラウドの技術的詳細を理解しつつ、投資判断やROIの説明を取締役会レベルで行います。技術者としての専門性と経営者としての視点を兼ね備えることで、投資家や株主を納得させる役割を果たしています。

5. CIOの位置づけの変化

世界的に見ると、CIOの地位は年々経営の中枢に近づいています。

  • Gartnerの調査では、2023年時点でグローバル企業の63%がCIOをCEO直下に置き、経営戦略決定への関与度が増加しています。
  • CIOは「運用の責任者」から「価値創造の責任者」へとシフトしつつあり、AI、データ、セキュリティを核とした経営パートナーとしての役割が定着し始めています。

総括

経営視点を持ったCIOとは、単にIT部門を率いるだけでなく、

  • 経営戦略に直結したデジタル施策を描く能力
  • DX推進とリスク管理のバランス感覚
  • 組織の枠を越えた連携力
  • 技術と経営の両言語を操る力

を兼ね備えた存在です。

CIO Japan Summitは、こうした新しいCIO像を国内外の事例から学び、互いに磨き合う場として機能しています。

まとめ

CIO Japan Summit 2025は、単なる技術カンファレンスではなく、経営とテクノロジーをつなぐ戦略的対話の場であることが改めて示されました。

製造業・建設業・流通業・化学業界・小売業といった幅広い分野のCIOやITリーダーが一堂に会し、DX推進、情報セキュリティ、そして人材マネジメントといった、企業の競争力と持続的成長に直結するテーマを議論しました。

議論の中で浮き彫りになったのは、DXの推進とセキュリティ確保、そして人材戦略は切り離せないという点です。

DXはリアルタイム性とデータ活用を武器に業務や顧客体験を変革しますが、その裏では複雑化するサイバーリスクへの備えが必須です。さらに、その変革を実行するには、多様な人材を活かす組織文化や部門横断的な連携が欠かせません。

また、国内外の事例を比較することで、これからのCIO像も鮮明になりました。

経営戦略とデジタル戦略を統合し、DX推進とリスク管理のバランスをとり、業界や国境を越えて連携しながら、技術とビジネスの両言語を操る「経営視点を持ったCIO」が求められています。

こうしたCIOは、もはやIT部門の管理者にとどまらず、企業全体の変革を主導する経営パートナーとして機能します。

本サミットを通じて得られた知見は、参加者だけでなく、今後DXやセキュリティ、人材戦略に取り組むすべての組織にとって有益な指針となるでしょう。

変化のスピードが加速し、予測困難な時代において、CIOの意思決定とリーダーシップは企業の成否を左右する──その事実を強く印象付けたのが、今年のCIO Japan Summit 2025でした。

参考文献

世界最大の量子制御システム、日本に導入──産業応用の最前線へ

2025年7月、日本の国立研究開発法人・産業技術総合研究所(AIST)にある「G‑QuATセンター」に、世界最大級の商用量子制御システムが導入されました。設置を行ったのは、測定機器の大手メーカーKeysight Technologies(キーサイト)。このニュースは、量子コンピューティングが“未来の話”から“現実の基盤技術”になりつつあることを示す、大きなマイルストーンです。

なぜ量子「制御」システムが注目されるのか?

量子コンピュータというと、よく紹介されるのは「冷却されたチップ」や「量子ビット(qubit)」という特殊な部品です。たしかにそれらは量子計算を実行するための中核ではありますが、実はそれだけでは計算は一切できません。この量子ビットに正しい信号を送り、制御し、状態を観測する装置──それが「量子制御システム」です。

例えるなら、量子コンピュータは“オーケストラの楽器”であり、制御システムは“指揮者”のような存在。どんなに素晴らしい楽器が揃っていても、指揮者がいなければ、演奏(=計算)は成り立ちません。

量子ビットは非常に繊細で、ほんのわずかな振動や熱、ノイズですぐに壊れてしまいます。そのため、ピコ秒(1兆分の1秒)単位のタイミングで、正確な電気信号を発生させて操作する技術が求められます。つまり、制御システムは量子計算を「使えるもの」にするための超精密制御エンジンなのです。

また、量子ビットの数が増えるほど、制御は一層困難になります。たとえば今回のシステムは1,000qubit以上を同時に扱える仕様であり、これは誤差を極限まで抑えつつ、大量の情報をリアルタイムに制御するという非常に高度な技術の結晶です。

近年では、量子計算そのものよりも「制御や誤差補正の技術が鍵になる」とまで言われており、この制御領域の進化こそが、量子コンピューティングの社会実装を支える重要なカギとなっています。

つまり、今回のニュースは単なる“装置導入”にとどまらず、日本が量子コンピュータを産業で活用するステージに本格的に進もうとしていることを象徴しているのです。

どんなことができるの?

今回導入された量子制御システムは、1,000個以上の量子ビット(qubit)を同時に操作できる、世界最大規模の装置です。この装置を使うことで、私たちの社会や産業が抱える“計算の限界”を超えることが可能になると期待されています。

たとえば、現代のスーパーコンピュータを使っても数十年かかるような膨大な計算──膨大な組み合わせの中から最適な答えを導き出す問題や、極めて複雑な分子の動きを予測する問題など──に対して、量子コンピュータなら現実的な時間内で解ける可能性があるのです。

具体的には、以下のようなことが可能になります:

💊 製薬・ライフサイエンス

新薬の開発には、無数の分子パターンから「効き目がありそう」かつ「副作用が少ない」化合物を探す必要があります。これはまさに、組み合わせ爆発と呼ばれる問題で、従来のコンピュータでは解析に何年もかかることがあります。

量子制御システムを活用すれば、分子構造を量子レベルで高速にシミュレーションでき、有望な候補だけをAIと組み合わせて自動選別することが可能になります。創薬のスピードが劇的に変わる可能性があります。

💰 金融・資産運用

投資の世界では、リスクを最小限に抑えつつ、できるだけ高いリターンを得られるような「資産配分(ポートフォリオ)」の最適化が重要です。しかし、対象が株式や債券、仮想通貨など多岐にわたる現代では、膨大な選択肢の中からベストな組み合わせを見つけるには高度な計算力が必要です。

量子コンピュータは、このような多次元の最適化問題を非常に得意としており、変動する市場にリアルタイムで対応できる資産運用モデルの構築に貢献すると期待されています。

🚛 ロジスティクス・輸送

物流の世界では、商品の輸送ルートや在庫の配置、配達の順番など、最適化すべき項目が山ほどあります。これらは「巡回セールスマン問題」と呼ばれ、従来のアルゴリズムでは限界がありました。

今回の量子制御システムを用いた量子コンピューティングでは、配送効率や倉庫配置をリアルタイムで最適化し、無駄なコストや時間を大幅に削減することが可能になります。これは物流業界にとって大きな変革をもたらすでしょう。

🔋 エネルギー・材料開発

電池や太陽電池、超電導素材など、新しいエネルギー材料の開発には、原子・分子レベルでの正確なシミュレーションが不可欠です。

量子制御システムによって、量子化学シミュレーションの精度が飛躍的に向上することで、次世代エネルギーの鍵となる素材が、これまでより早く、正確に発見できるようになります。

🧠 AIとの融合

そして忘れてはならないのが、AIとの連携です。AIは「学習」や「予測」が得意ですが、膨大なパターンの中から最適解を選ぶのは苦手です。そこを量子コンピュータが補完します。

たとえば、AIが生成した候補モデルから、量子計算で「最も良いもの」を選ぶ──あるいは、量子でデータを圧縮して、AIの学習速度を高速化するといった、次世代AI(量子AI)の開発も始まっています。

つまり何がすごいのか?

今回の量子制御システムは、これまで不可能だったレベルの「問題解決」を可能にする装置です。医療、金融、物流、エネルギーなど、私たちの生活のあらゆる裏側にある複雑な仕組みや課題を、より賢く、効率的にしてくれる存在として期待されています。

そしてその鍵を握るのが「量子制御」なのです。

G‑QuATセンターとは?

今回、世界最大級の量子制御システムが設置されたのは、国立研究開発法人 産業技術総合研究所(AIST)が設立した研究拠点「G‑QuATセンター」です。正式名称は、

Global Research and Development Center for Business by Quantum‑AI Technology(G‑QuAT)

という長い名称ですが、要するに「量子技術とAI技術を融合させて、新しい産業の創出を目指す」ための研究・実証・連携の拠点です。

🎯 G‑QuATの目的と背景

近年、量子コンピュータは基礎研究フェーズから、応用・実用フェーズに進みつつあります。しかし、量子計算は単独では産業に役立ちません。現実のビジネス課題に適用するには、AIやシミュレーション、既存システムとの連携が不可欠です。

G‑QuATはまさにその橋渡しを担う存在であり、

  • 「量子が得意なこと」
  • 「AIが得意なこと」
  • 「実社会の課題」

この3つを結びつけ、量子技術がビジネスで実際に使える世界をつくることを目的としています。

🧪 G‑QuATでの主な取り組み

G‑QuATセンターでは、以下のような研究・実証プロジェクトが進められています:

  • 量子アルゴリズムの開発・評価 製薬、物流、金融など各業界の問題に対応した、実用的な量子アルゴリズムを開発。
  • 量子AI(Quantum Machine Learning)の実証 AIでは処理が困難な高次元データを、量子の力で分析・最適化する研究。
  • 産業連携による応用フィールドテスト 民間企業との協業で、量子技術を実際の業務課題に適用し、成果を検証。
  • 次世代人材の育成と知識共有 量子・AI・情報工学にまたがる専門人材を育てる教育プログラムも検討。

🧠 公的研究機関の「本気」がうかがえる拠点

AIST(産業技術総合研究所)は、日本最大級の公的研究機関であり、これまでロボティクス、AI、素材科学などさまざまな分野でイノベーションを生み出してきました。

そのAISTが設立したG‑QuATは、単なる研究室ではなく、「量子技術を産業に役立てる」ための実証環境=社会実装の最前線です。今回のような巨大な量子制御システムの導入は、その本気度を象徴する出来事だと言えるでしょう。

🤝 産学官の連携拠点としての期待

G‑QuATでは、国内外の企業や大学、他の研究機関との連携が進められており、今後は次のような役割も期待されています:

  • 国内産業界が量子技術にアクセスしやすくなる「共有実験施設」
  • スタートアップ支援やPoC(実証実験)のためのテストベッド
  • 国際的な標準化や安全性ガイドラインづくりの中心地

量子分野における日本の競争力を保ちつつ、世界の中で実装力を示す拠点として、重要な役割を果たしていくことになるでしょう。

量子は「使う時代」へ

これまで、量子コンピュータという言葉はどこか遠い未来の技術として語られてきました。「理論的にはすごいけれど、まだ実用には程遠い」と思っていた人も多いかもしれません。確かに、数年前まではそれも事実でした。しかし今、私たちはその認識を改めるべき時を迎えています。

今回、日本のG‑QuATセンターに導入された世界最大級の量子制御システムは、量子コンピュータが「使える技術」へと進化していることをはっきりと示す出来事です。単なる研究用途ではなく、社会や産業の中で実際に応用するための土台が、現実のかたちとして整備され始めているのです。

このシステムは、1,000を超える量子ビットを同時に制御できるという、世界でも前例のない規模を誇ります。しかし、それ以上に重要なのは、この装置が「産業応用」にフォーカスした拠点に設置されたという点です。

製薬、金融、物流、エネルギーといった、社会の基盤を支える分野において、すでに量子技術は「現実的な選択肢」として台頭しつつあります。AIと組み合わせることで、これまで人間や従来のコンピュータでは到底処理しきれなかった問題にアプローチできる時代が到来しようとしています。

量子が「社会の裏側」で働く未来へ

私たちが直接量子コンピュータを触る日が来るかは分かりません。けれど、身の回りのあらゆるサービス──医療、交通、買い物、金融、エネルギーなど──が、目に見えないところで量子の力を活用し、よりスマートに、より速く、より最適に動いていく

そのための第一歩が、まさにこの日本の研究拠点から踏み出されたのです。

日本発・量子活用の実証モデル

G‑QuATセンターは、日本における量子コンピューティングの“応用力”を世界に示す存在になろうとしています。技術開発だけでなく、「どう使うか」「どう活かすか」という視点を重視し、産業界とともに進化していく――このスタイルは、量子技術の新たなスタンダードを築く可能性を秘めています。

世界の量子競争は激化していますが、日本はこのような実用化に特化したインフラと連携体制を持つことで、独自の強みを発揮できるはずです。

おわりに:技術が現実になる瞬間を、私たちは目撃している

量子はもはや、学会や論文の中に閉じこもった存在ではありません。現場に入り、現実の問題を解決し、人の生活や産業に貢献する段階に入りつつあります。

「量子コンピュータがいつか役に立つ日が来る」のではなく、「もう使い始められる場所ができた」という事実に、今私たちは立ち会っています。

そしてこの流れの先頭に、G‑QuATセンターという日本の拠点があることは、大きな希望でもあり、誇りでもあります。

📚 参考文献

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