Jaguar Land Rover、サイバー攻撃で1か月超の生産停止 ― サプライチェーンに波及する影響

2025年9月、イギリスを代表する自動車メーカー Jaguar Land Rover(JLR) が大規模なサイバー攻撃を受け、複数の工場で生産を停止しました。この出来事は単なる一企業の障害ではなく、英国経済や欧州自動車市場にとっても大きな意味を持ちます。1日あたり約1,000台の生産能力を誇る工場群が停止したことで、数万台規模の生産遅延が発生し、サプライヤーの経営や顧客への納車計画にまで深刻な影響が広がりました。

従来、自動車業界の生産停止といえば自然災害や物流混乱といった物理的要因が中心でした。しかし今回は「サイバー攻撃」という目に見えない外部要因によって、工場の稼働が妨げられました。生産設備を支えるITシステムやOT(Operational Technology)環境が狙われたことにより、製造そのものが成り立たなくなる現実が浮き彫りになったのです。これは、デジタル化が進んだ現代の製造業が抱える新しい脆弱性を象徴する事例といえます。

特に自動車産業は、数万点に及ぶ部品を世界中から調達し、組み立てることで成り立っています。そのため、一社の障害は数百社以上のサプライヤーや販売網に直結し、産業全体に波及します。今回も中小サプライヤーが納品を止められ、キャッシュフローの悪化によって経営危機に直面する事態が生じ、英国政府までが支援策を検討せざるを得ない状況となりました。

また、この事件は単発の異例事態ではなく、近年増加傾向にある「製造業とサプライチェーンを狙った攻撃」の流れの中に位置付けられます。2024年には半導体業界やOSSライブラリに対する攻撃が報告され、2025年に入ってからもクラウド基盤や基盤ソフトウェアが標的にされるなど、攻撃の射程はますます広がっています。JLRの事案はその最新の事例として、世界的に注目を集めています。

本記事では、このJLR攻撃の概要を整理し、被害の影響、そして他の事例と合わせて見たときの全体的な動向や今後の見通しについてまとめます。

JLRへの攻撃の概要

Jaguar Land Roverへのサイバー攻撃は、2025年8月末に最初の異常が表面化しました。当初は一部システムの不具合と見られていましたが、その後の調査で外部からの不正アクセスによるものと判明し、被害は急速に拡大しました。

発生時期と経緯

  • 8月31日頃:社内システムに障害が発生し、製造ラインが停止。JLRは「サイバーインシデントの可能性」を公表しました。
  • 9月初旬:英国国内の主要工場(Halewood、Solihull、Castle Bromwich など)で生産が全面的にストップ。販売店システムやバックオフィス業務も停止し、小売部門にも影響が拡大しました。
  • 9月中旬:停止が3週間以上に及ぶ見通しが報じられ、影響の長期化が明確になりました。サプライヤーの間で資金繰りの問題が顕在化し、政府や業界団体が介入を協議する事態に発展しました。
  • 9月下旬:JLRは「少なくとも10月1日までは生産を再開できない」と発表。生産停止が1か月を超える異例の事態となりました。

被害範囲

攻撃によって停止したのは製造ラインだけではありません。部品在庫の管理システム、出荷・物流の調整、販売店ネットワーク、アフターサービスの一部システムまで広範に影響が及びました。特にJLRのディーラー網は顧客との契約や納車スケジュールの調整にITを依存しているため、販売現場での混乱も拡大しました。

攻撃主体と手口

確定情報は少ないものの、Telegram上で 「Scattered Lapsus$ Hunters」 を名乗る集団が犯行声明を出しています。これは過去に活動が確認された「Lapsus$」「ShinyHunters」「Scattered Spider」といった著名な攻撃グループとの関連が疑われています。手口の詳細は公表されていませんが、システムが一斉に停止した点から、ランサムウェアや権限昇格を伴う侵入が行われた可能性が高いとみられます。

企業対応

JLRは被害拡大を防ぐため、システムの先行シャットダウンを実施。そのため一部のシステム停止は「攻撃による強制的なダウン」ではなく「予防的措置」として行われたものもあると説明しています。顧客情報の流出については「現時点で証拠はない」としていますが、調査は継続中です。

特異性

今回の事案が特に注目されるのは、単なるITシステム障害ではなく、製造業における OT(製造制御システム)とITの双方が同時に麻痺した という点です。生産ラインとサプライチェーン管理、顧客サービスという三層の活動が同時に停止し、企業活動全体が麻痺するという深刻な被害を引き起こしました。

サイバー攻撃による影響

Jaguar Land Roverへのサイバー攻撃による影響は、単なる生産能力の低下にとどまらず、企業活動のあらゆる領域に及びました。その広がりはサプライチェーン全体、販売網、財務状況、さらには企業ブランドにまで波及しています。

1. 生産停止と出荷遅延

英国国内の主要工場が停止し、1日あたり約1,000台に相当する生産能力が失われました。数週間にわたり停止が続いたため、累計で数万台規模の出荷が滞ることとなり、販売計画や市場投入スケジュールの全面的な見直しを余儀なくされました。こうした規模の生産停止は、メーカーにとって直接的な売上損失となるだけでなく、販売ディーラーとの契約や納車スケジュールにも波及し、顧客満足度の低下を引き起こしました。

2. サプライチェーンへの打撃

今回の障害は、特にサプライチェーンに深刻な影響を及ぼしました。部品を納品できなくなった中小規模のサプライヤーはキャッシュフローに直結する収入源を失い、資金繰りに苦しむ事態に追い込まれました。短期間の停止でも倒産リスクが高まる脆弱な業者が多く存在することから、政府や業界団体が支援策を検討する段階にまで至りました。製造業の多層的な取引構造が、被害を拡大させた典型例といえます。

3. 販売・顧客サービスの停滞

製造現場だけでなく、販売・サービス部門にも支障が生じました。ディーラーが利用するシステムが停止したため、顧客との契約手続きや車両登録、納車準備が滞り、結果として顧客対応の混乱を招きました。さらにアフターサービスの一部機能にも影響が及んだことで、既存顧客への対応にも支障が出ています。サイバー攻撃による障害が「製品を作れない」という段階を超え、最終消費者との接点にまで広がった点は特筆されます。

4. 財務的損失

生産停止による売上機会の喪失だけでも週あたり数千万ポンド規模の損害が推定されており、停止期間が1か月を超えたことで損害額はさらに膨らんでいます。加えて、復旧のためのシステム再構築や調査費用、サプライヤーへの補償対応といった間接的なコストも企業財務に重くのしかかります。財務的損失は短期的な収益悪化にとどまらず、中期的な投資計画や研究開発予算にも影響を与える可能性があります。

5. ブランドイメージの毀損

Jaguar Land RoverはEVシフトを強力に推進しており、2030年までにJaguarブランドを全面電動化する計画を掲げています。しかしその最中に長期間の生産停止を余儀なくされたことで、「サイバーに脆弱な企業」という印象を市場や顧客に与えるリスクが高まりました。高級車ブランドにとって信頼性と安定供給は重要な価値の一部であり、ブランドイメージの毀損は短期的な販売だけでなく長期的な競争力低下にもつながりかねません。

6. 政治・社会的波及

今回の事件は英国政府をも巻き込む規模に発展しました。自動車産業は同国にとって基幹産業であり、雇用や輸出を支える柱の一つです。その中核企業であるJLRが停止したことにより、地域経済や労働市場への波及が懸念され、政府が支援策やセキュリティ政策の強化を議論する事態となりました。単一企業の問題が国家的課題へと発展した点も、本件の特徴的な側面といえます。

製造業が標的となる理由

近年、製造業はサイバー攻撃者にとって最も魅力的なターゲットのひとつとなっています。その理由は単純に「規模が大きいから」ではなく、産業の構造や技術的な特性に根ざしています。

1. サプライチェーンの複雑性と脆弱性

自動車産業をはじめとする製造業は、多層的なサプライチェーンによって成り立っています。数百〜数千社に及ぶ部品供給企業が連携し、最終製品が組み立てられる仕組みです。この多層性は効率的な大量生産を可能にする一方で、防御の難しさを生みます。

攻撃者は必ずしも大手メーカーを直接狙う必要はなく、セキュリティ水準が低い小規模サプライヤーやサービス提供者を突破口とすることで、大手の中枢システムに間接的にアクセスできます。結果として、一社の脆弱性が全体のリスクへと転化する構造になっています。

2. OT(Operational Technology)の特性

製造業の中核を担うのは、工場の生産ラインを制御する OTシステム です。これらは長期間の稼働と安定性を重視して設計されており、古い制御機器やソフトウェアが今なお現役で稼働しています。更新サイクルが長いため最新のセキュリティ機能を備えていない場合も多く、攻撃者にとっては「侵入しやすく防御が難しい」領域となっています。また、これらのシステムは一度停止すると即座に生産が止まるため、攻撃による効果が非常に大きいのも特徴です。

3. ITとOTの統合によるリスク拡大

近年の製造業では、IoTやクラウドを活用した「スマートファクトリー化」が進んでいます。ITとOTの融合により生産効率は飛躍的に高まりましたが、同時に外部ネットワークとの接点が増え、攻撃の侵入口も拡大しました。従来は工場内部で閉じていたシステムが外部から接続可能になったことで、標的型攻撃やランサムウェアのリスクが高まっています。

4. 被害の即効性と交渉材料化

製造ラインが停止すれば、数時間〜数日の遅れが直ちに数百万〜数千万ドルの損害に直結します。この「即効性」が攻撃者にとって魅力的なポイントです。例えばランサムウェア攻撃では、被害企業が停止による損害を回避するために短期間で身代金を支払うインセンティブが強まります。製造業は「止まると損害が大きい」という特性を持つため、攻撃者にとって交渉を有利に進められる格好の標的となっています。

5. 知的財産・技術情報の価値

製造業は機密性の高い設計データや製造ノウハウを保有しています。特に自動車、半導体、航空宇宙などの分野では、知的財産そのものが巨額の価値を持ち、国家間の競争にも直結します。そのため、金銭目的の犯罪組織だけでなく、国家支援型の攻撃グループも積極的に狙う領域となっています。

6. 政治的・社会的インパクトの大きさ

製造業は雇用や経済を支える基幹産業であり、一社の操業停止が地域経済や国の貿易収支にまで影響します。攻撃による混乱は単なる企業損失にとどまらず、社会的・政治的圧力としても大きな意味を持つため、攻撃者にとっては「象徴的な成果」を得やすい分野といえます。


このように、サプライチェーンの多層性、OTの更新遅延、ITとOTの統合による脆弱化、被害の即効性、知財価値の高さ、社会的影響の大きさといった複合的な要因が、製造業を格好の標的にしています。

2024〜2025年の主な事例

近年、製造業やそのサプライチェーンを狙ったサイバー攻撃は世界的に増加傾向にあります。特定企業を直接攻撃するのではなく、基盤ソフトウェアやクラウドサービス、関連するサプライヤーを経由することで広範囲に影響を及ぼすのが特徴です。2024年から2025年にかけて確認された主な事例を整理します。

台湾半導体メーカーへの攻撃(2025年)

2025年春から夏にかけて、台湾の主要半導体設計・製造関連企業が標的型攻撃を受けました。フィッシングメールを起点にマルウェアが導入され、設計情報や従業員アカウントの侵害が試みられたと報じられています。半導体産業は世界中の製造業にとって基幹サプライチェーンの一部であるため、この種の攻撃は単一企業の問題にとどまらず、グローバルな供給網全体の信頼性に直結します。

Oracle Cloudの大規模サプライチェーン侵害(2025年)

2025年3月、Oracle Cloudを経由した認証情報の大規模な流出事件が発覚しました。約14万以上の企業が利用するクラウド環境から、シングルサインオンやディレクトリサービスに関連するデータが漏洩したとされます。攻撃者はクラウド基盤という「共通の依存先」を突破することで、直接つながりのない多数の企業に同時多発的な影響を与えました。製造業も例外ではなく、クラウドに依存した業務システムが連鎖的に被害を受ける形となりました。

XZ Utils バックドア事件(2025年)

2025年初頭、Linuxディストリビューションで広く利用されている圧縮ライブラリ「XZ Utils」にバックドアが仕込まれていたことが発覚しました。OSS(オープンソースソフトウェア)開発プロセスを長期間にわたり巧妙に侵害し、正規のアップデートに不正コードを組み込むという極めて洗練されたサプライチェーン攻撃でした。もし主要Linuxディストリビューションに広く展開されていた場合、世界中のサーバー・産業機器に甚大な影響を与えていた可能性があります。

OSSパッケージ汚染(2024年)

2024年には、npm(JavaScriptのパッケージ管理エコシステム)を悪用したサプライチェーン攻撃が報告されました。攻撃者は「一見無害に見えるパッケージ」を公開し、その内部に認証情報窃取やリモートアクセスを仕込む手口を採用。これにより開発者の環境やCI/CDパイプラインを経由して秘密情報を盗み取る事例が確認されています。こうしたOSSを経由する攻撃は、製造業の業務システムや社内ツールにも容易に侵入できるため、大きなリスクとなっています。

製造業全体を狙う動向

加えて、各種調査レポートでは2024年以降、製造業を標的にする攻撃活動が急増していることが指摘されています。ある調査によれば、製造業は全産業の中で最も多くの攻撃を受ける分野のひとつとなっており、特にランサムウェアとサプライチェーン侵害の割合が顕著に高まっています。


このように、2024〜2025年は「個別の企業」だけでなく、「産業の基盤」や「共通の依存サービス」を狙う攻撃が目立ちました。攻撃者は弱点を突くのではなく、より効率的に広範な影響を与える手段として、サプライチェーンを通じた攻撃を進化させていることがうかがえます。

今後の見通し

JLRの事例は、製造業におけるサイバー攻撃の深刻さを象徴する出来事であり、その影響は今後も長期にわたって観察されると考えられます。見通しを整理すると、以下のように短期・中期・長期の各段階で異なる課題と影響が予測されます。

短期的(数週間〜数か月)

  • 復旧作業の長期化 JLRはシステムの再稼働を段階的に進めていますが、完全復旧には数か月単位を要する可能性が高いとみられています。単なる工場稼働の再開だけでなく、販売網やディーラー向けの業務システムの正常化も必要であるため、影響範囲は限定的ではありません。
  • サプライヤー支援の動き 英国政府や業界団体が中小規模サプライヤーの資金繰りを支える施策を検討しており、短期的には緊急融資や税制優遇といった対策が打たれる見通しです。
  • 顧客対応の混乱継続 納車遅延や契約処理の滞りが続くため、販売現場では引き続き顧客対応の混乱が残ると予測されます。

中期的(半年〜2年)

  • 財務への影響顕在化 数十万台規模の生産遅延は年間売上に直結し、JLRの財務状況を圧迫します。特にEVシフトへの投資や研究開発費が制約され、競争力の低下につながる懸念があります。
  • ブランド信頼の回復に時間 高級車ブランドにとって「供給の安定性」は重要な信頼要素のひとつであり、今回の長期停止はブランドイメージに傷を残しました。信頼を取り戻すには、新モデル投入や品質改善といった積極的な取り組みが必要になるでしょう。
  • 業界全体への波及 他の自動車メーカーや製造業全般が、自社のサプライチェーンやIT/OT環境を改めて精査する動きが加速すると考えられます。特に欧州では規制強化の可能性が指摘されており、業界全体でのコスト増加は避けられません。

長期的(3年〜5年以上)

  • 国際的な規制・政策の進展 製造業が標的となる攻撃が続けば、各国政府は産業基盤を守るための規制やガイドラインを強化する可能性が高いとみられます。特にEUや英国では、GDPRに並ぶ産業向けセキュリティ規制の整備が進む可能性があります。
  • 国際競争力への影響 今回のような攻撃は単に企業収益の問題にとどまらず、国家の産業競争力にも直結します。供給の不安定さは投資判断や国際的な取引関係に影響を与えるため、製造業全体のプレゼンス低下につながる可能性があります。
  • 攻撃手口の高度化 攻撃者は一度効果を確認した手口を改良して再利用する傾向があるため、今後はより巧妙で長期潜伏型の攻撃が増えると予想されます。今回の事例はむしろ「序章」であり、将来的にはより大規模で複雑な攻撃が繰り返される可能性があります。

このように、JLRの事例は短期的には復旧やサプライヤー支援、中期的には財務・ブランド・業界全体への波及、長期的には国際規制や競争力への影響に至るまで、多段階的な課題を突きつけています。製造業が今後どのようにこのリスクを認識し、対応していくかは世界経済全体にとっても大きな関心事となるでしょう。

おわりに

Jaguar Land Roverへのサイバー攻撃は、単に一企業のシステム障害という枠を超え、製造業全体に広がる構造的な脆弱性を明確に示しました。生産ラインの停止による直接的な影響はもちろん、サプライヤーの経営危機、販売現場での顧客対応の混乱、財務への圧迫、さらにはブランド価値の毀損にまでつながっており、影響は多層的かつ長期的です。

本記事で見てきたように、2024年から2025年にかけては、台湾の半導体メーカーやクラウド基盤、オープンソースソフトウェアといった、産業全体を支える仕組みが繰り返し攻撃の標的となりました。JLRの事例はその延長線上にあり、「製造業は例外ではない」という現実を突きつけています。攻撃者は直接大企業を狙うだけでなく、サプライチェーンや基盤システムを経由して間接的に影響を拡大させる戦略を強めており、結果として社会や国家レベルにまで波及するリスクを持ち合わせています。

また、今回のJLRへの攻撃は、国際的にも大きな注目を集めています。自動車産業は欧州経済の柱であり、その中核企業のひとつが長期的な操業停止に追い込まれたことで、他国でも同様の事態が起きる可能性が現実味を帯びてきました。短期的には復旧とサプライヤー支援が焦点となり、中期的には財務・ブランド・業界全体への影響が顕在化し、長期的には規制や国際競争力の観点から議論が進むと考えられます。

今回の事件は「サイバー攻撃が産業の根幹を揺るがす時代」に突入したことを示す象徴的な出来事です。今後も同種の事案が各地で発生する可能性は高く、製造業を取り巻く環境は大きな転換点を迎えています。JLRの事例は、その変化を理解するための重要なケーススタディとして記録に残るでしょう。

参考文献

npm史上最大規模となる自己増殖型ワーム「Shai-Hulud」によるサプライチェーン攻撃

はじめに

2025年9月15日、JavaScript の主要パッケージエコシステムである npm において、これまでにない深刻なサプライチェーン攻撃が発覚しました。攻撃に使われたマルウェアは「Shai-Hulud」と名付けられており、その特徴は単なるパッケージ改ざんにとどまらず、自己伝播(ワーム)機能を備えている点にあります。これにより、感染したパッケージを利用した開発環境や CI/CD 環境から認証情報を奪い取り、さらに別のパッケージを自動的に改ざんして公開するという、従来の攻撃よりもはるかに広範な拡散が可能となりました。

被害は短期間で拡大し、確認されただけでも 200件近い npm パッケージが改ざんされており、その中には広く利用される有名ライブラリや大手企業関連のパッケージも含まれていました。OSS エコシステムは世界中の開発者や企業が依存する基盤であり、サプライチェーン攻撃は一部のパッケージ利用者だけでなく、そこからさらに派生する数多くのソフトウェアやサービスへ影響を与える可能性があります。

今回の Shai-Hulud 攻撃は、サイバー攻撃者がいかに OSS エコシステムを効率的な攻撃対象と見なしているかを改めて示すものであり、npm を利用するすべての開発者・組織にとって重大な警鐘となっています。本記事では、攻撃の概要や技術的な特徴を整理するとともに、想定されるリスクと具体的な対応方法について解説します。

背景

近年、ソフトウェアサプライチェーン攻撃は頻度と巧妙性を増しています。オープンソースパッケージは多くのプロジェクトで基盤的に利用されており,単一の改ざんが間接的に多数のシステムへ波及するリスクを常に伴います。特に JavaScript/npm エコシステムでは依存関係の深さと枝分かれが大きく,一つの小さなユーティリティが数千の最終アプリケーションに取り込まれることが珍しくありません。結果として,攻撃者は影響範囲を指数的に拡大できる利点を得ます。

npm は公開・配布のプロセスを自動化するためにトークンや CI ワークフローに依存していますが,これらは適切に管理されないと大きな攻撃面となります。長期有効の publish トークン,権限が過大な CI ランナー,組織共有の認証情報は侵害時に「自動で書き換える」「自動で公開する」といった自己伝播的な悪用を可能にします。加えて,postinstall 等の実行時フックはビルドや開発環境で任意コードを実行するため,ここに悪意あるコードが紛れ込むと検出が遅れやすい設計上の脆弱性があります。

運用面でも課題があります。開発者は多数の依存を素早く取り込みたいため,package-lock による固定や署名付き配布を怠りがちです。企業では利便性のためにトークンを共有したり,CI 用イメージやランナーを長期間使い回したりする運用が残存します。これらの実務的な慣行は,攻撃者にとって短時間で大規模な被害を生む温床となります。

過去のサプライチェーン攻撃の教訓から,検出と封じ込めには「開発環境・CI・レジストリ」の三点同時対応が必要であることが分かっています。Shai-Hulud のように自己伝播性を持つ攻撃は,これら三領域のいずれか一つでも緩みがあると急速に広がります。したがって,本件は単なるパッケージ単位の問題ではなく,組織の開発・配布プロセス全体を見直す契機として位置づけるべき事象です。

攻撃の技術的特徴

初期侵入

攻撃者は npm の publish トークンや GitHub の Personal Access Token(PAT)などの認証情報を取得して改ざんに利用しました。トークン取得経路としてはフィッシングや公開設定ミス、漏洩した CI 設定などが想定されます。これらのトークンはパッケージ公開権限を直接与えるため,侵害されると改ざんが短時間で実行され得ます。

改ざん手法

改ざん版には postinstall フックやバンドル化された実行スクリプト(例:bundle.js)が組み込まれます。npm install 時に自動実行されるため,開発者や CI が気づきにくく,ビルド段階でコードが動作する設計上の盲点を突きます。

情報収集と流出

実行スクリプトはローカル環境(環境変数、.npmrc 等)とクラウド環境(IMDS 等のメタデータエンドポイント)を探索して認証情報を収集します。収集したデータは攻撃者管理下の GitHub リポジトリやハードコードされた webhook にコミット/POST される仕組みが確認されています。

自己伝播(ワーム化)

感染した環境に残る有効トークンを悪用し,攻撃者は他パッケージを自動で改ざん・公開します。依存関係を介して連鎖的に拡散する点が本件の特徴です。短命で終わらない仕組みになっているため封じ込めが難しくなります。

持続化と権限操作

攻撃スクリプトは GitHub Actions ワークフローを追加したり,リポジトリを private→public に変更するなどして持続化と露出拡大を図ります。これにより単発検出後も再侵害や情報漏えいが継続するリスクが残ります。

検出困難性と難読化

実行コードはバンドル・難読化され,ファイル名やワークフロー名を変えることで痕跡を隠します。postinstall の存在自体が通常の開発フローの一部であるため,単純な目視だけでは発見されにくい設計です。

想定される影響と懸念

1. 認証情報・機密情報の流出と二次被害

改ざんされたパッケージの postinstall や実行スクリプトが開発端末・CI・クラウドのメタデータからトークンやキーを収集し外部に送信します。流出した認証情報は即時に不正利用され、以下の二次被害を引き起こす可能性があります。

  • リポジトリの不正操作(コミット、ワークフロー変更、公開設定切替)によるさらなる改ざん。
  • クラウド資源の不正利用(インスタンス起動、ストレージ操作、データベースアクセス)。
  • サードパーティサービスの乗っ取り(npm、CIサービス、サードパーティAPI)。

2. 依存関係を介した連鎖的な感染拡大

npm の依存グラフは深く広いため、ワーム的に拡散すると多数のプロジェクトに連鎖的影響が及びます。特に共有ライブラリやユーティリティが汚染されると、最終的な配布物や商用サービスにもマルウェアが混入するリスクが高まります。結果として被害の「範囲」と「追跡可能性」が急速に拡大し、封じ込めコストが指数的に増加します。

3. ビルド・デプロイチェーンの汚染と運用停止リスク

CI/CD パイプラインやビルドアーティファクトにマルウェアが混入すると、デプロイ先環境まで影響が及びます。企業は安全確認のためにビルド/デプロイを一時停止せざるを得なくなり、サービス停止やリリース遅延、ビジネス機会の損失につながります。

4. 検出困難性と長期的残存リスク

postinstall 実行や難読化されたスクリプトは発見が遅れやすく、感染が既に広がった後で検出されるケースが多くなります。さらに、改ざんコードが複数ファイルやワークフローに分散して保存されると、完全除去が難しく「再発」や「潜伏」が残るリスクがあります。

5. 信頼性・ブランド・法務的影響

顧客やパートナーに供給するソフトウェアにマルウェアが混入した場合、信頼失墜や契約違反、損害賠償請求につながる可能性があります。規制業界(金融・医療など)では報告義務や罰則が発生する場合があり、法務・コンプライアンス対応の負荷が増します。

6. インシデント対応コストと人的負荷

影響範囲の特定、シークレットのローテーション、CI の再構築、監査ログ解析、顧客対応など、対応工数とコストは大きくなります。特に短時間で多数のチーム・プロジェクトにまたがる場合、人的リソースの逼迫と対応優先順位の決定が課題となります。

7. 長期的なサプライチェーン健全性の劣化

繰り返しの改ざん事件は OSS 利用に対する過度な懸念を生み、外部ライブラリの採用抑制や自家製化(in-house)への回帰を促す可能性があります。これにより開発効率が低下しエコシステム全体の健全性に悪影響が及ぶ恐れがあります。

8. 観測・検出のギャップによる見落とし

短時間に大量の npm publish やワークフロー変更が行われた場合でも、既存の監視ルールでは閾値を超えるまで気付かない運用が珍しくありません。ログ保持期間やログの粒度が不十分だと、フォレンジック調査の精度が低下します。

マルウェアのチェック方法


セキュリティ専門企業のAikido Securityから対策パッケージが提供されています。

特徴

  • npmやyarnなどのパッケージマネージャのコマンドをラップし、パッケージインストール前にマルウェアチェックを実施します。
  • チェックはAikido Intelというオープンソースの脅威インテリジェンスに照らし合わせて検証します。
  • デフォルトではマルウェアが検出されるとインストールをブロックしてコマンドを終了します。これはユーザーに許可を求めるモードにも設定変更可能です。
  • 対応シェルは、Bash、Zsh、Fish、PowerShell、PowerShell Core
  • Node.js 18以上に対応してます。

といった特徴を持っています。

使い方

npmコマンドを使ってAikido Security Chainパッケージをインストールします。

$ npm install -g @aikidosec/safe-chain

added 110 packages in 6s

29 packages are looking for funding
  run `npm fund` for details

次に以下のコマンドを実行してシェル統合を設定します。

$ safe-chain setup
Setting up shell aliases. This will wrap safe-chain around npm, npx, and yarn commands.

Detected 3 supported shell(s): Zsh, Bash, Fish.
- Zsh: Setup successful
- Bash: Setup successful
- Fish: Setup successful

Please restart your terminal to apply the changes.

使用できるようにするにはターミナルを再起動してください。exec $SHELL -lでも動作しました。

インストールができたかどうかは以下のコマンドで確認します。インストールしようとしているパッケージはマルウェアとしてフラグされている無害なパッケージでシェル統合が成功しコマンドが正常にラップされている場合はブロックが成功します。

$ npm install safe-chain-test
✖ Malicious changes detected:
 - safe-chain-test@0.0.1-security

Exiting without installing malicious packages.

成功すればマルウェアのチェックが有効になっています。このチェックはパッケージのインストール時に行われるため、すでにプロジェクトがある場合は、一旦node_modulesを削除してからnpm installしてください。

$ rm -rf node_modules
$ npm install
✔ No malicious packages detected.
npm warn deprecated source-map@0.8.0-beta.0: The work that was done in this beta branch won't be included in future versions

added 312 packages, and audited 313 packages in 2s

73 packages are looking for funding
  run `npm fund` for details

1 low severity vulnerability

To address all issues, run:
  npm audit fix

Run `npm audit` for details.

これは私が開発中のライブラリで試した結果です。基本的に外部ライブラリに依存していないので、マルウェアは検出されませんでした。

一部開発用パッケージやMCP関連パッケージも標的になっていたので、グローバルインストールされているパッケージについても確認してください。グローバルパッケージの場合は対象パッケージを再度インストールすることでチェックができます。

アンインストール

アンインストールする場合は、

safe-chain teardown

でエイリアスを除去し、

npm uninstall -g @aikidosec/safe-chain

でパッケージをアンイストールし、ターミナルを再起動してください。

CI/CDへの組み込み方法

CI/CDへの組み込み方法についてもガイドされています。

マルウェアを検知するためにディスクをスキャンするため、多くのパッケージに依存している場合はCIにかかる時間の増大やコスト増大を招く場合があります。影響を考慮して導入の可否を判断してください。

GitHub Actionsでの組み込み方法について見ていきます。

私が実際に使っている.github/workflows/ci.yamlは以下のようになっています。

name: CI

on:
  push:
    branches: [main]
  pull_request:
    branches: [main]

jobs:
  test:
    runs-on: ubuntu-latest

    strategy:
      matrix:
        node-version: [18.x, 20.x]

    steps:
      - uses: actions/checkout@v4

      - name: Use Node.js ${{ matrix.node-version }}
        uses: actions/setup-node@v4
        with:
          node-version: ${{ matrix.node-version }}
          cache: "npm"

      - run: npm install -g @aikidosec/safe-chain
 
      - run: npm install
      - run: npm run lint
      - run: npm run build --if-present
      - run: npm test

npm installを行う前にパッケージをインストールします。

      - run: npm install -g @aikidosec/safe-chain

      - run: npm install

次にnpm installのコマンドをaikido-npmに差し替えます。

      - run: aikido-npm install

これらの修正を行なった.github/workflows/ci.yamlは以下のようになります。

name: CI

on:
  push:
    branches: [main]
  pull_request:
    branches: [main]

jobs:
  test:
    runs-on: ubuntu-latest

    strategy:
      matrix:
        node-version: [18.x, 20.x]

    steps:
      - uses: actions/checkout@v4

      - name: Use Node.js ${{ matrix.node-version }}
        uses: actions/setup-node@v4
        with:
          node-version: ${{ matrix.node-version }}
          cache: "npm"

      - run: npm install -g @aikidosec/safe-chain

      - run: aikido-npm install
      - run: npm run lint
      - run: npm run build --if-present
      - run: npm test

以下はGitHub Actionsの実行結果の抜粋です。マルウェアのチェックが成功していることが確認できます。

Run aikido-npm install
Scanning 312 package(s)...
No malicious packages detected.
npm warn EBADENGINE Unsupported engine {
npm warn EBADENGINE   package: '@isaacs/balanced-match@4.0.1',
npm warn EBADENGINE   required: { node: '20 || >=22' },
npm warn EBADENGINE   current: { node: 'v18.20.8', npm: '10.8.2' }
npm warn EBADENGINE }

CI/CDへの組み込みも比較的簡単に実施可能です。

まとめ

今回の Shai-Hulud 攻撃は、npm エコシステムにおけるサプライチェーンの脆弱性を突いた、これまでにない規模と性質を持つ事例でした。単なるパッケージ改ざんにとどまらず、インストール時に自動実行されるスクリプトを利用して認証情報を盗み取り、その情報を活用して別のパッケージを改ざんするという「自己伝播」の性質を持つ点が特に深刻です。これにより、短期間で数百件規模のパッケージが感染する事態となり、ソフトウェアサプライチェーン全体の信頼性に大きな影響を与えました。

本記事では、攻撃の仕組みと影響だけでなく、実際に開発者や企業が取るべき対応についても整理しました。具体的には、感染パッケージの特定と除去、シークレットの全面ローテーション、CI/CD 環境のクリーン再構築、リポジトリやログの監査といった即時対応が必須です。さらに、長期的には権限の最小化や ephemeral runner の利用、SBOM の生成とソフトウェアコンポーネント解析、そして Aikido Safe Chain のようなマルウェア検証ツールの活用など、セキュリティを日常の開発プロセスに組み込む工夫が欠かせません。

特に、CI/CD への統合は鍵となります。開発者が手動で確認するだけでは限界があるため、依存関係の取得やビルドのたびに自動でパッケージを検証し、IOC や脅威インテリジェンスに基づいてブロックする仕組みを導入することで、攻撃の拡大を未然に防げます。OSS に依存する開発体制を維持する以上、こうした仕組みは「特別な対策」ではなく「標準的な衛生管理」として定着させる必要があります。

Shai-Hulud は終息したインシデントではなく、今後の攻撃者の戦術を示す前兆と捉えるべきです。攻撃はますます自動化・巧妙化し、検出をすり抜けて広範囲に広がることが想定されます。したがって、本件を単なる一過性の脅威と見るのではなく、ソフトウェアサプライチェーン防御の基盤整備を加速させるきっかけとすることが重要です。OSS エコシステムと開発者コミュニティの健全性を守るためには、開発者一人ひとりがセキュリティ意識を高め、組織全体として持続的な監視と改善の仕組みを整備していくことが求められます。

参考文献

AI駆動型ランサムウェア「PromptLock」の正体 ― 研究プロトタイプが示す新たな脅威の可能性

2025年9月、セキュリティ業界に大きな波紋を広げる出来事が報じられました。スロバキアのセキュリティ企業ESETが、世界初とされるAI駆動型ランサムウェア「PromptLock」を発見したのです。従来のランサムウェアは、人間の開発者がコードを作成・改変して機能を追加してきましたが、PromptLockはその枠を超え、大規模言語モデル(LLM)が自律的に攻撃コードを生成する仕組みを備えていました。これにより、攻撃の効率性や回避能力が従来より大幅に高まる可能性が指摘されました。

当初は未知の脅威が出現したとして警戒が強まりましたが、その後の調査により、実態はニューヨーク大学(NYU)の研究者が作成した学術プロトタイプ「Ransomware 3.0」であることが明らかになりました。つまり、サイバー犯罪者による実際の攻撃ではなく、研究目的で作られた概念実証(PoC)が偶然発見された形です。しかし、AIによる自動化・動的生成がランサムウェアに組み込まれたという事実は、将来のセキュリティリスクを予見させる重要な出来事といえます。

本記事では、PromptLock発見の経緯、研究プロトタイプとの関係性、AI技術の具体的な活用方法、そしてセキュリティ分野における影響や課題について多角的に解説します。

PromptLock発見の経緯

ESETがPromptLockを最初に確認したのは、VirusTotalにアップロードされた未知のバイナリの解析からでした。VirusTotalは研究者や一般ユーザーがマルウェアのサンプルを共有・解析するために利用されるプラットフォームであり、ここに公開されることで多くのセキュリティベンダーが調査対象とします。ESETはこのサンプルを分析する過程で、従来のランサムウェアとは異なる挙動を持つ点に着目しました。

解析の結果、このマルウェアはGo言語で開発され、Windows・Linux・macOSといった複数のOS上で動作可能であることが判明しました。クロスプラットフォーム対応の設計は近年のマルウェアでも増えている傾向ですが、特に注目されたのは「内部に大規模言語モデルを呼び出すプロンプトが埋め込まれている」という点でした。通常のランサムウェアは固定化された暗号化ルーチンやコマンド群を実行しますが、PromptLockは実行時にLLMを通じてLuaスクリプトを動的生成し、その場で攻撃コードを組み立てていくという、従来にない特徴を備えていました。

生成されるスクリプトは、感染した環境内のファイルを列挙し、機密性の高いデータを選別し、さらに暗号化する一連の処理を自動的に行うものでした。暗号化アルゴリズムにはSPECK 128ビットが利用されていましたが、完全な破壊機能は未実装であり、概念実証の段階にとどまっていたことも確認されています。

また、ESETはこのマルウェアに「PromptLock」という名称を与え、「世界初のAI駆動型ランサムウェア」として発表しました。当初は、AIを利用した新種のマルウェアが野に放たれたと解釈され、多くのメディアや研究者が警戒を強めました。特に、マルウェアにAIが組み込まれることで、シグネチャ検知を容易に回避できる可能性や、毎回異なる挙動を取るため振る舞い分析を困難にするリスクが懸念されました。

しかし、後の調査によって、このサンプルは実際の攻撃キャンペーンの一部ではなく、研究者が学術目的で作成したプロトタイプであることが明らかになります。この経緯は、セキュリティ業界がAIの脅威を過大評価する可能性と同時に、AIが攻撃手法に応用されることでいかに大きなインパクトを与えうるかを示した象徴的な事例となりました。

研究プロトタイプとの関係

PromptLockの正体が明らかになったのは、ESETの発表から間もなくしてです。iTnewsの報道によれば、問題のバイナリはニューヨーク大学(NYU)タンドン工科大学の研究チームが開発した「Ransomware 3.0」と呼ばれる学術的プロトタイプにほかなりませんでした。これは、AIを活用してランサムウェアの攻撃ライフサイクル全体を自律的に実行できるかを検証する目的で作られたもので、研究者自身がVirusTotalにアップロードしていたことが後に確認されています。

Ransomware 3.0は、従来のマルウェア研究と大きく異なる点として、大規模言語モデル(LLM)を「攻撃の頭脳」として利用する設計思想を持っていました。研究チームは、システム探索、ファイルの優先度評価、暗号化、身代金要求といった工程を個別にプログラムするのではなく、プロンプトとしてLLMに与え、実行時に必要なコードを生成させるという新しい手法を試みました。これにより、固定化されたシグネチャやコードパターンに依存しない、動的に変化する攻撃を作り出すことが可能になります。

さらに研究では、Windows、Linux、Raspberry Piといった複数のプラットフォームで試験が行われ、AIが敏感なファイルを63〜96%の精度で識別できることが確認されました。これは単なる暗号化ツールとしてではなく、攻撃対象の「価値あるデータ」を自律的に選別する段階までAIが担えることを意味しています。

コスト面でも注目すべき点がありました。研究チームによると、1回の攻撃実行に必要なLLM利用量は約23,000トークンであり、クラウドAPIを利用した場合でも0.70米ドル程度に収まるとされています。オープンソースモデルを活用すれば、このコストすら不要です。つまり、従来のマルウェア開発者が時間と労力をかけて調整してきたプロセスを、誰でも低コストで再現可能にしてしまうポテンシャルがあるのです。

ただし、研究チームは倫理的配慮を徹底しており、このプロトタイプは完全に学術目的でのみ開発されたものです。実際の攻撃に利用される意図はなく、論文や発表を通じて「AIがサイバー攻撃に悪用された場合のリスク」を社会に提示することが狙いでした。今回のPromptLock騒動は、ESETがPoCを未知の脅威として誤認したことで注目を集めましたが、同時に研究成果が現実の脅威と紙一重であることを世に知らしめたとも言えます。

技術的特徴

PromptLock(研究プロトタイプであるRansomware 3.0)が持つ最大の特徴は、ランサムウェアの主要機能をLLMによって動的に生成・実行する仕組みにあります。従来のランサムウェアは固定化されたコードや暗号化アルゴリズムを持ち、シグネチャベースの検知や挙動パターンによる対策が可能でした。しかしPromptLockは、実行のたびに異なるコードを生成するため、既存の防御モデルにとって検出が難しくなります。

1. AIによる動的スクリプト生成

内部に埋め込まれたプロンプトが大規模言語モデル(gpt-oss:20bなど)へ渡され、Luaスクリプトがオンデマンドで生成されます。このスクリプトには、ファイル探索、フィルタリング、暗号化処理といった攻撃のロジックが含まれ、同じバイナリであっても実行ごとに異なる挙動を取る可能性があります。これにより、セキュリティ製品が行う静的解析やヒューリスティック検知の回避が容易になります。

2. クロスプラットフォーム対応

本体はGo言語で記述されており、Windows・Linux・macOSに加え、Raspberry Piのような軽量デバイス上でも動作することが確認されています。IoTデバイスや組み込みシステムへの拡散も現実的に可能となり、攻撃対象の範囲が従来より大幅に拡大する危険性を示しています。

3. 暗号化アルゴリズムの採用

ファイル暗号化にはSPECK 128ビットブロック暗号が利用されていました。これはNSAによって設計された軽量暗号で、特にIoT環境など計算資源が限られるデバイスに適しています。研究プロトタイプでは完全な破壊機能は実装されていませんが、暗号化の仕組みそのものは十分に実用的なものでした。

4. 自動化された攻撃フェーズ

Ransomware 3.0は、ランサムウェアが行う主要フェーズを一通りカバーしています。

  • システム探索:OSやストレージ構造を認識し、標的となるファイルを特定。
  • ファイル選別:LLMの指示により「価値のあるデータ」を優先的に選択。研究では63〜96%の精度で重要ファイルを抽出。
  • 暗号化:対象ファイルをSPECKアルゴリズムで暗号化。
  • 身代金要求:ユーザーに表示する要求文もLLMによって生成可能で、文章の多様性が高まり、単純なキーワード検知を回避しやすい。

5. 実行コストと効率性

研究者の試算によれば、1回の攻撃実行には約23,000トークンが必要で、クラウドAPIを利用した場合は0.70米ドル程度のコストとされています。これはサイバー犯罪の観点から見れば極めて低コストであり、さらにオープンソースモデルを利用すればゼロコストで再現できることから、攻撃の敷居を大幅に下げる可能性があります。

6. 多様な回避能力

生成されるコードは常に変化し、固定化されたシグネチャでは検出できません。また、動的生成の性質上、セキュリティ研究者がサンプルを収集・分析する難易度が飛躍的に高まるという課題もあります。さらに、文章生成能力を利用することで、ソーシャルエンジニアリング要素(説得力のある脅迫文やカスタマイズされた身代金メッセージ)を柔軟に作成できる点も注目されます。

セキュリティへの影響と課題

PromptLock(Ransomware 3.0)が示した最大の教訓は、AIが攻撃側の手に渡ったとき、従来のマルウェア検知・防御の前提が揺らぐという点です。従来のランサムウェアは、コード署名やシグネチャパターンを基にした検知が有効でしたが、AIによる動的生成はこれを回避する仕組みを本質的に内包しています。結果として、防御側は「どのように変化するかわからない攻撃」と対峙せざるを得ません。

1. 防御モデルの陳腐化

セキュリティ製品の多くは既知のコードや振る舞いに依存して検知を行っています。しかし、PromptLockのように実行のたびに異なるスクリプトを生成するマルウェアは、検出ルールをすり抜けやすく、ゼロデイ的な振る舞いを恒常的に行う存在となります。これにより、シグネチャベースのアンチウイルスやルールベースのIDS/IPSの有効性は大幅に低下する恐れがあります。

2. 攻撃者のコスト削減と自動化

研究では1回の攻撃実行コストが0.70米ドル程度と試算されています。従来、ランサムウェア開発には専門知識や開発時間が必要でしたが、AIを利用すれば低コストかつ短時間で攻撃ロジックを作成できます。さらに、LLMのプロンプトを工夫することで「ターゲットごとに異なる攻撃」を自動生成でき、マルウェア作成のハードルは著しく低下します。結果として、これまで攻撃に関与していなかった層まで参入する可能性が高まります。

3. 高度な標的化

AIは単なるコード生成だけでなく、環境やファイル内容を理解した上で攻撃を調整することが可能です。研究では、LLMが重要ファイルを63〜96%の精度で識別できると報告されています。これは「無差別的に暗号化する従来型」と異なり、価値あるデータだけを狙い撃ちする精密攻撃の可能性を意味します。結果として、被害者は復旧困難なダメージを受けるリスクが高まります。

4. 説得力のある身代金要求

自然言語生成能力を活用すれば、攻撃者は被害者ごとに異なるカスタマイズされた脅迫文を作成できます。従来の定型的な「支払わなければデータを消去する」という文言ではなく、企業名・担当者名・業務内容を織り込んだリアルなメッセージを自動生成することで、心理的圧力を増幅させることができます。これはソーシャルエンジニアリングとの融合を意味し、防御はさらに難しくなります。

5. 防御側への課題

こうした背景から、防御側には新しい対応策が求められます。

  • AI対AIの対抗:AI生成コードを検知するために、防御側もAIを活用した行動分析や異常検知が不可欠になる。
  • ゼロトラスト強化:感染を前提としたネットワーク設計、権限の最小化、セグメンテーションの徹底が必須。
  • バックアップと復旧体制:暗号化を回避できないケースを想定し、オフラインバックアップや迅速な復旧計画を備える。
  • 倫理と規制の問題:AIを悪用した攻撃が現実化する中で、モデル提供者・研究者・規制当局がどのように責任分担を行うかも大きな課題となる。

6. 今後の展望

PromptLockは研究プロトタイプに過ぎませんが、その存在は「AI時代のサイバー攻撃」の可能性を明確に示しました。今後は、犯罪組織がこの技術を取り込み、攻撃の効率化や大規模化を進めることが懸念されます。セキュリティ業界は、AIによる脅威を前提とした新たな脅威モデルの構築と、それを支える防御技術の進化を余儀なくされるでしょう。

おわりに

PromptLockは最初こそ「世界初のAI駆動型ランサムウェア」として大きな衝撃を与えましたが、その正体はNYUの研究者が開発した学術的な概念実証にすぎませんでした。しかし、この誤認をきっかけに、セキュリティ業界全体がAIとマルウェアの交差点に強い関心を寄せることとなりました。実際に攻撃に利用されたわけではないものの、AIが従来の防御手法を無力化しうる可能性を示した事実は極めて重大です。

従来のランサムウェア対策は、既知のシグネチャや典型的な挙動を検知することを前提にしてきました。しかし、AIが介在することで「常に異なる攻撃コードが生成される」「標的ごとに最適化された攻撃が行われる」といった新しい脅威モデルが現実味を帯びています。これは、防御の在り方そのものを再考させる大きな転換点であり、単なるマルウェア対策ではなく、AIを含む攻撃シナリオを包括的に想定したセキュリティ戦略が求められる時代に入ったことを意味します。

また、この出来事は倫理的な側面についても重要な示唆を与えました。研究としてのPoCであっても、公開の仕方や取り扱い次第では「現実の脅威」として認識され、社会的混乱を招く可能性があります。AIを使った攻撃研究と、その成果の公開方法に関する国際的なルール作りが今後さらに必要になるでしょう。

PromptLockが「実験作」だったとしても、攻撃者が同様の技術を応用する日は遠くないかもしれません。だからこそ、防御側は一歩先を見据え、AI時代のセキュリティ基盤を構築する必要があります。本記事で取り上げた事例は、その警鐘として記憶すべきものであり、今後のサイバー防御の議論において重要な参照点となるでしょう。

参考文献

OAuthトークン窃取によるサプライチェーン攻撃 ― Drift統合経由で複数企業に影響

2025年8月、Salesloft社が提供するチャットプラットフォーム「Drift」を経由した大規模なサプライチェーン攻撃が発覚しました。攻撃者は、Driftと外部サービス(Salesforceなど)を統合する際に利用されていたOAuthトークンを窃取し、複数の大企業のシステムへ不正アクセスを行いました。影響はCloudflareやZscalerといった世界的な企業にまで及び、サポートケースや顧客関連データが流出した可能性が指摘されています。

今回の攻撃の重要な点は、標的が「AIチャットボット」そのものではなく、サプライチェーンを構成する外部サービス統合の脆弱性だったことです。OAuthトークンはサービス間認証の基盤として広く利用されていますが、一度流出すれば本人になりすまして無制限にアクセスできる強力な「鍵」として機能します。そのため、管理の不備や第三者への委託によって安全性が損なわれると、そこを突破口にして被害が一気に広がるリスクを孕んでいます。

この事件は「サプライチェーン攻撃」と呼ばれますが、実態としてはDriftという外部ベンダーを通じて複数企業が侵害された事例です。つまり、1社のセキュリティ不備が取引先全体に波及する構造的なリスクが浮き彫りになったといえます。

本記事では、事件の概要と技術的なポイントを整理し、OAuthトークンのセキュリティに関して押さえるべき基本的な対策について解説します。AIという観点ではなく、「認証情報の管理不備がサプライチェーン全体のリスクになる」という本質的な問題に焦点を当てます。

攻撃の概要

今回確認された攻撃は、Salesloft社のチャットプラットフォーム「Drift」と外部サービス(特にSalesforce)との統合部分を起点としています。Driftは、顧客とのチャット内容やリード情報をSalesforceなどのCRMに自動反映させる機能を持っており、その際にOAuthトークンを用いて認証・認可を行います。

攻撃者は、このDriftが保持していたOAuthアクセストークンを窃取することに成功しました。流出経路の詳細は公表されていませんが、考えられるシナリオとしては以下が指摘されています。

  • Drift内部のシステムやログからトークンが平文で漏洩した可能性
  • トークンの保護・ライフサイクル管理に不備があり、有効期限が長すぎた可能性
  • APIアクセス制御や監視の欠如により、不審な利用が長期間検知されなかった可能性

攻撃期間は2025年8月12日から17日にかけてで、短期間で集中的に行われたとされています。攻撃者は窃取したトークンを使い、Salesforceに正規の認証済みユーザーとしてアクセスし、サポートケース情報や営業関連データなどを参照・抽出したと見られています。

被害は単一の企業にとどまりませんでした。Driftは多数の顧客企業で利用されているため、結果的にCloudflare、Zscaler、Palo Alto Networksといった大手を含む700以上の組織が影響を受けたと報告されています。特にCloudflareは公式ブログで、自社のサポートケース情報が一部閲覧された可能性を認め、即座に対応措置を取ったことを公表しました。

この事件の特徴は、攻撃者がDrift自体を最終標的にしたわけではなく、Driftを踏み台として顧客企業のシステムに侵入した点にあります。つまり、直接攻撃が困難な大企業を狙うのではなく、その周辺のサプライチェーン(サービス提供企業)の弱点を突くことで一気に広範な影響を与える典型的な攻撃パターンです。

技術的なポイント

1. OAuthトークンの仕組みとリスク

OAuth 2.0は、サービス間で安全に認証・認可を行うために広く使われているプロトコルです。ユーザーのパスワードを直接渡す代わりに、アクセストークンという「代理の鍵」を発行し、これを利用してAPIにアクセスします。

しかし、この仕組みには大きな前提があります。「トークンが絶対に漏れない」ということです。アクセストークンは発行後、失効するまで本人になりすまして利用可能であり、流出すれば攻撃者にとって非常に強力な侵入手段となります。

特に、トークンの有効期限が長すぎる場合や、リフレッシュトークンが安全に管理されていない場合、被害はさらに深刻になります

2. 外部サービス統合とサプライチェーンの弱点

今回の事件は、Driftのような外部サービスが保持していたOAuthトークンが突破口となりました。

  • Driftはチャット内容やリード情報をSalesforceに送信するため、Salesforce APIにアクセスする権限を持つトークンを管理していました。
  • つまり、利用企業は自社のSalesforceを守っていても、外部サービス側のセキュリティが甘ければ意味がないという状況が生じてしまいます。
  • このように、自社の境界を超えた場所にある認証情報が侵害されることで被害が波及する点が、サプライチェーン攻撃の典型的な脆弱性です。

3. トークン管理における具体的な問題点

今回のケースで想定される問題は次の通りです。

  • 有効期限が長すぎるトークン:窃取後も長期間利用可能であれば、検知までに甚大な被害が広がる。
  • スコープが広すぎるトークン:不要な権限を持っていれば、侵入後に参照・変更できる範囲が拡大する。
  • 保存方法の不備:ログや設定ファイルに平文で残っていた場合、内部からの流出や外部侵入時に容易に盗まれる。
  • 監視不足:不審なアクセスパターン(例:異常な時間帯や海外からのAPIアクセス)が検知されず、侵入が長期化する。

4. 攻撃の構造的な特徴

攻撃者はDriftのサービス自体を破壊したり改ざんしたりしたわけではありません。代わりに、Driftが持っていたOAuthトークンを利用し、あたかも正規のユーザーやアプリケーションであるかのように外部サービス(Salesforceなど)に侵入しました。

これにより、外部からの攻撃としては目立ちにくく、通常のログイン試行や不正アクセスの兆候を出さずにシステム内部に入り込めたのです。

このような「正規の認証情報を盗んで使う」攻撃は、パスワードやAPIキーの流出と同様に検知が難しいことが特徴です。

5. 今回の事例が示す本質

  • OAuthは利便性の高い認証・認可の仕組みだが、トークン管理の安全性が保証されなければ逆に最大の弱点になる
  • 外部サービスと統合すること自体が「自社の防御範囲外にトークンを置く」ことを意味し、サプライチェーン全体を通じたセキュリティリスク管理が不可欠
  • この構造的な問題は、Driftに限らず多くのSaaSサービス連携に当てはまる。

セキュリティ上の教訓と対策

今回のインシデントは、OAuthトークンの管理不備がどのようにサプライチェーン全体のリスクに直結するかを示しました。重要なのは「トークンを提供する側(外部サービスベンダー)」と「トークンを受領する側(利用企業)」の双方で対策を講じることです。どちらか片方が堅牢でも、もう一方が弱ければ全体として防御は成立しません。

1. OAuthトークンを提供する側(外部サービスベンダー)

外部サービスは、多数の顧客のシステムにアクセスするためのトークンを保持する立場にあり、ここが破られると一気に被害が連鎖するリスクを抱えています。今回のDriftのように「一社の不備が多数の企業へ波及」する構造的な弱点があるため、ベンダー側には特に強固な管理が求められます。

教訓と対策

  • 短寿命トークンの発行と更新
    • 長期間有効なアクセストークンを発行せず、数分〜数時間で期限切れとなる短命トークンを基本とする。
    • 自動更新の仕組みを導入し、顧客側は透過的に新しいトークンを利用できるようにする。
  • スコープの最小化と分離
    • 「読み取り専用」「書き込み限定」など、用途ごとにスコープを細かく分ける。
    • 顧客ごとに独立したトークンを発行し、1つが流出しても他社には波及しない設計にする。
  • 安全な保管と鍵管理
    • トークンを平文でログや設定に残さない。
    • HSM(Hardware Security Module)やSecrets Managerを用い、復号は安全領域でのみ可能にする。
  • 異常利用の監視と自動失効
    • 不自然なアクセスパターン(短時間で大量アクセス、国外からの利用など)を監視。
    • 検知した場合は自動的にトークンを失効し、顧客に即通知する仕組みを標準化する。
  • 透明性の確保
    • インシデントが発生した場合、影響範囲と対応策を迅速かつ正確に公表する。
    • 顧客に「どのトークンが影響を受けたか」「どのデータにアクセスされた可能性があるか」を開示できるログを保持しておく。

2. OAuthトークンを受領する側(顧客企業)

顧客企業は外部サービスとの統合によって利便性を得る一方、自社の認証情報を第三者に預けることになります。この時点で「自社のセキュリティ境界が広がる」ため、依存リスクを踏まえた設計・運用が不可欠です。

教訓と対策

  • 外部サービスのセキュリティ評価
    • ベンダー選定時に、OAuthトークンの取り扱い方針、暗号化方法、監査体制を確認する。
    • SOC 2やISO 27001などの認証取得状況を参考にする。
  • スコープと権限の制御
    • 不要に広いスコープのトークンを許可しない。
    • 「参照だけで十分な統合」であれば書き込み権限を付与しない。
  • 利用環境の制限
    • トークンの利用元を特定のネットワークやIPに限定する。
    • 自社内のアクセス制御(ゼロトラストモデル)と組み合わせ、外部からの不審アクセスを防ぐ。
  • 監視とアラート
    • 外部サービス経由で行われたAPIアクセスを可視化し、不審な挙動があれば即時検知できる仕組みを持つ。
    • Salesforceなど側でも「どのアプリケーションからアクセスが来ているか」を監査する。
  • 侵害前提のリスクマネジメント
    • トークンが漏洩する可能性をゼロにできない前提で設計する。
    • 被害が起きても影響範囲を限定できるように、重要データと外部サービスとの接続を分離する。
    • 定期的にトークンを再発行・棚卸しし、不要な連携は削除する。

まとめ

OAuthトークンはサービス統合の利便性を支える一方で、流出すれば強力な攻撃手段となります。今回の事件は「提供する側」と「受領する側」の双方で適切な管理を怠れば、サプライチェーンを通じて被害が拡大することを示しました。

  • 提供側には「短寿命化・スコープ最小化・強固な保管・監視・透明性」が求められ、
  • 受領側には「ベンダー評価・権限制御・利用制限・監視・リスクマネジメント」が不可欠です。

つまり、セキュリティは一方的な責任ではなく、提供者と利用者の協働によって初めて成り立つという点が最大の教訓といえます。

まとめ

今回の事件は、OAuthトークンという技術要素がいかに便利であると同時に、大きなリスクを抱えているかを改めて示しました。OAuthはWebサービスやSaaSの統合を容易にし、ユーザー体験を向上させる強力な仕組みです。しかし、その利便性の裏には「一度発行されたトークンが漏洩すれば、正規のユーザーになりすまして広範なアクセスを許してしまう」という構造的な脆弱性があります。

今回の侵害は、AIチャットボット自体が攻撃対象だったわけではなく、外部統合に利用されるOAuthトークンが突破口になったという事実に注目すべきです。つまり、個別のサービスだけを堅牢に守っても、サプライチェーンの一部に弱点があれば全体が危険にさらされるという現実を突きつけています。これはSolarWinds事件や他の大規模サプライチェーン攻撃とも共通する教訓です。

では、我々はどう対応すべきか。答えは「完璧な防御」を追い求めるのではなく、多層的に防御を重ね、攻撃の成功確率を下げ、万一突破されても被害を最小化することにあります。提供する側(サービスベンダー)は短寿命トークンや権限スコープの制御、安全な保管と監視を徹底し、受領する側(顧客企業)はベンダー評価や利用制御、リスク前提の運用を組み込む必要があります。

サプライチェーンを通じた攻撃は今後も増えると予想されます。外部サービスとの統合は避けられない以上、「どのように信頼を設計するか」が問われています。OAuthトークン管理のあり方は、その最前線にある課題の一つです。本件を一過性の事故として片付けるのではなく、セキュリティを提供者と利用者の協働によって成り立たせる仕組みを築くきっかけにすべきでしょう。

参考文献

米国の地方自治体がサイバー脅威に直面 ― DHSによるMS-ISAC資金打ち切り問題

近年、ランサムウェアやフィッシングをはじめとするサイバー攻撃は、国家機関や大企業だけでなく、州や郡、市といった地方自治体にまで広がっています。水道や電力といった公共インフラ、選挙システム、教育機関のネットワークなどが攻撃対象となり、その被害は住民の生活や社会全体の安定性に直結します。特に小規模な自治体では、専門人材や十分な予算を確保することが難しく、外部からの支援や共同防衛の仕組みに強く依存してきました。

その中心的な役割を果たしてきたのが、米国土安全保障省(DHS)の支援を受ける「MS-ISAC(Multi-State Information Sharing and Analysis Center)」です。MS-ISACは20年以上にわたり、自治体に対して無償で脅威インテリジェンスやセキュリティツールを提供し、地域間での情報共有を促進してきました。これにより、地方政府は限られたリソースの中でも高度なセキュリティ体制を維持することが可能となっていました。

しかし、2025年9月末をもってDHSはMS-ISACへの資金提供を打ち切る方針を示しており、米国内の約1万9000の自治体や公共機関が重大なセキュリティリスクに直面する可能性が懸念されています。本記事では、この打ち切りの経緯、背景にある政策的判断、そして地方自治体への影響について事実ベースで整理します。

背景:MS-ISACと連邦支援

米国では、サイバーセキュリティ対策を連邦政府だけに委ねるのではなく、州や地方自治体とも連携して取り組む「分散型防衛モデル」が長年採用されてきました。その中心的存在が「MS-ISAC(Multi-State Information Sharing and Analysis Center)」です。

MS-ISACの役割

MS-ISACは2003年にCenter for Internet Security(CIS)によって設立され、州・地方政府、教育機関、公共サービス機関を対象に、次のような機能を提供してきました。

  • 脅威インテリジェンスの共有:新種のマルウェア、ランサムウェア、ゼロデイ脆弱性に関する情報をリアルタイムで配布。
  • セキュリティツールの提供:侵入検知やマルウェア解析、ログ監視などを行うためのツール群を無料で利用可能に。
  • インシデント対応支援:サイバー攻撃が発生した際には専門チームを派遣し、調査・復旧を支援。
  • 教育・訓練:職員向けのセキュリティ教育や模擬演習を実施し、人的リソースの底上げを支援。

この仕組みによって、規模や予算の限られた自治体でも大都市と同等のセキュリティ水準を享受できる環境が整備されてきました。

連邦政府の資金支援

DHSは長年にわたり、MS-ISACの運営を年間数千万ドル規模で支援してきました。特に近年は「State and Local Cybersecurity Grant Program(SLCGP)」を通じて資金を確保し、全米の自治体が追加費用なしでサービスを利用できるようにしていました。

この連邦資金があったからこそ、MS-ISACは約19,000の自治体をカバーし、次のような成果を挙げてきました。

  • 2024年には 約43,000件のサイバー攻撃を検知
  • 59,000件以上のマルウェア/ランサムウェア攻撃を阻止
  • 250億件以上の悪性ドメイン接続をブロック
  • 540万件以上の悪意あるメールを遮断

これらの成果は、地方自治体が個別に対応したのでは到底実現できない規模のものであり、MS-ISACは「地方政府のサイバー防衛の生命線」と位置付けられてきました。

打ち切りの経緯

今回のMS-ISAC資金打ち切りは、単なるプログラム終了ではなく、いくつかの政策判断が重なった結果です。

SLCGPの終了

まず背景として、DHSが2021年に創設した「State and Local Cybersecurity Grant Program(SLCGP)」があります。これは州および地方政府向けにサイバー防衛を支援するための4年間限定プログラムであり、当初から2025会計年度で終了することが予定されていました。したがって「2025年で一区切り」という基本方針自体は計画通りといえます。

MS-ISACへの直接支援の削減

しかし、MS-ISACへの資金提供打ち切りはこの流れの中で新たに示された方針です。DHSは2025年度予算において、従来毎年2,700万ドル規模で計上されていたMS-ISAC向け予算をゼロ化しました。これに伴い、地方自治体がこれまで無料で利用できていた脅威インテリジェンスやセキュリティツールは、連邦政府の支援なしでは維持できなくなります。

補助金の利用制限

さらに、SLCGP最終年度のルールにおいては、補助金をMS-ISACのサービス利用や会費に充てることを禁止する条項が追加されました。これにより、自治体は別の用途でしか助成金を使えず、事実上MS-ISACのサービスから切り離されることになります。これは「連邦依存から地方自立への移行」を明確に打ち出した措置と解釈されています。

政治的背景と予算削減圧力

DHSがこのような決断を下した背景には、連邦政府全体の予算削減圧力があります。国家安全保障や外交、防衛費が優先される中で、地方サイバー防衛への直接支援は「地方自身が担うべき課題」と位置づけられました。加えて、近年の政策方針として「地方分権的な責任移管」を強調する動きが強まっており、今回の打ち切りはその延長線上にあります。

既存の削減の積み重ね

なお、DHSは2025年度予算編成前の2024年度中にも、すでにMS-ISAC関連の資金を約1,000万ドル削減しており、今回の打ち切りはその流れを決定的にしたものといえます。つまり、段階的に支援を縮小する方針が徐々に明確化し、最終的に完全終了に至った格好です。

影響とリスク

MS-ISACへの連邦資金が打ち切られることで、米国内の州・地方自治体は複数の深刻な影響に直面すると予想されています。特に、資金や人材が限られる小規模自治体ではリスクが顕著に高まります。

セキュリティ情報の喪失

これまでMS-ISACは、ランサムウェア、フィッシング、ゼロデイ攻撃といった最新の脅威情報をリアルタイムで提供してきました。これが途絶すれば、自治体ごとに個別の情報源に依存するしかなく、検知の遅れや対応の遅延が発生する恐れがあります。国家規模で統一されていた「早期警戒網」が分断される点は特に大きなリスクです。

小規模自治体への負担増

多くの小規模自治体には、専任のセキュリティ担当者が1人もいない、あるいはIT全般を数名で兼任しているという実態があります。これまではMS-ISACが無償で高度なツールや監視サービスを提供していたため最低限の防衛線を維持できていましたが、今後は独自調達や有料会員制サービスへの加入が必要になります。そのコスト負担は自治体財政にとって無視できないものとなり、セキュリティ対策自体を縮小せざるを得ない可能性もあります。

公共サービスの停止リスク

近年、ランサムウェア攻撃によって市役所や警察署のシステムが停止し、住民サービスや緊急対応に大きな影響が出た事例が複数報告されています。MS-ISACの支援がなくなることで、こうした住民生活に直結するリスクが増大するのは避けられません。特に上下水道や交通、医療などのインフラ部門は狙われやすく、対策の手薄な自治体が攻撃の標的になる可能性があります。

選挙セキュリティへの影響

MS-ISACは、選挙関連インフラを守るEI-ISAC(Elections Infrastructure ISAC)とも連携しており、選挙システムの監視・防御にも寄与してきました。資金打ち切りにより支援体制が縮小すれば、選挙の公正性や信頼性が脅かされるリスクも指摘されています。大統領選を控える時期であることから、この点は特に懸念材料となっています。

サイバー犯罪組織や外国勢力への好機

連邦資金の打ち切りによって自治体の防御が弱体化すれば、それは攻撃者にとって「格好の標的」となります。特に、米国の地方自治体は医療・教育・選挙といった重要データを保持しているため、国家支援型ハッカーや犯罪グループの攻撃が集中するリスクが高まります。

有料モデル移行による格差拡大

MS-ISACを運営するCISは、10月以降に有料会員制へ移行する方針を発表しています。大規模な州政府や予算の潤沢な都市は加入できても、小規模自治体が参加を断念する可能性が高く、結果として「守られる自治体」と「脆弱なままの自治体」の二極化が進む懸念があります。

州・自治体からの反発

MS-ISACへの資金打ち切り方針が明らかになると、全米の州政府や地方自治体から強い反発の声が上がりました。彼らにとってMS-ISACは単なる情報共有の枠組みではなく、「自前では賄えないセキュリティを補う生命線」として機能してきたからです。

全国的な要請活動

  • 全国郡協会(NACo)は、議会に対して「MS-ISAC資金を回復させるべきだ」と訴える公式書簡を提出しました。NACoは全米3,000以上の郡を代表しており、その影響力は大きいとされています。
  • 全米市長会議国際都市連盟(ICMA)州CIO協会(NASCIO)といった主要団体も連名で議会に働きかけを行い、超党派での対応を求めました。これらの団体は「自治体は国の重要インフラを担っており、セキュリティ支援は連邦の責任だ」と強調しています。

具体的な懸念の表明

各団体の声明では、次のような懸念が繰り返し指摘されました。

  • 小規模自治体は有料モデルに移行できず、「守られる地域」と「取り残される地域」の格差が拡大する
  • 脅威情報の流通が途絶すれば、攻撃の検知が遅れ、被害が拡大する
  • 選挙インフラへの支援が弱まれば、民主主義の根幹が揺らぐ危険がある。

議会への圧力

議会に対しては、資金復活のための補正予算措置新たな恒常的サイバー防衛プログラムの創設が求められています。実際に複数の議員がこの問題を取り上げ、DHSに説明を求める動きも見られます。地方政府にとっては、単に予算の問題ではなく「連邦と地方の信頼関係」を左右する問題として位置づけられているのです。

「地方切り捨て」への不満

また、多くの自治体首長は今回の措置を「地方切り捨て」と受け止めています。特に、ランサムウェア被害が急増している現状での支援打ち切りは矛盾しており、「最も防御が必要なタイミングで支援を外すのは無責任だ」という強い批判も相次いでいます。

まとめ

今回のDHSによるMS-ISAC資金打ち切りは、米国の地方自治体にとって深刻な課題を突き付けています。これまで無償で利用できていたセキュリティサービスや脅威情報の共有が途絶すれば、多くの自治体は自前で防衛コストを負担しなければなりません。小規模な自治体ほど財政や人材が限られており、公共サービスや選挙インフラなど生活に直結する分野が脆弱化するリスクは避けられません。

この問題が示す教訓の一つは、外部からの物や資金の支援に過度に依存することの危うさです。短期的には効果的で目に見える成果を生みますが、支援が途絶した途端に自力で維持できなくなり、逆にリスクが拡大する可能性があります。したがって、支援は「即効性のある資金・物資」と「自立を可能にするノウハウ・運用力」の両面で行うべきであり、地方自治体もこの二本柱を念頭に置いた体制づくりを進める必要があります。

もう一つの重要な課題は、財政の見直しによる資金捻出です。セキュリティは「後回しにできる投資」ではなく、住民サービスやインフラと同等に優先すべき基盤的な支出です。したがって、既存予算の中で優先順位を見直し、余剰支出を削減する、共同調達でコストを下げる、州単位で基金を設立するといった方策が求められます。財政的に厳しい小規模自治体にとっては、単独での負担が難しい場合もあるため、州や近隣自治体と連携して費用を分担する仕組みも検討すべきです。

最終的に、この問題は単に「連邦政府が支援を打ち切った」という一点にとどまらず、地方自治体がいかにして自らの力で持続可能なセキュリティ体制を構築できるかという課題に帰結します。資金、ノウハウ、人材育成の三要素を組み合わせ、外部支援が途絶えても機能し続ける仕組みを築けるかどうかが、今後のサイバー防衛の成否を左右するでしょう。

参考文献

Paragon SolutionsのGraphiteスパイウェアとは何か ― ゼロクリック攻撃でジャーナリストや活動家を狙う仕組みと影響

2025年、国際社会を揺るがす重大なサイバーセキュリティ事件が報じられました。イスラエルの民間企業 Paragon Solutions が開発したスパイウェア「Graphite」が、Meta(WhatsApp)やAppleのゼロクリック脆弱性を突いて、ジャーナリストや人権活動家を標的にしていたのです。Metaは標的となった90名以上のユーザーに通知し、Paragonに活動停止命令を送付。Citizen Labなどの研究機関も独自調査を行い、Graphiteの実際の感染事例を確認しました。

この事件の衝撃は、単に「脆弱性を悪用したサイバー攻撃」にとどまりません。問題の核心は、民間企業が提供する政府向けスパイウェアが、民主社会の根幹を支えるジャーナリストや市民社会の担い手を狙うために用いられた可能性があるという点にあります。これは、報道の自由、言論の自由、人権保護といった価値に直結する深刻な問題です。

さらに、この事件は過去の Pegasus問題 とも重なります。Pegasusはすでに世界中で政府機関による乱用が確認され、欧州議会でも規制の必要性が議論されてきました。Graphiteはそれに続く「第二のPegasus」とも言える存在であり、国際社会に新たな警鐘を鳴らしています。

こうした背景を踏まえると、Graphite事件は「技術の進歩」と「自由社会の持続可能性」という二つの課題が正面から衝突した事例といえるでしょう。本記事では、この事件の経緯や技術的仕組み、各国の反応を整理し、今後の課題を考察していきます。

Paragon SolutionsとGraphite

Paragon Solutions は2019年に設立されたイスラエルの民間サイバー企業で、その創業者には元イスラエル首相 エフード・バラク氏 など、政界・軍事分野で豊富な経験を持つ人物が関わっています。設立当初から「政府向けの監視ツール開発」を主な事業として掲げており、その存在は国際的な監視・諜報分野で早くから注目されてきました。

同社の代表的な製品である「Graphite」は、いわゆる「商用スパイウェア(mercenary spyware)」に分類されます。つまり、一般犯罪者が闇市場で流通させるマルウェアとは異なり、政府や治安機関を顧客として正規の商取引の形で提供される監視ツールです。そのため開発当初から「国家安全保障」を名目とした利用が前提とされてきましたが、実際には市民社会や報道関係者に対して利用されるケースが疑われ、国際的に大きな議論を呼んでいます。

Graphiteの特徴は以下の点にまとめられます。

  • 通信傍受に特化 Pegasus(NSO Group製)が端末全体の制御やマイク・カメラの操作など包括的な監視を可能にするのに対し、Graphiteは WhatsAppやSignalなどメッセージングアプリの通信傍受に特化。即時的な情報収集を重視した設計と考えられます。
  • ゼロクリック攻撃に対応 メッセージを開いたりファイルをクリックしたりする必要がなく、脆弱性を突いて自動感染する「ゼロクリック」手法を活用。標的に気づかれにくく、フォレンジック分析でも発見が難しいという厄介さを持ちます。
  • 国家レベルの利用を想定 Graphiteは「法執行機関向け」と説明されてきましたが、販売先や利用状況は不透明です。Citizen Labの調査では、複数の国の政府機関や警察が利用している可能性が指摘されています。

こうした性質から、Graphiteは 「Pegasusに続く第二世代の政府向けスパイウェア」 とも呼ばれます。Pegasusが世界中で乱用され国際問題化したことを受けて、Paragonは「より限定的で正当性のある利用」を強調してきました。しかし、今回の事件で明らかになったのは、Graphiteもまたジャーナリストや活動家といった市民社会の担い手を狙うために用いられた可能性があるという厳しい現実です。

Graphiteは、単なる「監視ツール」ではなく、国家と市民社会の関係を根底から揺るがす存在であることが、今回の事件を通じて示されたといえるでしょう。

WhatsAppを通じた攻撃とMetaの対応

2025年1月、Meta(旧Facebook)はWhatsAppに関する重大な発表を行いました。調査の結果、Paragon Solutionsが開発したGraphiteスパイウェアがWhatsAppの脆弱性を突いて、少なくとも90名以上のユーザーを標的にしていたことが判明したのです。標的となった人物の中には、ジャーナリストや人権活動家といった市民社会の重要な担い手が含まれていました。

今回悪用されたのは CVE-2025-55177 として登録されたWhatsAppの脆弱性で、特定のURLを不正に処理させることで、ユーザー操作なしにコードを実行できるものでした。特に深刻だったのは、この攻撃が「ゼロクリック攻撃」として成立する点です。標的のユーザーはメッセージを開く必要すらなく、裏側で端末が侵害されるため、攻撃に気づくことはほぼ不可能でした。

Metaは事態を受けて次のような対応を取りました。

  • 対象者への通知 被害を受けた可能性のあるアカウント所有者に対して、セキュリティ上の警告を直接通知しました。Metaはこれを「特定の国家レベルの攻撃者による高度な標的型攻撃」と表現しており、攻撃の性質が一般的なサイバー犯罪ではなく、政治的意図を持つものであることを示唆しています。
  • 法的対応と停止命令 MetaはParagon Solutionsに対して、攻撃行為の即時停止を求める「Cease-and-Desist(停止命令)」を送付しました。これは過去にPegasus(NSO Group)を相手取った訴訟と同様、政府系スパイウェアに対して法的手段を用いた再発防止策の一環です。
  • 研究機関・当局との協力 MetaはCitizen Labをはじめとする研究機関や各国当局と情報を共有し、感染端末の調査や技術的分析を進めています。この連携により、Graphiteの実際の動作や感染経路の特定が進み、事実の裏付けが強化されました。

また、Metaがこの件で特に強調したのは「民間企業が提供するスパイウェアが、報道や市民社会を脅かす手段として利用されている」という点です。Metaは2019年にもNSO GroupのPegasusがWhatsAppを通じて乱用されたことを明らかにし、その後、訴訟に踏み切りました。その経緯を踏まえると、今回のParagonに対する対応は、Pegasus事件に続く「第二の戦い」と位置づけることができます。

Pegasusの時と同じく、Metaは 「プラットフォーム提供者として自社のサービスを監視ツールに利用させない」という強い立場 を打ち出しました。つまり、今回の停止命令や法的措置は、単なる被害対応ではなく、「市民社会を守るために大手テクノロジー企業が政府系スパイウェアに正面から対抗する」という広い意味を持っています。

このように、WhatsAppを通じた攻撃の発覚とMetaの対応は、Graphite事件を単なる技術的脆弱性の問題ではなく、国際的な人権・民主主義の問題として浮上させる契機となったのです。

Citizen Labによる調査と実被害

カナダ・トロント大学の研究機関 Citizen Lab は、今回のGraphiteスパイウェア事件の真相解明において中心的役割を果たしました。同研究所はこれまでも、NSO GroupのPegasusやCandiruといった政府系スパイウェアの乱用を世界に先駆けて明らかにしてきた実績があり、今回のGraphite調査でもその専門性が遺憾なく発揮されました。

調査の経緯

MetaがWhatsAppのゼロクリック攻撃を検知し、標的となったユーザーに通知を送った後、Citizen Labは複数の被害者から協力を得て端末を精査しました。特にジャーナリストや人権活動家の協力により、感染が疑われるスマートフォンを直接調べることが可能となり、フォレンジック分析によってGraphiteの痕跡が確認されました。

技術的分析手法

Citizen Labは、以下のような手法で感染を確認しています。

  • ログ解析:iOS端末のシステムログを詳細に調査し、不自然なクラッシュ記録や不正アクセスの痕跡を発見。
  • 通信パターン調査:特定のC2(Command & Control)サーバーへの暗号化通信を確認。Graphite特有の挙動と一致する部分があった。
  • メモリフォレンジック:不審なプロセスの残存データを抽出し、Graphiteの攻撃コード片を特定。

これらの検証により、少なくとも3名の著名ジャーナリストが実際にGraphiteによる感染を受けていたことが立証されました。感染経路としては、AppleのiMessageに存在していた CVE-2025-43300 のゼロクリック脆弱性が利用されており、悪意ある画像ファイルを受信しただけで端末が侵害されるという深刻な手口が確認されています。

確認された実被害

Citizen Labが確認した標的の中には、ヨーロッパを拠点に活動するジャーナリストや市民社会関係者が含まれていました。これらの人物は政府の汚職、移民政策、人権侵害などを追及しており、監視の対象として選ばれた背景には 政治的動機 がある可能性が高いと見られています。

また、感染した端末では、メッセージアプリ内のやりとりが外部に送信されていた痕跡が発見されており、取材源や内部告発者の匿名性が危険に晒されていたことが推測されます。これは報道活動における基盤を揺るがす重大な侵害であり、ジャーナリズムに対する直接的な脅威となりました。

国際的な意味合い

Citizen Labの報告は、Graphiteが単なる「理論上のリスク」ではなく、実際に政府関係者やその委託先によって利用され、市民社会に被害を与えていることを初めて裏付けました。この発見は、各国政府や国際機関に対して、スパイウェア規制の必要性を強く訴える根拠となっています。

特に欧州連合(EU)はすでにPegasus問題を契機に議会での調査を進めており、Graphiteの存在はその議論をさらに加速させる要因となっています。

技術的仕組み ― ゼロクリック攻撃とは何か

今回のGraphite事件で最も注目を集めたのが「ゼロクリック攻撃」です。従来のマルウェア感染は、ユーザーが怪しいリンクをクリックしたり、添付ファイルを開いたりすることで成立するのが一般的でした。しかしゼロクリック攻撃はその名の通り、ユーザーの操作を一切必要とせずに感染が成立する点に特徴があります。

攻撃の基本的な流れ

Graphiteが利用したゼロクリック攻撃の流れを整理すると、以下のようになります。

  • 脆弱性の選択と悪用
    • WhatsAppのURL処理バグ(CVE-2025-55177)
    • AppleのImageIOライブラリにおける画像処理のメモリ破損バグ(CVE-2025-43300) 攻撃者はこれらのゼロデイ脆弱性を組み合わせ、ユーザーが特定の操作を行わなくてもコードを実行できる環境を作り出しました。
  • 悪意あるデータの送信
    • 標的ユーザーに対して、WhatsApp経由で不正な形式のデータや画像を送信。
    • 受信した時点で脆弱性がトリガーされ、任意のコードが実行される。
  • スパイウェアの導入
    • 攻撃コードは端末のメモリ上でスパイウェアの初期モジュールを展開。
    • そこからC2(Command & Control)サーバーと通信し、フル機能のGraphite本体をロード。
  • 持続性の確保とデータ収集
    • 感染後はバックグラウンドで動作し、WhatsAppやSignalなどのメッセージアプリに保存される通信を傍受。
    • ログやスクリーンショット、連絡先データなどを取得し、外部サーバーに送信。
    • 一部の亜種は再起動後も動作するため、長期的監視が可能。

防御が困難な理由

ゼロクリック攻撃が恐ろしいのは、ユーザーの意識や行動では防ぎようがないという点です。

  • 「怪しいリンクを踏まない」「不審な添付を開かない」といった従来のセキュリティ教育が通用しない。
  • 感染時の挙動が非常に目立たず、端末利用者が違和感を覚えることもほとんどない。
  • 攻撃に利用されるのはゼロデイ脆弱性(未修正の欠陥)であることが多く、セキュリティアップデートが出るまで防御は難しい。

過去事例との比較

Pegasus(NSO Group製)でも、iMessageを経由したゼロクリック攻撃が確認されており、世界各国で数千台規模の端末が侵害されました。Graphiteの手口はこれと類似していますが、Pegasusが「端末全体の制御」を目的としていたのに対し、Graphiteは「特定アプリの通信傍受」に重点を置いている点が特徴的です。つまり、Graphiteは 標的型の監視任務に最適化されたツール といえます。

今回の技術的教訓

Graphite事件から得られる最大の教訓は、ゼロクリック攻撃は高度な国家レベルの攻撃者にとって最も強力な武器になり得るということです。攻撃を防ぐためには、ユーザー側の注意ではなく、プラットフォーム提供者(AppleやMeta)が継続的に脆弱性を発見・修正し、迅速にセキュリティパッチを配布する体制が不可欠です。

イタリアでの波紋

Graphite事件の影響は特にイタリアで大きな波紋を呼びました。Citizen LabやMetaの調査により、イタリア在住のジャーナリストや移民支援活動家が標的になっていたことが明らかになったためです。これは「国家安全保障」という名目の監視活動が、国内の言論・市民活動にまで及んでいるのではないかという懸念を強める結果となりました。

標的となった人物

具体的には、オンラインメディア Fanpage.it の記者 Ciro Pellegrino 氏 が感染の可能性を指摘されました。彼は南イタリアにおけるマフィアや汚職問題を追及しており、しばしば権力層の不正を暴く記事を執筆してきた人物です。同僚の記者や編集部関係者もまた標的になったと見られており、報道機関全体に対する威嚇の意図があった可能性が考えられます。

さらに、人道支援活動家や移民救助活動に関わる人物も標的に含まれていました。中でも、移民支援団体の創設者や、地中海での難民救助活動を続ける活動家たちが攻撃対象になったことは、移民政策や人権問題に関わる批判的言説を封じ込める狙いがあったのではないかという強い疑念を生みました。

政府の対応と説明

この事態を受け、イタリア議会の監視機関 COPASIR(Parliamentary Committee for the Security of the Republic) が調査を開始しました。COPASIRの報告によると、イタリア政府はParagon Solutionsと契約を結び、Graphiteの利用を国家安全保障目的で行っていたとされています。政府側は「合法的な監視であり、不正利用ではない」と説明しましたが、ジャーナリストや活動家が標的に含まれていた事実との矛盾が指摘されています。

国際的な批判が高まる中で、イタリア政府は最終的に Paragon Solutionsとの契約を終了 しました。ただし、その判断が「問題発覚を受けた政治的判断」なのか、「監視活動がすでに目的を終えたからなのか」は明確にされておらず、透明性は依然として欠けています。

活動家による国際的訴え

さらに注目されたのは、スーダン出身でイタリア在住の人権活動家 David Yambio 氏 が、自身のスマートフォンがGraphiteに感染したとされる件を 国際刑事裁判所(ICC) に正式に通報したことです。彼はリビアで拷問や人権侵害を受けた難民の証言を収集・共有する活動を行っており、その過程で監視を受けていたことが確認されました。この出来事は「人道問題の記録そのものが国家レベルの監視対象になる」という危険性を象徴する事例となりました。

政治的背景と社会的影響

イタリアでは近年、移民政策や治安維持をめぐる政治的対立が激化しており、特に右派政党は「治安維持」「不法移民対策」を掲げて強硬な政策を打ち出してきました。そのような中で、政府がGraphiteのような強力な監視ツールを利用していた事実は、「治安対策」の名の下に言論や市民社会を監視・抑圧する危険性を浮き彫りにしています。

この問題はイタリア国内だけにとどまらず、欧州全体に波及しました。EUはPegasus事件に続き、Graphite事件も「報道の自由と市民社会に対する脅威」として議会で取り上げ、規制の必要性を検討する流れを強めています。

国際的影響と人権団体の反応

Graphite事件は、イタリア国内にとどまらず、国際的にも大きな波紋を広げました。民間企業が開発したスパイウェアが複数の国で市民社会の担い手を標的にしたという事実は、民主主義社会の根幹を揺るがす問題として広く認識されたのです。

EUにおける動き

欧州連合(EU)はすでにPegasus問題を契機に「スパイウェア規制」に向けた議論を進めていましたが、今回のGraphite事件によって議論はさらに加速しました。欧州議会の一部議員は、

  • EU加盟国における政府系スパイウェア利用の透明化
  • 独立機関による監査体制の強化
  • ジャーナリストや人権活動家に対する監視を禁止する明文規定 を盛り込んだ規制立法を提案しています。

欧州議会の人権委員会は声明の中で「報道や市民社会の自由が監視によって萎縮することは、民主主義そのものに対する挑戦である」と警告しました。

米国の対応

アメリカでもGraphiteは注目されています。既にバイデン政権下ではPegasusなどのスパイウェアを利用する外国企業を制裁対象に加える動きが進められており、Paragon Solutionsについても同様の措置を検討する声が上がっています。米議会の一部議員は、「米国政府機関がParagon製品を調達していたのではないか」という疑念についても調査を求めており、今後の外交問題化が懸念されています。

国連や国際機関の視点

国連の特別報告者(表現の自由担当)は、Graphite事件に関連して「ジャーナリストや人権擁護者に対する監視の常態化は国際人権規約に抵触する可能性がある」と指摘しました。また、国際刑事裁判所(ICC)には、イタリア在住の活動家 David Yambio 氏が監視被害を正式に通報したことで、スパイウェア利用が国際刑事事件として審議対象となる可能性が浮上しています。

人権団体の反応

市民社会団体や人権NGOも強い懸念を表明しました。

  • Access Now は、「Paragon Solutionsは透明性を欠いたまま被害者を増やしており、即刻説明責任を果たすべきだ」とする声明を発表。
  • Reporters Without Borders(国境なき記者団) は、「報道機関やジャーナリストを狙う行為は報道の自由を踏みにじるもの」として、国際的な制裁を求めました。
  • Amnesty International もまた、Pegasusに続く事例としてGraphiteを「人権侵害の象徴」と位置づけ、スパイウェア規制を強く訴えています。

社会的インパクト

こうした国際的反応の背景には、「市民社会の自由と安全が脅かされれば、民主主義国家の信頼性そのものが揺らぐ」という危機感があります。単なるサイバーセキュリティの問題ではなく、政治・外交・人権の交差点に位置する問題として、Graphiteは今後も各国の政策議論を左右し続けるでしょう。

教訓と今後の課題

Graphite事件から私たちが学ぶべき教訓は多岐にわたります。この問題は単なるセキュリティインシデントではなく、技術・政策・社会の三領域が交錯する課題として理解する必要があります。

技術的な教訓

  • ゼロクリック攻撃の深刻さ Graphiteの事例は、ユーザーの行動を介さずに感染するゼロクリック攻撃の脅威を改めて浮き彫りにしました。従来の「怪しいリンクを開かない」といったセキュリティ教育は無効化され、脆弱性そのものをいかに早期発見・修正するかが焦点となっています。
  • プラットフォーム提供者の責任 今回の対応では、MetaやAppleが迅速に脆弱性修正やユーザー通知を行ったことが被害拡大の防止につながりました。今後も大手プラットフォーム事業者には、脆弱性ハンティング、バグバウンティ制度、迅速なアップデート配布といった取り組みをさらに強化することが求められます。
  • フォレンジック技術の重要性 Citizen Labの分析がなければ、Graphiteの存在は「疑惑」にとどまっていた可能性があります。感染の痕跡を特定し被害を立証する デジタルフォレンジック技術 の発展は、今後もスパイウェア対策の要となるでしょう。

政策的な課題

  • スパイウェア市場の規制 GraphiteやPegasusのような製品は「政府専用」として販売されていますが、実態は市民社会に対する乱用も確認されています。武器貿易と同様に、輸出規制・使用制限・顧客の透明化といった国際的なルール作りが不可欠です。
  • 国際的な枠組み作り EUはすでにスパイウェア規制の立法を検討しており、米国も制裁措置を通じて規制の圧力を強めています。これに加えて、国連レベルでの国際条約や監視機関の設立が議論されるべき段階に来ています。
  • 民主社会での均衡 政府は治安維持やテロ対策を理由に監視技術を導入しますが、それが市民社会を過度に萎縮させれば逆効果となります。安全保障と人権の均衡を取る制度設計こそ、今後の課題です。

社会的な教訓

  • ジャーナリズムと市民社会の保護 Graphite事件の標的となったのは、政府の不正や人権侵害を監視するジャーナリストや活動家でした。これは「権力を監視する存在」が逆に監視されるという逆転現象を意味します。社会としては、彼らを守る仕組み(暗号化通信、法的保護、国際的な支援ネットワーク)がより重要になっています。
  • 一般市民への波及 今回の標的は限定的でしたが、技術的には一般市民を監視対象にすることも可能です。監視の矛先が「一部の活動家」から「市民全体」に拡大するリスクを踏まえ、社会全体が問題意識を持つ必要があります。
  • 透明性と説明責任 イタリア政府がParagonとの契約を終了したものの、その理由や経緯は曖昧なままです。市民が安心できるのは、透明性を伴った説明責任が果たされてこそです。

まとめ

Graphite事件は、技術の高度化が民主主義社会にどのようなリスクをもたらすかを示す象徴的な事例です。ゼロクリック攻撃の存在は「セキュリティはユーザー教育だけでは守れない」ことを示し、民間スパイウェアの乱用は「政府権力が市民社会を抑圧し得る」ことを浮き彫りにしました。

今後の課題は、テクノロジー企業・政府・国際機関・市民社会が連携して、透明性のある規制と安全保障のバランスを確立することに尽きるでしょう。

おわりに

Paragon SolutionsのGraphiteスパイウェア事件は、単なる一企業の問題や一国のセキュリティ事案にとどまらず、テクノロジーと民主主義の衝突を象徴する出来事となりました。

本記事で整理したように、GraphiteはWhatsAppやiMessageといった日常的に利用されるプラットフォームのゼロクリック脆弱性を悪用し、ジャーナリストや人権活動家を標的にしました。これによって、「監視する側」と「監視される側」の境界線が国家と市民社会の間で曖昧になりつつある現実が浮き彫りになりました。

この事件から得られる教訓は複数あります。技術的には、ゼロクリック攻撃がもはや理論的な脅威ではなく、実運用される段階に到達していること。政策的には、民間スパイウェア市場が国際的な規制なしに拡大すれば、権力濫用の温床となり得ること。社会的には、ジャーナリストや市民活動家が監視対象になることで、報道の自由や人権活動そのものが委縮しかねないという現実です。

歴史を振り返れば、権力が情報を独占し、反対勢力を監視・抑圧することは繰り返されてきました。しかし、現代におけるGraphiteやPegasusのようなツールは、かつての諜報手段をはるかに凌駕する精度と匿名性を備えています。その意味で、この事件は「デジタル時代の監視国家化」が現実の脅威であることを改めて示したと言えるでしょう。

では、私たちはどう向き合うべきか。

  • テクノロジー企業は脆弱性の早期修正とユーザー通知を徹底すること。
  • 政府は安全保障と人権のバランスを保ち、透明性ある説明責任を果たすこと。
  • 国際社会は輸出規制や利用制限といった制度的な枠組みを強化すること。
  • そして市民は、この問題を「遠い世界の話」ではなく、自分たちの自由と安全に直結する課題として認識すること。

Graphite事件はまだ終わっていません。むしろこれは、今後のスパイウェア規制やデジタル人権保護に向けた長い闘いの序章に過ぎないのです。

民主主義の健全性を守るためには、技術に対する批判的視点と制度的制御、そして市民社会の不断の監視が不可欠です。Graphiteの名前が示す「鉛筆(graphite)」のように、権力を記録し可視化するのは本来ジャーナリストや市民社会の役割であるはずです。その彼らが標的にされたことは、私たちすべてに対する警告であり、これをどう受け止め行動するかが未来を左右するでしょう。

参考文献

なぜ今、企業はサイバー防衛の“新たな戦略書”を必要とするのか

サイバー攻撃の脅威は、今や企業の大小や業種を問わず、全ての組織にとって日常的なリスクとなっています。近年では、従来型のマルウェアやフィッシング攻撃だけでなく、AIを悪用した自動化された攻撃や、ディープフェイクを駆使した巧妙なソーシャルエンジニアリングなど、新しいタイプの脅威が次々と登場しています。こうした変化のスピードは極めて速く、セキュリティチームが追従するだけでも膨大なリソースを必要とします。

一方で、サイバーセキュリティを担う専門家の数は依然として不足しており、過重労働や精神的な疲弊による人材流出が深刻化しています。防御側の疲弊と攻撃側の技術進化が重なることで、企業のリスクは指数関数的に拡大しているのが現状です。

さらに、地政学的な緊張もサイバー領域に直接的な影響を与えています。台湾や中国をめぐる国際的な摩擦は、米国や日本を含む同盟国の重要インフラを狙った国家レベルのサイバー攻撃のリスクを高めており、経済安全保障と情報防衛は切り離せない課題になりました。

こうした背景のもとで、単なる防御的なセキュリティ対策ではもはや十分ではありません。企業には、攻撃の予兆を先読みし、組織横断的に対応できる「サイバー防衛の新たなプレイブック(戦略書)」が必要とされています。この記事では、その必要性を多角的に整理し、AI時代のセキュリティ戦略を展望します。

プレイブックとは何か:単なるマニュアルではない「戦略書」

「プレイブック(Playbook)」という言葉は、もともとアメリカンフットボールで使われる用語に由来します。試合の中でどの場面でどんな戦術を取るのかをまとめた作戦集であり、チーム全員が同じ前提を共有して素早く動くための「共通言語」として機能します。サイバーセキュリティにおけるプレイブックも、まさに同じ考え方に基づいています。

従来の「マニュアル」との違いは、単なる手順書ではなく、状況に応じて取るべき戦略を体系化した“生きた文書” である点です。インシデント対応の初動から、経営層への報告、外部機関との連携に至るまで、組織全体が統一した行動を取れるように設計されています。

例えば、次のような要素がプレイブックに含まれます:

  • インシデント対応フロー:攻撃を検知した際の初動手順とエスカレーション経路
  • 役割と責任:CISO・CSIRT・現場担当者・経営層がそれぞれ何をすべきか
  • シナリオごとの行動計画:ランサムウェア感染、DDoS攻撃、情報漏洩など事象ごとの対応策
  • 外部連携プロセス:警察庁・NISC・セキュリティベンダー・クラウド事業者への通報や協力体制
  • 改善と更新の仕組み:演習や実際のインシデントから得られた教訓を取り込み、定期的に改訂するプロセス

つまりプレイブックは、セキュリティ担当者だけでなく経営層や非技術部門も含めた 「組織全体の防御を可能にする戦略書」 なのです。

この概念を理解した上で、次の章から解説する「人材の疲弊」「AIの脅威」「攻撃的防御」「法制度との連携」といった要素が、なぜプレイブックに盛り込まれるべきなのかがより鮮明に見えてくるでしょう。

専門人材の疲弊と組織の脆弱性

サイバー攻撃は休むことなく進化を続けていますが、それを防ぐ人材は限られています。セキュリティ専門家は24時間体制で膨大なアラートに対処し、重大インシデントが起きれば夜間や休日を問わず呼び出されるのが日常です。その結果、多くの担当者が慢性的な疲労や精神的プレッシャーに晒され、離職や燃え尽き症候群(バーンアウト)に直面しています。調査によれば、世界のセキュリティ人材の半数近くが「過重労働が理由で職務継続に不安を感じる」と答えており、人材不足は年々深刻さを増しています。

人員が減れば監視や対応の網は目に見えて粗くなり、わずかな攻撃兆候を見落とすリスクが高まります。さらに、残された人材に業務が集中することで、「疲弊による判断力の低下 → インシデント対応力の低下 → 攻撃の成功率が上がる」 という悪循環に陥りやすくなります。つまり、人材疲弊は単なる労働環境の問題ではなく、組織全体の防御能力を根本から揺るがす要因なのです。

このような背景こそが、新しいサイバーディフェンス・プレイブック(戦略書)が必要とされる最大の理由です。

プレイブックは、属人的な判断に依存しない「組織としての共通ルールと手順」を明文化し、誰が対応しても一定水準の防御が実現できる基盤を提供します。たとえば、インシデント対応のフローを明確化し、AIツールを活用した検知と自動化を組み込めば、疲弊した担当者が一人で判断を抱え込む必要はなくなります。また、教育・トレーニングの一環としてプレイブックを活用することで、新任メンバーや非専門職も一定の対応力を持てるようになり、人材不足を補完できます。

言い換えれば、専門人材の疲弊を前提にせざるを得ない現実の中で、「持続可能なサイバー防衛」を実現する唯一の道がプレイブックの整備なのです。

ジェネレーティブAIがもたらす攻撃の加速と高度化

近年のサイバー攻撃において、ジェネレーティブAIの悪用は最大の脅威のひとつとなっています。これまで攻撃者は高度なプログラミングスキルや豊富な知識を必要としましたが、今ではAIを使うことで初心者でも高精度なマルウェアやフィッシングメールを自動生成できる時代に突入しました。実際、AIを利用した攻撃は 「規模」「速度」「巧妙さ」 のすべてにおいて従来の攻撃を凌駕しつつあります。

たとえば、従来のフィッシングメールは誤字脱字や不自然な文面で見抜かれることが少なくありませんでした。しかし、ジェネレーティブAIを使えば自然な言語で、ターゲットに合わせたカスタマイズも可能です。あるいはディープフェイク技術を用いて経営者や上司の声・映像をリアルに模倣し、従業員をだまして送金や情報開示を迫るといった「ビジネスメール詐欺(BEC)」の新形態も現れています。こうした攻撃は人間の直感だけでは判別が難しくなりつつあります。

さらに懸念されるのは、AIによる攻撃が防御側のキャパシティを圧倒する点です。AIは数秒で数千通のメールやスクリプトを生成し、短時間で広範囲を攻撃対象にできます。これに対抗するには、防御側もAIを駆使しなければ「いたちごっこ」にすらならない状況に追い込まれかねません。

このような状況では、従来のセキュリティ手順だけでは不十分です。ここで重要になるのが 「AI時代に対応したプレイブック」 です。AIによる攻撃を前提にした戦略書には、以下のような要素が不可欠です:

  • AI生成コンテンツ検知の手順化 不自然な通信パターンや生成文章の特徴を検知するルールを明文化し、人材が入れ替わっても継続的に運用できる体制を整える。
  • AIを利用した自動防御の導入 膨大な攻撃を人手で対応するのは不可能なため、AIを使ったフィルタリングや行動分析をプレイブックに組み込み、迅速な一次対応を可能にする。
  • 誤情報やディープフェイクへの対抗策 経営層や従業員が「なりすまし」に騙されないための検証手順(多要素認証や二重承認プロセスなど)を標準フローとして明記する。
  • シナリオ演習(Tabletop Exercise)の実施 AIが生成する未知の攻撃シナリオを定期的にシミュレーションし、組織としての判断・対応を訓練しておく。

つまり、ジェネレーティブAIが攻撃の裾野を広げることで、防御側は「経験豊富な人材の判断」だけに頼るのではなく、誰でも即座に行動できる共通の防衛フレームワークを持つ必要があります。その中核を担うのが、AI脅威を明示的に想定した新しいプレイブックなのです。

「攻撃する防御」の重要性:オフェンシブ・セキュリティへの転換

従来のサイバー防衛は「侵入を防ぐ」「被害を最小化する」といった受動的な発想が中心でした。しかし、AIによって攻撃の速度と巧妙さが増している現在、単に「守るだけ」では対応が追いつきません。むしろ、企業自身が攻撃者の視点を積極的に取り入れ、脆弱性を事前に洗い出して修正する オフェンシブ・セキュリティ(攻撃的防御) への転換が求められています。

その代表的な手法が レッドチーム演習ペネトレーションテスト です。レッドチームは実際の攻撃者になりきってシステムに侵入を試み、想定外の抜け穴や人間の行動パターンに潜むリスクを発見します。これにより、防御側(ブルーチーム)は「実際に攻撃が起きたらどうなるのか」を疑似体験でき、理論上の安全性ではなく実践的な防御力を鍛えることができます。

また、近年は「バグバウンティプログラム」のように、外部の研究者やホワイトハッカーに脆弱性を発見してもらう取り組みも拡大しています。これにより、企業内部だけでは気づけない多様な攻撃手法を検証できる点が強みです。

ここで重要になるのが、オフェンシブ・セキュリティを単発のイベントに終わらせない仕組み化です。発見された脆弱性や演習の教訓を「サイバーディフェンス・プレイブック」に体系的に反映させることで、組織全体のナレッジとして共有できます。たとえば:

  • 演習結果をインシデント対応手順に組み込む 実際の攻撃シナリオで判明した弱点を元に、対応フローを更新し、次回以降のインシデントで即応可能にする。
  • 脆弱性修正の優先度を明文化 どの種類の脆弱性を優先して修正すべきか、経営層が意思決定できるように基準を示す。
  • 教育・トレーニングへの反映 発見された攻撃手法を教材化し、新人教育や継続学習に組み込むことで、人材育成と組織的対応力の両方を強化する。

このように、攻撃的な視点を持つことは「守るための準備」をより実践的にするための不可欠なステップです。そして、それを一過性の活動にせず、プレイブックに落とし込み標準化することで、組織は『攻撃を糧にして防御を成長させる』サイクルを回すことが可能になります。

つまり、オフェンシブ・セキュリティは単なる「防御の補助」ではなく、プレイブックを強化し続けるためのエンジンそのものなのです。

政策・法制度の進化:日本の「Active Cyber Defense法」について

企業のセキュリティ体制を強化するには、個々の組織努力だけでは限界があります。特に国家規模のサイバー攻撃や地政学的リスクを背景とする攻撃に対しては、企業単独で防ぐことは極めて困難です。そのため、近年は各国政府が積極的にサイバー防衛の法制度を整備し、民間と公的機関が連携して脅威に対処する枠組みを拡充しつつあります。

日本において象徴的なのが、2025年5月に成立し2026年に施行予定の 「Active Cyber Defense(ACD)法」 です。この法律は、従来の受動的な監視や事後対応を超えて、一定の条件下で 「事前的・能動的な防御行動」 を取れるようにする点が特徴です。たとえば:

  • 外国から送信される不審な通信のモニタリング
  • 攻撃元とされるサーバーに対する無力化措置(テイクダウンやアクセス遮断)
  • 重要インフラ事業者に対するインシデント報告義務の強化
  • 警察庁や自衛隊と連携した迅速な対応体制

これらは従来の「待ち受け型防御」から一歩踏み込み、国家が主体となってサイバー空間での攻撃を抑止する取り組みと位置づけられています。

もっとも、このような積極的な防御には プライバシー保護や過剰介入の懸念 も伴います。そのためACD法では、司法による事前承認や監視対象の限定といったチェック体制が盛り込まれており、個人の通信を不当に侵害しないバランス設計が試みられています。これは国際的にも注目されており、日本の取り組みは米国やEUにとっても政策的な参照モデルとなり得ます。

このような国家レベルの法制度の進化は、企業にとっても大きな意味を持ちます。プレイブックの整備を進める上で、法制度に適合した対応フローを組み込む必要があるからです。たとえば:

  • 「インシデント発生時に、どのタイミングでどの公的機関に通報するか」
  • 「ACD法に基づく調査要請や介入があった場合の社内プロセス」
  • 「企業内CSIRTと官民連携組織(NISCや警察庁など)との役割分担」

こうした事項を事前に整理し、社内プレイブックに落とし込んでおかなければ、いざ公的機関と連携する場面で混乱が生じます。逆に、プレイブックを法制度と連動させることで、企業は「自社の枠を超えた防御網の一部」として機能できるようになります。

つまり、Active Cyber Defense法は単なる国家戦略ではなく、企業が次世代プレイブックを策定する際の指針であり、外部リソースと連携するための共通ルールでもあるのです。これによって、企業は初めて「国家と一体となったサイバー防衛」の枠組みに参加できると言えるでしょう。

総括:新たなプレイブックに盛り込むべき要素

これまで見てきたように、サイバー脅威の拡大は「人材の疲弊」「AIによる攻撃の高度化」「オフェンシブ・セキュリティの必要性」「国家レベルの法制度との連動」といった多方面の課題を突きつけています。こうした状況の中で、企業が持続的に防御力を高めるためには、新しいサイバーディフェンス・プレイブックが不可欠です。

従来のプレイブックは「インシデントが起きたら誰が対応するか」といった役割分担や基本的な対応手順を示すものに留まりがちでした。しかし、これからのプレイブックは 「人材」「技術」「組織文化」「法制度」まで含めた包括的な防衛戦略書 でなければなりません。具体的には次の要素を盛り込むべきです。

① 人材面での持続可能性

  • バーンアウト対策:インシデント対応の優先順位づけや自動化の導入を明文化し、担当者が全てを抱え込まないようにする。
  • 教育・育成:新人や非技術職でも最低限の対応ができるよう、シナリオ別の演習やガイドラインを整備する。
  • ナレッジ共有:過去の事例や教訓をドキュメント化し、担当者が入れ替わっても組織力が維持できる仕組みを作る。

② AI脅威への明確な対抗策

  • AI検知ルール:生成AIが作成した不審な文章や画像を識別する手順を組み込む。
  • 自動防御の標準化:スパムやマルウェアの一次対応はAIツールに任せ、人間は高度な判断に集中できる体制を作る。
  • 誤情報対策:ディープフェイクによる詐欺やなりすましを想定し、二重承認や本人確認の標準フローを明記する。

③ 攻撃的視点を取り入れる仕組み

  • レッドチーム演習の定期化:攻撃者視点での検証を定期的に実施し、その結果をプレイブックに反映させる。
  • 脆弱性対応の優先順位:発見された弱点をどの順序で修正するか、リスクに応じて基準を明文化する。
  • 学習サイクルの確立:「演習 → 教訓 → プレイブック更新 → 再訓練」という循環を定着させる。

④ 法制度や外部連携の反映

  • 通報・連携プロセス:ACD法などに基づき、どの機関にどの段階で報告すべきかを具体化する。
  • 外部パートナーとの協力:官民連携組織やセキュリティベンダーとの役割分担を明確にする。
  • プライバシー配慮:法令遵守と同時に、顧客や従業員のプライバシーを損なわないようにガイドラインを整える。

⑤ 経営層を巻き込む仕組み

  • CISOとC-Suiteの協働:セキュリティをIT部門の課題に留めず、経営戦略の一部として意思決定に組み込む。
  • 投資判断の明確化:リスクの定量化と、それに基づく投資優先度を経営層が理解できる形で提示する。
  • 危機コミュニケーション:顧客・株主・規制当局への報告フローをあらかじめ定義し、混乱時にも組織全体で統一した対応を取れるようにする。

まとめ

これらの要素を統合したプレイブックは、単なる「マニュアル」ではなく、組織を横断したサイバー防衛の指針となります。人材不足やAI脅威といった時代的課題に正面から対応し、攻撃的な姿勢と法制度の枠組みを融合させることで、企業は初めて「持続可能かつ実効的な防衛力」を手に入れることができます。

言い換えれば、新たなプレイブックとは、セキュリティ部門だけのものではなく、全社的なリスクマネジメントの中心に位置づけるべき経営資産なのです。

おわりに:持続可能なサイバー防衛に向けて

サイバーセキュリティの課題は、もはや特定の技術部門だけで完結する問題ではありません。AIによって攻撃のハードルが下がり、国家レベルのサイバー戦が現実味を帯びるなかで、企業や組織は「自分たちがいつ標的になってもおかしくない」という前提で動かなければならない時代になっています。

そのために必要なのは、一時的な対応策や流行のツールを導入することではなく、人・技術・組織・法制度をつなぐ統合的なフレームワークです。そしてその中心に位置づけられるのが、新しいサイバーディフェンス・プレイブックです。

プレイブックは、疲弊しがちな専門人材の負担を軽減し、AI脅威への具体的な対抗手段を標準化し、さらに攻撃的防御や法制度との連動まで包含することで、組織全体を一枚岩にします。経営層、現場、そして外部パートナーが共通言語を持ち、迅速に意思決定できる仕組みを持つことは、混乱の時代において何よりの強みとなるでしょう。

もちろん、プレイブックは完成して終わりではなく、「生きた文書」として常に更新され続けることが前提です。新たな脅威や技術、政策の変化に応じて柔軟に改訂されてこそ、真の価値を発揮します。逆に言えば、アップデートされないプレイブックは、かえって誤った安心感を与え、組織を危険にさらすリスクにもなり得ます。

いま世界中のセキュリティ戦略家たちが口を揃えて言うのは、「セキュリティはコストではなく競争力である」という考え方です。信頼を維持できる企業は顧客から選ばれ、優秀な人材も集まります。その意味で、プレイブックは単なる危機対応マニュアルではなく、組織の持続的な成長を支える経営資産と言えるでしょう。

次世代のサイバー防衛は、攻撃に怯えることではなく、攻撃を前提に「どう備え、どう立ち直るか」を冷静に定義することから始まります。新しいプレイブックを通じて、組織は初めて「守る」だけでなく「生き残り、信頼を築き続ける」サイバー戦略を持つことができるのです。

参考文献

SharePointに潜む危機:ゼロデイ脆弱性「CVE-2025-53770/53771」の実態と対策

はじめに

2025年7月、MicrosoftのSharePoint Serverに重大なゼロデイ脆弱性が発見され、セキュリティ業界に大きな衝撃を与えました。この脆弱性「CVE-2025-53770/53771」は、単なる技術的な欠陥にとどまらず、組織の機密情報や業務基盤を危険に晒す深刻なリスクを内包しています。

特に注目すべき点は、「認証不要で外部からリモートコード実行が可能」という点です。つまり、パスワードもIDも必要なく、悪意ある第三者がネットワーク越しにSharePointサーバーの内部へ侵入し、任意のプログラムを実行できるという状況です。これはサーバー乗っ取りやランサムウェア感染、情報漏洩といった重大なセキュリティ事故につながりかねません。

実際、この脆弱性はすでに世界各地の組織に対して悪用が確認されており、日本国内の企業や団体も無関係ではありません。金融・政府機関・教育・エネルギーなど、あらゆる業種がターゲットになり得る中、早急な情報共有と対策が求められています。

本記事では、このSharePoint脆弱性の技術的な仕組みと発見の背景、攻撃の具体的な手法、そして被害を防ぐために今すぐ実施すべき対応策まで、体系的に解説していきます。社内のシステム管理者やセキュリティ担当者はもちろん、経営層や情報資産の利用者にとっても重要な内容となるはずです。

本稿を通じて、あなたの組織がサイバー攻撃のリスクに対してどのように備えるべきかを再確認し、実践的な防御行動につなげることを目指します。今この瞬間にも、SharePointを標的とした攻撃は進行しているかもしれません。対岸の火事と捉えず、自組織の防御力を高める契機としてください。

脆弱性の概要

今回発見された脆弱性は、Microsoft SharePoint Serverに存在する認証回避およびリモートコード実行(Remote Code Execution, RCE)の欠陥で、脆弱性識別番号は以下のとおりです:

  • CVE-2025-53770:認証なしで任意コード実行が可能な致命的な脆弱性(CVSSスコア:9.8/10.0
  • CVE-2025-53771:関連するセキュリティ機構をバイパスする補助的な脆弱性

この脆弱性は、SharePointが内部的に使用する「ViewState」というシリアライズされたデータの取り扱いに起因しています。ViewStateはASP.NETアプリケーションにおいて、サーバーとクライアント間の状態管理を行うために用いられますが、その検証・復号処理において暗号鍵(MachineKey)を利用している点が悪用の起点となっています。

特徴的な点:

  • 認証不要で攻撃が可能:攻撃者はユーザー認証を経ることなく、直接SharePointの内部機能にアクセスできます。
  • リモートからの完全なコード実行:悪意のあるViewStateデータを送るだけで、任意のコマンドを実行できる状態になります。
  • 持続的な侵害が可能:一度MachineKeyを入手されると、正規の通信に偽装した攻撃が継続的に可能になります。
  • 被害が検知しづらい:一見正当なHTTPリクエストを装っており、従来のセキュリティ機構では検出が困難です。

これらの脆弱性は、2025年初頭に報告されたPwn2Ownコンテストで発見された「CVE-2025-49704/49706」に対するMicrosoftのパッチを巧妙に回避する形で出現したバリアントであり、「一度修正されたはずの問題が再燃した」という点でもセキュリティの難しさを象徴しています。

特に脅威となっているのは、オンプレミスで運用されているSharePoint Server環境です。クラウド版のMicrosoft 365環境はマイクロソフトによって自動保護される可能性がありますが、オンプレミス環境ではユーザー組織自身がパッチの適用や対策を担わなければなりません。

さらに、SharePointは単体で動作する製品ではなく、社内のドキュメント管理、ワークフロー、イントラネット、業務アプリケーション連携など、非常に多くの機密情報が集約されている基幹システムであるため、攻撃が成功した場合の被害範囲は極めて広範です。

このような理由から、今回の脆弱性は単なる技術的な問題ではなく、情報漏洩・業務停止・サプライチェーン攻撃に直結する重大インシデントとして、迅速かつ組織的な対応が求められています。

発見の経緯と背景

この脆弱性の根底にあるのは、2025年初頭に開催された著名なハッキングコンテスト「Pwn2Own Berlin 2025」での報告です。ここでセキュリティ研究者が、Microsoft SharePoint Serverに対してシリアライズの不備を突いたリモートコード実行攻撃を成功させ、「CVE-2025-49704」と「CVE-2025-49706」という脆弱性が認定されました。Microsoftはこれを受けて、数週間以内に緊急のセキュリティパッチをリリースし、問題は一旦「解決した」と見られていました。

しかし、事態はそれで収束しませんでした。複数の攻撃グループがこの修正に目をつけ、パッチの動作や保護ロジックを逆解析することで、回避手法(バイパス)を開発したのです。その結果、2025年7月中旬、まったく同じ脆弱性チェーンに対して新たに認定された「CVE-2025-53770」と「CVE-2025-53771」が明らかになりました。

つまり、本脆弱性は「完全な新種」というよりも、“パッチをかいくぐる新たな攻撃変種(バリアント)”である点が重要です。このような「パッチバイパス型ゼロデイ」は、修正されたはずの問題が再び表面化するため、組織としての油断を誘いやすく、特に危険です。

なぜSharePointが狙われるのか?

Microsoft SharePointは、多くの企業・行政機関において文書管理、ワークフロー、ナレッジ共有、グループウェアの中核を担うプラットフォームです。その性質上、以下のような特徴を持っています:

  • 高い情報集積性:業務上の文書、顧客情報、社内マニュアルなど、機密情報が集中して保存されている。
  • 可用性重視の運用:停止を避けるため、パッチ適用が後回しになりがち。
  • 独自カスタマイズの多さ:多くの企業で独自の拡張や外部連携がされており、脆弱性の影響範囲が広がりやすい。

さらに、多くの組織でオンプレミス環境が残っており、クラウド型のMicrosoft 365と異なり、自社でのパッチ運用や構成管理が必要なため、攻撃者にとっては格好のターゲットとなっているのです。

攻撃の兆候が現れるまで

脆弱性の存在は、セキュリティ研究者やベンダーによって一部で注視されていましたが、実際に攻撃キャンペーンが活発化したのは2025年7月中旬。CrowdStrikeやPalo Alto Networks、Rapid7などのセキュリティベンダーがほぼ同時に実環境でのゼロデイ悪用の兆候を検知し、緊急アラートを発出しました。

中でもCrowdStrikeは、実際のマルウェア配布活動の中でSharePointへの侵入経路としてこの脆弱性が利用されていた事実を確認。それにより、本脆弱性は単なる概念実証(PoC)ではなく、リアルな攻撃キャンペーンの一部として“現場投入”されていることが裏付けられたのです。

このように、一度は塞がれたはずの入口が、別の鍵で再び開けられた形となっている現在、SharePointを運用するあらゆる組織が再点検を迫られているのが現状です。

攻撃の手法

今回の脆弱性「CVE-2025-53770/53771」を悪用した攻撃は、単一の技術的欠陥というよりも、複数の手口を組み合わせた“攻撃チェーン”として成立しています。ここでは、攻撃者がどのようなステップでSharePointサーバーを侵害し、持続的なアクセスを獲得するかを段階的に解説します。

ステップ1:認証バイパスによる不正アクセス

攻撃者はまず、/layouts/15/ToolPane.aspx というSharePoint内の特殊なエンドポイントに対して、細工されたHTTPリクエストを送信します。このリクエストには偽の Referer ヘッダー(例:/_layouts/SignOut.aspx)が含まれており、これによってSharePoint側の処理フローが意図せず短絡され、認証を通らずに内部機能へアクセスできてしまうのです。

この時点で、攻撃者は“匿名のまま”SharePointアプリケーションの一部に踏み込んでいます。

ステップ2:Webシェル(ASPXファイル)のアップロード

次に、攻撃者は ToolPane.aspx のバグを利用して、任意のASPXファイル(=Webシェル)をSharePoint内にアップロードします。実際の攻撃事例では spinstall0.aspx という名称の悪意あるファイルが使用されました。

このファイルは一見すると正当な構成ファイルに見えますが、その内部ではPowerShellやコマンドプロンプトを介した命令実行機能が埋め込まれており、後続のステップで利用されます。

ステップ3:暗号鍵(MachineKey)の取得

ASPXファイルを実行することで、SharePointが内部的に保持するMachineKey(ValidationKey / DecryptionKey)をメモリや設定ファイルから抽出します。

この暗号鍵は、.NETアプリケーションがViewStateなどのシリアライズデータを暗号化・検証するために使われているもので、これを奪われると攻撃者は正当なシステムユーザーを偽装してViewStateを生成できるようになります。

この時点で、攻撃者はまるで「マスターキー」を手に入れた状態になります。

ステップ4:偽造ViewStateによる任意コード実行

奪取したMachineKeyをもとに、攻撃者は ysoserial.net などのツールを使って任意のコマンドを含んだViewStateデータを生成します。通常、このようなデータは改ざんされていればエラーとなるはずですが、すでに正規の鍵を持っているため、サーバー側は問題なく処理してしまいます。

これにより、以下のようなコマンドをSharePointサーバーで実行可能になります:

  • ファイルのダウンロードやアップロード
  • 新たなWebシェルの設置
  • 追加のアカウント作成
  • 外部C2サーバーとの通信開始

実質的に、サーバーは完全に乗っ取られた状態になります。

ステップ5:持続的アクセスとステルス化

最終段階では、攻撃者はサーバー上にバックドアを設置したり、Windowsのタスクスケジューラやサービス機構を悪用して永続的なアクセス経路を確保します。

さらに、侵入を隠すためにログを改ざんしたり、WAFやEDRを回避するような通信方式に切り替えるなどのステルス化技術も用いられる場合があります。

攻撃チェーンのまとめ

[1] 認証不要の不正リクエスト送信
       ↓
[2] Webシェル(ASPXファイル)のアップロード
       ↓
[3] 暗号鍵(MachineKey)の取得
       ↓
[4] 偽造ViewStateの送信と任意コード実行
       ↓
[5] バックドア設置と持続的侵害

なぜ検知が難しいのか?

この攻撃チェーンの厄介な点は、全体の流れがあたかも正当なASP.NET処理に見えることです。たとえば、ToolPane.aspxへのPOSTリクエストや、ViewStateを含むHTTPレスポンスは通常のSharePoint動作にも存在するため、境界型のセキュリティ(WAFなど)では見逃されがちです。

また、PowerShellやcmdの実行は「システム管理者が実施した操作」として誤認されることもあり、EDRを使っていても検出や調査が遅れるリスクがあります。

実際の被害事例における特徴

  • w3wp.exe(IISのプロセス)から cmd.exe、さらに powershell.exe へのプロセス連携が発生している
  • SharePointのログに、同一IPから異常に多くのViewState関連リクエストが記録されている
  • spinstall0.aspx のような見慣れないファイルが SharePoint の一時ディレクトリに存在している

これらの兆候に少しでも心当たりがある場合は、すでに侵害されている可能性が高いと考え、即座に調査・対応を行う必要があります。


このように、今回の攻撃は非常に緻密に設計されており、しかも既知の構造を利用しているため、既存のセキュリティ対策をすり抜けやすいという点が最大の脅威です。単なる“穴”ではなく、“正規の扉を偽鍵で開けてくる”ようなイメージで捉えるべきでしょう。

被害状況と対象範囲

今回のSharePointゼロデイ脆弱性「CVE-2025-53770/53771」は、すでに実際の攻撃キャンペーンに利用されており、世界中で被害が拡大しています。従来の脆弱性と異なり、検出が難しく、企業・団体側が侵害を受けていることに気づかないまま、水面下で情報流出やバックドア設置が進行している可能性が高いのが大きな特徴です。

想定される被害の内容

この脆弱性が悪用された場合、以下のような被害が発生するおそれがあります:

  • 情報漏洩:SharePoint上に保管された機密文書・契約書・設計資料・顧客情報などの大量流出
  • 業務システムの改ざん・停止:ワークフローや業務アプリケーションに不正アクセスが行われ、業務プロセスが中断
  • 社内ネットワークへの横展開(ラテラルムーブメント):SharePointサーバーを足掛かりに他のシステムへの侵入
  • ランサムウェア感染やC2通信の開始:外部サーバーと不正通信を確立し、身代金要求や継続的スパイ活動を行う
  • 信用失墜・訴訟リスク:顧客情報やパートナーとの契約書が漏洩した場合、社会的信用の喪失や法的責任が問われる

特に、SharePointは業務のハブとして様々なシステムやユーザーと連携しているため、単なる1サーバーの侵害にとどまらない影響範囲の広さが懸念されます。

実際に確認されている攻撃キャンペーン

CrowdStrikeやPalo Alto Networksなどのセキュリティベンダーは、2025年7月中旬以降、複数の組織でこの脆弱性を利用した攻撃の痕跡を確認したと報告しています。具体的には、以下のような業種・組織が被害を受けたとされます:

  • 金融機関(国内外の大手銀行、保険会社など)
  • 製造業・エネルギー企業(インフラ関連、海外プラント事業)
  • 教育機関・大学(研究データや個人情報が集中する環境)
  • 政府・自治体・公共団体(文書共有や決裁フローにSharePointを利用)
  • 医療機関・ヘルスケア(電子カルテや医療ドキュメント連携)

特に、政府系・金融系・研究機関といった、国家的に重要なデータを保持しているセクターが標的になっている点は、高度標的型攻撃(APT)との関連も示唆されています。

また、攻撃者グループによっては、これらの侵害を初期アクセスとして利用し、後続のランサムウェア展開や情報収集活動へとつなげているケースも確認されています。

対象範囲:影響を受けるSharePointバージョン

この脆弱性の影響を受ける主な製品は以下のとおりです:

製品バージョン対象パッチの提供状況(2025年7月現在)
SharePoint Server 2016✅ 対象❌ パッチ未提供
SharePoint Server 2019✅ 対象✅ KB5002754 が提供済み
SharePoint Server Subscription Edition✅ 対象✅ KB5002768 が提供済み
SharePoint Online(Microsoft 365)❌ 非対象クラウドで保護されており問題なし

特に注意すべきは、SharePoint Server 2016環境です。パッチ未提供の状態が続いており、かつ利用ユーザー数も多いため、“攻撃者にとって最も効率的な標的”となっている可能性が高いと見られます。

侵害が疑われる兆候(IOC)

  • ToolPane.aspx への不審なPOSTリクエスト(Referer: SignOut.aspx)
  • spinstall0.aspx など未知のASPXファイルがディレクトリ内に存在
  • w3wp.exe → cmd.exe → powershell.exe のプロセスチェーン
  • 異常に大きなViewStateや不正なシリアライズデータの送受信ログ

これらの兆候がシステムログやEDR、WAF、SIEMに記録されている場合は、すでに侵害を受けている可能性を強く疑うべきです。

なぜこの被害は広がったのか?

  • 認証が不要なため防御線が最初から無効
  • 従来のWAFやアンチウイルスでは検出困難
  • 多くの企業でパッチ適用が遅れがち
  • システム管理者が異常に気づきにくい攻撃手法
  • 攻撃グループ間でツールが共有・拡散されている

こうした要因が重なった結果、攻撃者にとって非常に“使いやすいゼロデイ”として拡散し、攻撃規模は今なお拡大し続けているのが現状です。

緊急対応策

今回の脆弱性「CVE-2025-53770/53771」は、既に実際の攻撃で悪用されているゼロデイ脆弱性であるため、「様子を見る」という選択肢は存在しません。SharePoint Serverを運用している組織は、すぐにでも以下の緊急対応策を検討・実施する必要があります。

ここでは、対応の優先度ごとに段階的なアクションを整理して紹介します。

1. パッチの適用(最優先)

まず最優先で実施すべきは、Microsoftが提供している公式セキュリティパッチの適用です。今回の脆弱性に対して、以下のバージョン向けに修正プログラムが提供されています:

製品バージョン対応パッチ公開日備考
SharePoint Server Subscription EditionKB50027682025年7月中旬修正済み
SharePoint Server 2019KB50027542025年7月中旬修正済み
SharePoint Server 2016未提供(2025年7月現在)回避策の検討が必要

✅ 実施ポイント

  • 影響のあるバージョンを特定し、できる限り速やかにパッチを適用する。
  • パッチ適用前には、バックアップ取得とステージング環境での事前検証を推奨。
  • 複数ノード構成の場合はローリングアップデートで対応可能。

※ 2025年7月現在、SharePoint Server 2016にはまだパッチが提供されていないため、以下の緩和策を必ず併用してください。

2. 緩和策の導入(パッチ未適用環境・追加保護)

パッチが適用できない環境や、より強固なセキュリティ対策を希望する場合には、以下の緩和策が推奨されます:

🔧 AMSI(Antimalware Scan Interface)の有効化

  • Windowsに標準搭載されているAMSIを有効にすることで、不正なPowerShell実行などのコード実行を検知・阻止可能。
  • Microsoft Defender Antivirus などのAMSI対応ソリューションと組み合わせると効果的。

🔐 MachineKeyのローテーション

  • ViewState改ざんを可能にする鍵(ValidationKey/DecryptionKey)を再生成・再配置する。
  • 攻撃者に鍵を奪取された可能性がある場合、速やかな更新が必須。

🌐 公開サーバーの隔離

  • インターネットに直接公開されているSharePoint環境については、一時的にアクセスを制限または遮断し、脆弱性が解消されるまで閉鎖も検討。

⚠️ Webアクセスの制御

  • ToolPane.aspx やその他の怪しいエンドポイントへのアクセスを IISのIP制限やWAFで制御
  • spinstall0.aspx など不審なファイル名のリクエストログがないかを定期監視。

3. 侵害の有無を調査(被害の可能性がある場合)

SharePoint Serverが既に攻撃されている可能性があると疑われる場合は、以下のインシデント対応フローに従い、迅速な内部調査を実施してください:

🔍 ログの確認

  • ToolPane.aspx への不審なPOSTリクエストの有無
  • Referer: /_layouts/SignOut.aspx を伴うアクセス
  • spinstall0.aspx 等のアップロード痕跡

🔗 プロセス連携の追跡

  • w3wp.exe → cmd.exe → powershell.exe というプロセスチェーンが実行されていないかをEDRやログで確認。

📁 ファイル改ざんの有無

  • Webルート配下に不審な .aspx ファイルが存在しないかチェック。
  • ファイル改変日時の急変や、予期せぬスクリプトの混入にも注意。

4. 持続的防御の構築(再発防止)

今回の脆弱性は、技術的な修正にとどまらず、組織のセキュリティ体制そのものの見直しを迫る内容です。以下のような対策を中長期的に講じることが望まれます:

🧰 セキュリティ製品の見直し

  • EDR/XDR(例:CrowdStrike Falcon, Microsoft Defender for Endpoint)の導入
  • WAF(Web Application Firewall)のチューニングと監視強化

🔄 セキュリティ運用体制の強化

  • 脆弱性管理の定期サイクル化
  • パッチ適用のSLA(サービスレベル合意)策定
  • 変更管理と構成管理(CMDB)の整備

🧪 脅威エミュレーションやペネトレーションテストの実施

  • Red Team/Blue Team演習を通じて実戦的な防御体制を検証・改善

5. 関係者・組織への報告・連携

  • システム担当者だけでなく、CIO/CISO/経営層への報告を速やかに実施
  • 関連するベンダーやクラウド連携先とも脆弱性共有と対応状況の確認
  • 必要に応じてIPA/JPCERT/MSRCなどへインシデント報告

✅ 対応チェックリスト(簡易まとめ)

対策項目実施状況
公式パッチの適用☐ 実施済/☐ 未実施
MachineKeyの再生成☐ 実施済/☐ 未実施
AMSI・Defender有効化☐ 実施済/☐ 未実施
ToolPaneへのアクセス制御☐ 実施済/☐ 未実施
不審なログ・ファイルの調査☐ 実施済/☐ 未実施
関係者への状況共有☐ 実施済/☐ 未実施

脆弱性に対する防御は「待つ」のではなく、「動く」ことが肝心です。特にオンプレミス環境においては、クラウドサービスと異なり自らが最後の砦となる意識が必要です。今すぐ対応を開始し、被害拡大を防ぎましょう。

検出とモニタリングのポイント

今回のSharePointゼロデイ脆弱性(CVE-2025-53770/53771)は、表面的には正常な通信に見えるという点が大きな特徴です。従来のシグネチャベースのセキュリティ製品では検出が難しく、実際に多くの組織が侵害に気づかず長期間放置していた可能性があります。

そのため、組織としては「攻撃を未然に防ぐ」ことと同時に、侵害の兆候をいかに早く検出するかが極めて重要です。本章では、システム管理者やSOC(セキュリティオペレーションセンター)が注視すべき具体的な検出ポイントを紹介します。

1. 不審なリクエストの監視

攻撃は、通常のHTTPリクエストを装って開始されます。特に注目すべきなのは、以下のようなリクエストパターンです:

  • エンドポイント:/layouts/15/ToolPane.aspx への POST リクエスト
  • Referer ヘッダー:/_layouts/SignOut.aspx が含まれている
  • User-Agent が PowerShell/curl/Python スクリプトのような自動化ツールになっている場合

これらは、SharePointの通常運用ではあまり見られないアクセスであり、異常挙動として検出・アラート化すべきです。

2. Webシェルの展開検知

多くの攻撃事例で、spinstall0.aspx などの悪意あるASPXファイル(Webシェル)がSharePointのフォルダ内に設置されていました。検出の観点では以下のような点を重点的に確認します:

  • /layouts/15/ 以下や一時ディレクトリに .aspx ファイルが新規追加されていないか
  • ファイル名に “install”、”shell”、”cmd”、”debug” といったキーワードが含まれていないか
  • ファイルのアップロード日時が業務時間外や深夜帯に集中していないか

ファイル整合性監視(FIM)やファイルアクセス監査ログの活用が有効です。

3. プロセス連携(プロセスチェーン)の分析

攻撃が成功すると、SharePointのWebアプリケーションプロセス(w3wp.exe)から以下のようなプロセス連鎖が発生します:

w3wp.exe → cmd.exe → powershell.exe

この連携は通常のSharePoint動作では極めて異常であり、EDR(Endpoint Detection & Response)やSysmonを用いたプロセス監視で即時検知可能です。

さらに:

  • PowerShellで「Base64デコードされたコマンド」が実行されていないか
  • 外部C2(Command & Control)への接続試行(TCP/443やDNSトンネリングなど)がないか

といったビヘイビア分析(ふるまい検知)が効果を発揮します。

4. ViewState改ざんの兆候

本脆弱性は、.NETアプリケーションのViewStateを悪用したペイロード注入によって任意コードが実行されます。ViewStateは通常、暗号化された長い文字列としてHTTPリクエストまたはレスポンスに含まれますが、以下の点に注目することで不正使用を検出できる可能性があります:

  • ViewStateが異常に大きい(数KB以上)
  • 過去の通信と比較して長さや形式が不自然に変化している
  • アクセス頻度が急激に増加している

一部のWAFやSIEMで、ViewState長の閾値をアラート化するルールを組むことで検知精度を向上させられます。

5. エンドポイントログと統合ログ分析(SIEM)

EDRやWAF単体では見落とす可能性があるため、複数のログソースを相関分析するSIEM(例:Splunk, Azure Sentinel, QRadar) の導入・活用が強く推奨されます。組み合わせるべき主なログは:

  • IISアクセスログ(不審なエンドポイント/POSTリクエストの確認)
  • SharePoint ULSログ(ViewState処理やファイル操作の異常)
  • Windowsイベントログ(プロセス生成やPowerShellの使用履歴)
  • EDRアラートログ(スクリプト実行、レジストリ操作、不審な通信)

これらを日・週単位でレポート出力し、平常時との乖離を定点観測することで、初期侵害の兆候を早期に把握できます。

6. IOC(Indicators of Compromise)の活用

各セキュリティベンダー(Trend Micro、CrowdStrike、Palo Alto等)は、攻撃に関連する**IOC(侵害指標)**を公開しています。以下のようなIOCを照合することで、既に攻撃を受けていないかを確認可能です:

  • 悪意あるASPXファイルのハッシュ値(SHA256)
  • 外部C2サーバーのIPアドレス/ドメイン名
  • PowerShellコマンドの断片やBase64文字列パターン

IOCは定期的に更新されるため、最新の情報を入手し、内部ログと照合するルールを自動化する仕組みがあると理想的です。

まとめ:検知は「人+仕組み」の両輪で

この脆弱性のように、通常の通信フローに巧妙に溶け込むタイプの攻撃に対しては、「自動検知に100%依存する」ことはリスクを伴います。日々の行動ベースの異常検知(UEBA)や、SOCメンバーの目視による定期的なログレビューも有効です。

「脆弱性は0dayでも、異常な挙動は隠せない」

この考え方を軸に、多層的かつ継続的なモニタリング体制を整備することが、侵害リスクの最小化につながります。

今後の展望と教訓

今回のSharePointにおけるゼロデイ脆弱性(CVE-2025-53770/53771)は、単なる「一製品のバグ」ではなく、現代のITインフラ全体が抱える構造的な脆弱性と、セキュリティ運用上の課題を浮き彫りにした事例といえます。今後、同様のリスクを回避するためには、技術的な対応だけでなく、組織的・文化的な観点からも教訓を整理し、次なる備えへと昇華させていくことが重要です。

1. パッチ適用だけでは守れない時代

多くの組織では、「パッチを当てれば安全」という考えが未だに根強く残っています。しかし今回のケースでは、既存のパッチ(CVE-2025-49704/49706)が攻撃者にバイパスされた結果、再び脆弱性が露呈したという構図になっています。

つまり、単にベンダーの修正を待つだけでは攻撃のスピードに追いつけません。これからの時代は以下が求められます:

  • 構成レベルでの防御策(Defense-in-Depth)の導入
  • 脆弱性の「周辺構造」への理解と運用設計
  • パッチ適用の高速化だけでなく、適用後の検証プロセスの定着

2. オンプレミス環境の“サイレントリスク”

クラウドシフトが進む一方で、今回被害に遭ったのは主にオンプレミス環境のSharePointでした。クラウドであれば、Microsoft側が脆弱性の検知や自動修正を行うことも期待できますが、オンプレミスでは全ての責任が利用者側にあるため、対応の遅れが命取りになります。

とくに問題なのは以下のような組織文化です:

  • 「重要システムなのでパッチ適用を遅らせている」
  • 「影響調査に時間がかかるので、毎月のセキュリティ更新が後手に回っている」
  • 「システムベンダーに任せているので中身は見ていない」

これらは一見合理的に思えても、ゼロデイ攻撃という“例外事象”の前では重大なリスクファクターとなります。

3. セキュリティ運用体制そのものの再構築

今回の脆弱性を契機として、以下のような中長期的な体制強化が求められます:

  • セキュリティの責任を“IT部門だけ”に閉じない(経営層・利用部門・ベンダー間での明確な役割分担)
  • 脆弱性管理の自動化と可視化(資産管理+脆弱性スキャンの継続的統合)
  • SOC(セキュリティ運用センター)機能の内製化・外部委託による監視体制の確立
  • CIS ControlsやNIST CSFなど国際基準に基づいたフレームワークの適用

また、「セキュリティ対策はコスト」ではなく「事業継続の前提」として再認識することが、経営レベルでの合意形成につながります。

4. 人材・文化・スピードのギャップ

サイバー攻撃は日々進化していますが、それに追従できる人材と運用文化が不足しているという現実があります。

  • セキュリティ担当者が“1人しかいない”
  • スクリプトやログ分析ができる人材が社内にいない
  • インシデントが発生しても対応フローが曖昧で時間がかかる

こうしたギャップを埋めるためには、次のような取り組みが有効です:

  • 社内のIT教育の強化:セキュリティは専門職だけの仕事ではないという意識付け
  • インシデント演習の定期実施:実戦想定での初動確認
  • 自動化ツールの活用:人的リソースに依存しない初期対応体制の構築

5. 「透明性」と「信頼」が企業価値を左右する時代へ

もし万が一、今回のような脆弱性を突かれて情報漏洩や侵害が起きてしまった場合、どのように対外的に説明・報告するかも企業の信頼を大きく左右します。

  • 被害の公表を遅らせる
  • 不正アクセスの可能性を過小評価する
  • 技術的な説明や再発防止策が曖昧

こうした対応は、顧客・取引先・社会からの信用を大きく損ねる可能性があります。逆に言えば、「迅速かつ透明な説明」「誠実な対応」「技術的裏付けのある改善策」を示せれば、危機を信頼強化のチャンスに変えることすら可能です。

おわりに

本記事では、Microsoft SharePoint Serverに発見された深刻なゼロデイ脆弱性「CVE-2025-53770/53771」について、技術的な仕組みから実際の攻撃手法、被害の広がり、緊急対応策、そして今後の教訓までを包括的に解説してきました。

この脆弱性が私たちに突きつけた現実は明白です。それは、「セキュリティ対策は製品アップデートだけでは不十分であり、継続的な運用と組織の覚悟が不可欠である」ということです。しかも今回のように、すでに修正されたはずの脆弱性のバリアントが再び実戦投入されるようなケースでは、技術的な優位性だけでは防ぎきれない部分もあることを認識する必要があります。

特にSharePointのような、業務の中核を支えるプラットフォームに対する攻撃は、単なる「情報システムの不具合」では済まされません。業務の停滞、取引先への信頼失墜、個人情報保護違反による制裁など、企業活動そのものに重大な影響を及ぼすリスクをはらんでいます。

したがって、本脆弱性の教訓は次のように総括できます:

  • ITインフラの構成を理解し、脆弱性の影響範囲を即時に把握できる体制を整えること
  • パッチ適用や鍵の更新といった技術的対応を“例外”ではなく“習慣”として定着させること
  • 日々のモニタリングやログ分析を継続的に行い、小さな異常に気づける目を育てること
  • セキュリティ対応を“コスト”ではなく“信用維持の投資”と捉える組織文化を築くこと

また、今回の件を「一時的な出来事」として流してしまえば、次のゼロデイ攻撃にまた同じように無防備な状態で晒されることになりかねません。むしろこれを契機に、社内のセキュリティ運用を一段階引き上げるチャンスと捉えることが、真にリスクを最小化する道だと言えるでしょう。

セキュリティは「完璧」を求めるのではなく、「進化し続ける」ことが重要です。攻撃者が進化する以上、私たちの守りもまた日々アップデートされ続けなければなりません。

最後に、この記事をきっかけに、1人でも多くの管理者・開発者・経営者が「自組織の守りは十分か?」と問い直し、必要なアクションを一歩踏み出していただければ幸いです。

📚 参考文献

IIJ「セキュアMXサービス」不正アクセスによる個人情報漏洩:詳細レポートと教訓

個人情報漏洩の経緯

2024年8月3日、IIJ(株式会社インターネットイニシアティブ)の法人向けクラウドメールセキュリティサービス「IIJセキュアMXサービス」の内部で、異変が始まっていました。このとき、サービスの一部環境において、攻撃者による不正なプログラムが設置され、長期にわたって稼働し続けていたのです。しかし、この兆候はセキュリティ監視体制において検知されることなく、組織の誰の目にも留まらないまま時間が過ぎていきました。

IIJは、国内有数のインターネットサービスプロバイダであり、長年にわたり法人向けインフラサービスを提供してきた実績を持ちます。とりわけ「セキュアMXサービス」は、企業や自治体が導入する信頼性の高いメールセキュリティソリューションとして知られていました。しかし、攻撃者はその信頼の裏をかくように、第三者製メールソフトウェア「Active! mail」に存在したゼロデイ脆弱性を突き、IIJのサービスインフラを侵害することに成功したとみられています。

事態が表面化したのは、2025年4月10日。IIJの運用チームが、通常とは異なるログ挙動や内部アクセスの異常に気付き、調査を開始します。翌週の4月15日、同社は緊急のプレスリリースを発表し、「最大で6,493契約・約407万件に影響する可能性がある」と発表しました。この時点ではまだ被害の全容が不明で、調査の初期段階であったことから、あくまで“最悪のケースを想定した上限値”として報告されました。

調査は急ピッチで進められ、4月18日には、攻撃に利用された脆弱性が「Active! mail」のバッファオーバーフローであることが特定されました。この脆弱性は、IPAおよびJVN(Japan Vulnerability Notes)に「JVN#22348866」として緊急登録され、各事業者に即時の対処が促されることになります。IIJもこの報告を受けて、該当コンポーネントの緊急置き換えと防御体制の強化に着手しました。

さらに4月22日、調査結果の第2報が発表され、当初想定よりも被害が限定的であることが判明しました。実際に漏洩が確認されたのは、132契約(311,288メールアカウント)であり、うち6契約ではメール本文やヘッダー情報、488契約では連携するクラウドサービス(Microsoft 365やGoogle Workspace等)の認証情報が含まれていたことが確認されました。この時点でIIJは影響を受けたすべての契約者に個別通知を行い、パスワードの強制リセットとアクセス制限などの措置を実施します。

問題はそれだけに留まりませんでした。この不正アクセスは、発生から検知までに8カ月以上を要したこと、そして被害規模が法人契約の範囲に及ぶ点から、社会的に大きなインパクトを持つこととなります。2025年5月13日に開催されたIIJの決算説明会では、谷脇社長自らが記者会見に登壇し、事件の経緯と再発防止への取り組みを説明しました。特に「検知までに時間がかかった要因」として、従来の防御モデルに依存しすぎていた点、可視化の弱さ、脆弱性の管理不備などが語られ、社内のセキュリティガバナンスが見直される契機となったことが述べられました。

以降、IIJは大規模な再発防止策を打ち出します。6月下旬までに、Webアプリケーションファイアウォール(WAF)の多層化、振る舞い検知型のセキュリティ機構(EDR的要素)などを導入。また、情報開示の透明性を保つため、更新された情報はすべて公式Webサイトで随時公開される体制に移行しました。

そして2025年7月18日、総務省より本件に対する正式な行政指導が下され、IIJはその内容を受け入れるとともに、再発防止に向けた「社長直轄のプロジェクト体制」を発足させたことを公表しました。これにより、単なるサービス単位での修正にとどまらず、会社全体のセキュリティ意識と体制を抜本的に見直す取り組みが始まったのです。

2025年 日本国内・国外の個人情報漏洩・漏洩疑い事例

以下は、日本国内の2025年における「不正アクセス」「誤操作/設定ミス」「内部不正」による漏洩・疑いの全事例を集めた表です。

日付組織/企業 漏洩件数原因カテゴリ備考・詳細
2025/03/12-03/13日本マクドナルド8,989件設定ミス・誤送信メール配信システムミス 
2025/03/19神戸須磨シーワールド12,931件設定ミスWebシステム設定ミス 
2025/04/16みずほ信託銀行2,472人+246社誤送信 (委託含む)メール誤送信 
2025/03/03おやつカンパニー約170,000件+450件不正アクセスキャンペーン応募データ 
2025/02/06NTTコミュニケーションズ17,891社分不正アクセス設備侵害 
2025/02/22-02/27徳島県教育委員会約140万件不正アクセスサーバー不審メール発出 
2025/04/05-05/28柏崎青果1,198件不正アクセスECサイト侵入 
2025/05/23マリンオープンイノベーション機構1,455件USB紛失紙媒体/USB紛失 
2025/02/28-03/10三菱地所ホテルズ&リゾーツ非公表設定ミス/システム運用予約者データ
2025/06/24ぴあ非公表設定ミス/システム運用顧客情報
2025/04/28クミアイ化学非公表設定ミス/システム運用社員情報
2025/06/12タイヨー9件設定ミス/誤操作イベント参加者

2025年以前発生していて、報告が2025年に行われている事例もありました。また、漏洩していることや漏洩している可能性があることを運営側が検知できず、後の定期的なセキュリティ診断によって発覚したり、利用者からの問い合わせによって発覚したりするケースも散見されました。

また、半導体産業、自動車産業などの軍事転用可能な企業や、銀行、証券、保険などの金銭目的の企業ではなく、さまざまな業種で起きているということも注目すべき点です。

個人情報漏洩事例から見えてくる問題点や課題

2025年に発生・報告された情報漏洩に関する各事例からは、情報セキュリティにおけるいくつかの共通した課題が見えてきます。こうした課題は、単一の技術的要因に起因するものではなく、運用や体制、組織の設計方針にまで広く関係しており、包括的な見直しの必要性が浮き彫りになっています。

まず一つ目の課題は、脆弱性の管理と検知体制の遅れです。特に外部製品やサービスを組み込んだシステムにおいては、当該ソフトウェアのセキュリティ更新やリスク把握が後手に回るケースが少なくありません。今回公表されたIIJのセキュアMXサービスでは、メール閲覧用ソフトウェアに内在していた脆弱性が長期間にわたり悪用されていた可能性があり、結果として複数の契約先のメールアカウントや認証情報が外部に漏洩したとされています。このような事態は、既知の脆弱性に迅速に対応する体制や、ゼロデイ攻撃に備えた振る舞い検知の導入などが十分でなかったことを示唆しています。

二つ目の課題は、人為的ミスの継続的な発生です。2025年に報告された情報漏洩事例の中には、メールの誤送信やWebシステムの設定ミスに起因するものも複数含まれていました。これらは高度な技術を要する攻撃によるものではなく、組織内の運用プロセスや確認手順の甘さから発生しています。たとえば、誤送信防止の機構や二重確認の運用ルールが適切に整備されていれば防げた事例も少なくありません。こうした背景から、セキュリティ対策は技術面だけでなく、業務設計や日常運用の中に組み込まれている必要があります。

三つ目は、委託先や外部サービスに関するセキュリティ管理の不十分さです。多くの企業や団体がクラウドベースのサービスや外部委託業者の技術に依存している現在、その利用形態に応じたリスク評価と監視が求められています。たとえば、IIJのようなサービス提供事業者が被害を受けた場合、その影響は直接の契約者を越えて二次的・三次的に波及する可能性があります。利用者自身がサービス提供元のセキュリティ状況を継続的に確認し、リスクベースで利用範囲を見直すといった姿勢も必要です。

四つ目として挙げられるのは、インシデント発生時の初動対応と情報開示のあり方です。情報の開示が遅れた場合、関係者の対応が後手に回り、影響が拡大する恐れがあります。2025年に報告された複数の事例において、調査結果の確定に時間を要したことや、影響範囲の特定に段階的な発表がなされたことが、ユーザー側の混乱を招く一因となりました。もちろん、正確な情報を提供するには慎重な調査が必要ですが、並行して適切な段階的説明や予防的対応の提案がなされることが望まれます。

五つ目として挙げられるのは、あらゆる業種・業界が狙われるという点です。半導体業界や自動車業界のように軍事転用可能な技術を奪うことを目的とした不正アクセスや金銭目的で銀行、証券、保険といった金融関連尾企業を狙うことがよく報道されていますが、個人情報を盗むという点においては、業態に関わらず脆弱な企業や団体を狙っていることがわかります。また、単一のシステムでは個人情報として十分でなくとも、複数のシステムの情報を組み合わせることで個人情報または個人情報相当の情報になる場合もあるため、自分のところのシステムはそれほど重要な情報を扱っていないから大丈夫と安易に考えず、常にセキュリティ対策の意識を持つことが大切です。

これらの課題は、特定の組織や業種に限定されたものではなく、情報を扱うあらゆる業務に共通するものです。そして、多くの課題は、技術、運用、体制のいずれか一つでは対応しきれず、三者を連動させた取り組みが不可欠です。次章では、それぞれの観点からどのような対策が求められるかを考察します。

対策:技術・体制・運用の三位一体アプローチ

2025年に報告された複数の情報漏洩事例を通じて明らかになったように、情報セキュリティ対策は、単なる技術的な対応だけでは不十分です。多くの問題が、運用上の不備や体制面での遅れに起因しており、より堅牢な防御体制を構築するには、技術・運用・体制の三つを一体として捉え、相互に補完し合う設計が必要です。この章では、それぞれの観点から必要な対策を具体的に考察します。

技術面の対策

技術的な防御は、セキュリティ対策の土台として最も直接的で重要な役割を担います。まず、サーバーやネットワーク機器、ミドルウェア、そして外部製品などにおいて、既知の脆弱性に対するパッチ適用を継続的かつ計画的に行う体制が求められます。特に外部製のライブラリやアプライアンス製品は、利用者が直接コードに手を加えられないため、脆弱性情報(CVE、JVNなど)の監視と、サプライヤーからのアラートの即時対応が重要です。

また、未知の攻撃への対応として、振る舞い検知型のセキュリティ機構(EDRやXDR)の導入が有効です。これにより、従来型のウイルス定義ベースでは見逃されていた不審なプロセスやネットワーク通信をリアルタイムで検知・遮断することが可能になります。さらに、WAF(Web Application Firewall)の導入によって、SQLインジェクションやクロスサイトスクリプティングなどのWeb系攻撃への入口防御を強化することも基本的な備えとして有効です。

データ保護という点では、TLS(HTTPS)による通信の暗号化と、データベースに保存される個人情報の暗号化が求められます。特に、管理者や開発者でも復号できない形式での保存(アプリケーションレベルでの暗号化)を導入すれば、万一内部からのアクセスがあっても、データがすぐには読み取れないという抑止効果を持ちます。暗号鍵については、KMS(Key Management Service)を利用し、鍵の分離・アクセス制御を行うことが推奨されます。

運用面の対策

運用上の不備による情報漏洩、特に誤送信設定ミスは、技術的な対策だけでは完全に防ぐことができません。これらは人の操作や確認工程に起因するため、ミスを前提とした業務設計が不可欠です。

たとえば、メール誤送信対策として、送信前に宛先の確認を促す送信ポップアップ機能や、社外宛メールの上長承認機能、誤送信防止プラグインの導入が挙げられます。Web公開設定ミスに関しても、インフラやクラウドの構成変更があった際に自動スキャンを行い、パブリック設定になっていないかを検知するツール(例:AWS Config、Google Cloud Security Command Center)を活用することで、人的な設定漏れを検出できます。

また、ログ管理とアクセス権限の見直しも重要です。すべてのアクセスにログが残るよう設計し、特権アカウントの利用は最小限に限定すること。加えて、業務用データと個人情報の保存領域を明確に分離し、操作ログと監査ログを定期的にレビューすることで、内部不正や不要なアクセスを早期に検出できます。

運用の強化はまた、委託先業者の管理にも関わります。情報システムの一部や運用業務を外部に委託している場合、委託元は業者のセキュリティ管理状況について十分に把握し、必要に応じて監査や改善要請を行う責任があります。契約時点で「個人情報を取り扱う範囲」「漏洩発生時の責任」「監査義務」などを明確化しておくことが、事後の対応力を高めることにつながります。

体制面の対策

技術と運用を適切に機能させるためには、それを支える組織体制の整備が欠かせません。特に、**インシデント対応体制(CSIRT:Computer Security Incident Response Team)**の整備は、多くの企業で今後ますます重要性を増すと考えられます。インシデントの発生から初動、影響範囲の特定、再発防止策の策定、関係者への報告といった一連のプロセスを、標準化されたフローとして事前に準備しておく必要があります。

情報漏洩のような重大な問題が発生した際、どの部署が主導するのか、法務・広報との連携はどうするのか、顧客や行政機関への通知タイミングはどう定めるのか。これらを含めた事前準備と定期的な訓練がなければ、実際の発生時に組織が混乱し、対応が遅れるリスクが高くなります。

また、社内教育の継続的な実施も体制強化の一部です。情報セキュリティポリシーやガイドラインがあっても、それが日常業務に活用されていなければ意味がありません。eラーニングやワークショップ形式の教育機会を定期的に設け、過去の実例を使って理解を深める機会を設計することで、社員一人ひとりが自分の操作や判断がセキュリティにどう関わるかを自覚することができます。


このように、技術・運用・体制の三つの軸を個別に整備するだけでなく、それらを有機的に結びつけることが、現代におけるセキュリティ対策の基本といえます。脆弱性への即応、ヒューマンエラーの抑制、インシデント対応体制の整備——いずれも単独では機能せず、相互に支え合う形でのみ、実効性を発揮します。

次章では、こうした対策の導入を検討する際に、どこから着手すればよいか、どのように優先順位をつけて組織に適用していくかについて考察していきます。

まとめ

2025年に公表された一連の個人情報漏洩に関する報告は、技術的な脆弱性の悪用、業務上の不備、設定ミス、さらには外部サービスや委託先との連携に起因するものまで多岐にわたりました。特にIIJのセキュアMXサービスに関する不正アクセス事例は、その発覚までに長期間を要し、影響が大規模かつ多方面に及んだ点で、注目を集める事例となりました。これは、特定の企業だけでなく、クラウド型のサービスを利用するあらゆる組織にとって、他人事では済まされない現実を突きつけるものです。

こうした情報漏洩の要因を振り返ると、「最新のセキュリティ機器を導入していれば安心」という考え方が十分ではないことが分かります。むしろ、技術・体制・運用の三要素がそれぞれの役割を果たしながら、全体として一貫した方針に基づいて機能しているかどうかが問われています。たとえば、技術的に安全な仕組みが整っていても、設定ミスひとつで外部に情報が公開されてしまうことは現実に起こりうるリスクです。また、インシデント発生時に初動体制が整っていなければ、被害の拡大や社会的な信用失墜を招く恐れもあります。

特に注目すべきは、人間の判断や操作に起因する情報漏洩が依然として多いという点です。誤送信や誤設定、アクセス制御の見落としといったヒューマンエラーは、最新のセキュリティツールでは防ぎきれない領域であり、業務設計の中にリスクを想定したプロセスをあらかじめ組み込むことが重要です。システムに頼るのではなく、「人が失敗し得る」ことを前提に、二重確認や自動チェックといった仕組みを自然に埋め込んでいく必要があります。

一方で、技術面の対応についても過信は禁物です。脆弱性の早期発見・修正、通信と保存の両方における暗号化、侵入検知とログ監視の強化など、技術は「基盤」として支える存在であって、それ単体では組織の情報を守り切ることはできません。定期的なレビューと改善、そして自社で管理できない部分に対する透明性の確保(たとえばクラウドサービスのセキュリティステータスの可視化など)が、技術を「機能するもの」として活かすために不可欠です。

さらに、組織全体としてのセキュリティリテラシー向上も欠かせません。社内教育やシミュレーション訓練、CSIRTによる即応体制、委託先との連携強化など、一つの問題を部門任せにせず、横断的な対応ができる文化を育てていくことが、中長期的な信頼性の向上につながります。

今後の情報社会において、情報漏洩を完全にゼロにすることは現実的ではないかもしれません。しかし、被害の発生を減らし、起きた際の影響を最小限に抑える努力を積み重ねることは、すべての組織にとって避けられない責任です。本稿で紹介した考察や対策が、今後の情報セキュリティの見直しや施策立案の一助となれば幸いです。

参考文献

AI時代の詐欺の最前線──見破れない嘘と私たちが取るべき行動

2020年代後半に入り、生成AI技術は目覚ましい進歩を遂げ、便利なツールとして私たちの生活に急速に浸透してきました。しかしその一方で、この技術が悪用されるケースも増加しています。特に深刻なのが、AIを利用した詐欺行為です。この記事では、AIを悪用した詐欺の代表的な手口、なぜこうした詐欺が急増しているのか、そして企業と個人がどう対応すべきかを具体的に解説します。

私たちはこれまで、詐欺といえば「文面の日本語が不自然」「電話の声に違和感がある」など、いわば“違和感”によって真偽を見抜くことができていました。しかしAI詐欺は、そうした人間の直感すらも欺くレベルに達しています。「これは本物に違いない」と感じさせる精度の高さが、かえって判断力を鈍らせるのです。

AIを使った詐欺の主な手口とその実態

AI詐欺の代表的な手法は以下のようなものがあります。

音声ディープフェイク詐欺

AIによって特定の人物の声を模倣し、電話やボイスメッセージで本人になりすます詐欺です。企業の経理担当者などに対し、上司の声で「至急この口座に振り込んでくれ」と指示するケースがあります。海外では、CEOの声を真似た音声通話によって数億円が詐取された事件も報告されています。

映像ディープフェイク詐欺

Zoomなどのビデオ通話ツールで、偽の映像と音声を使って本人になりすます手法です。顔の動きやまばたきもリアルタイムで再現され、画面越しでは見抜けないほど自然です。香港では、企業の財務責任者が役員になりすました映像に騙され、数十億円を送金したという事例があります。

SNSやメッセージアプリでのなりすまし詐欺

有名人の顔や文章を模倣してSNSアカウントを作成し、ファンに対して投資話や寄付を持ちかける詐欺も増えています。また、チャットボットが本人らしい語り口で会話するなど、騙されるハードルが低くなっています。

AI生成レビュー・広告詐欺

AIが生成した偽レビューや商品広告を使って、詐欺的なECサイトに誘導するケースもあります。本物らしい写真や文章で商品を紹介し、偽の購入者の声まで自動生成することで信頼感を演出します。

なぜAI詐欺は増えているのか

AI詐欺が急増している背景には、いくつかの技術的・社会的要因があります。

まず、AIモデルの性能向上があります。たとえば音声合成やテキスト生成は、数分間の録音や数十件の投稿だけで特定の人物を精度高く模倣できるようになりました。また、オープンソースのAIツールやクラウドベースの生成APIが普及し、専門知識がなくても簡単にディープフェイクが作れるようになっています。

さらに、SNSや動画プラットフォームの拡散力も拍車をかけています。人々は「一番乗りで情報をシェアしたい」「注目を集めたい」という承認欲求から、情報の真偽を確かめずに拡散しやすくなっています。この環境下では、AIで作られたコンテンツが本物として瞬く間に信じられてしまいます。

こうした拡散衝動は、ときに善意と正義感から生まれます。「これは詐欺に違いない」と思って注意喚起のために共有した情報が、実は偽情報であったということも珍しくありません。つまり、AI詐欺は人々の承認欲求や正義感すらも利用して拡がっていくのです。

AI詐欺に対抗するための具体的な対策(企業と個人)

企業が取るべき技術的な対策

  1. 二要素認証(2FA)の導入:メール、社内ツール、クラウドサービスには物理キーや認証アプリによる2FAを徹底します。
  2. ドメイン認証(DMARC、SPF、DKIM)の設定:なりすましメールの送信を技術的にブロックするために、メールサーバー側の認証設定を整備します。
  3. AIディープフェイク検出ツールの導入:音声や映像の不正検出を行うAIツールを導入し、重要な会議や通話にはリアルタイム監視を検討します。
  4. 社内情報のAI入力制限:従業員がChatGPTなどに社内情報を入力することを制限し、ポリシーを明確化して漏洩リスクを最小化します。

企業が持つべきマインドセットと運用

  1. 重要な指示には別経路での確認をルール化:上司からの急な指示には、別の通信手段(内線、Slackなど)で裏を取る文化を定着させます。
  2. 「感情に訴える依頼は疑う」意識を徹底:緊急性や秘密厳守を強調された指示は、詐欺の典型です。冷静な判断を求める教育が不可欠です。
  3. 失敗を責めない報告文化の醸成:誤送金やミスの発生時に即報告できるよう、責めない風土を作ることがダメージを最小化します。

個人が取るべき技術的な対策

  1. SNSの公開範囲制限:顔写真や声、行動履歴などが詐欺素材にならないよう、投稿範囲を限定し、プライバシー設定を強化します。
  2. 不審な通話やメッセージへの応答回避:知らない番号からの通話には出ない、個人情報を聞き出す相手とは会話しないようにします。
  3. パスワード管理と2FAの併用:強力なパスワードを生成・管理するためにパスワードマネージャーを活用し、2FAと併用して乗っ取りを防止します。

個人が持つべきマインドセット

  1. 「本人に見えても本人とは限らない」という前提で行動:映像や声がリアルでも、信じ込まずに常に疑いの目を持つことが重要です。
  2. 急かされても一呼吸おく習慣を:詐欺師は焦らせて思考力を奪おうとします。「即決しない」を心がけることが有効です。
  3. 感情を利用した詐欺に注意:怒りや感動を煽るメッセージほど冷静に。心理操作に乗せられないために、客観視する力が必要です。

対策しきれないAI詐欺の代表的な手法

どれだけ技術的・心理的対策を行っても、完全に防ぎきれない詐欺も存在します。特に以下のようなケースはリスクが非常に高いです。

高度な音声ディープフェイクによる“本人のふり”

❌ 防ぎきれない理由:

  • 声の再現が非常にリアルで、本人でも一瞬見分けがつかないケースあり
  • 電話やボイスメッセージでは「表情」「振る舞い」など補足情報が得られず、確認困難
  • 特に“上司”や“親族”を装う緊急性の高い依頼は、心理的に確認プロセスをすっ飛ばされやすい

✅ 限界的に対処する手段:

  • 「合言葉」や「業務プロトコル」で裏取り
  • 電話では即応せず、別経路(SMS/Slack/対面)で“必ず”再確認する訓練

本人になりすました動画会議(映像+音声のdeepfake)

❌ 防ぎきれない理由:

  • Zoomなどのビデオ会議で、「顔」+「声」+「自然な瞬きやジェスチャー」が再現されてしまう
  • リアルタイム生成が可能になっており、事前に見抜くのは極めて困難
  • 画質が悪いと違和感を感じにくく、背景もそれっぽく加工されていれば判断不能

✅ 限界的に対処する手段:

  • あらかじめ「Zoomでの業務命令は無効」などのルールを組織で決めておく
  • 不自然な振る舞い(瞬きがない、目線が合わない、背景がぼやけすぎなど)を訓練で学ぶ

本人の文体を完全に模倣したメール詐欺

❌ 防ぎきれない理由:

  • 社内メールや過去のSNSポストなどからAIが“その人っぽい文体”を再現可能
  • 表現や改行、署名の癖すら真似されるため、違和感で気づくのがほぼ不可能
  • メールドメインも巧妙に類似したもの(typosquatting)を使われると見分け困難

✅ 限界的に対処する手段:

  • DMARC/SPF/DKIMによる厳格なドメイン認証
  • 「重要な指示はSlackまたは電話で再確認」の徹底

ターゲティングされたロマンス詐欺・リクルート詐欺

❌ 防ぎきれない理由:

  • SNSの投稿・所属企業・興味分野などをAIが収集・分析し、極めて自然なアプローチを仕掛ける
  • 会話も自動でパーソナライズされ、違和感が出にくい
  • 数週間~数か月かけて信頼を築くため、「疑う理由がない」状態が生まれる

✅ 限界的に対処する手段:

  • 新しい接触に対しては「オンラインであっても信用しすぎない」というマインドの徹底
  • 少しでも「金銭の話」が出た時点で危険と判断

ファクトチェックの重要性

SNS時代の最大の課題の一つが、事実確認(ファクトチェック)を飛ばして情報を拡散してしまうことです。AIが作った偽情報は、真に迫るがゆえに本物と見分けがつかず、善意の人々がその拡散に加担してしまいます。

特に「これは詐欺だ」「これは本物だ」「感動した」など、強い感情を引き起こす情報ほど慎重に扱うべきです。出典の確認、複数情報源での照合、一次情報の追跡など、地味で時間のかかる作業が、情報災害から身を守る最も有効な手段です。

まとめ

AI技術は私たちの生活を豊かにする一方で、その進化は新たな脅威ももたらします。詐欺行為はAIによってますます巧妙かつ見分けがつきにくくなり、もはや「違和感」で見抜ける時代ではありません。技術的な対策とマインドセットの両輪で、企業も個人もリスクを最小限に抑える努力が求められています。

大切なのは、”本人に見えるから信じる”のではなく、”本人かどうか確認できるか”で判断することです。そして、どんなに急いでいても一呼吸置く冷静さと、出典を確認する習慣が、AI詐欺から自分と周囲を守る鍵となります。

参考文献

偽CAPTCHAだけじゃない──アドテックの闇に潜む巧妙な詐欺手法たち

はじめに

2025年6月、KrebsOnSecurityが報じた「Inside a Dark Adtech Empire Fed by Fake CAPTCHAs」は、広告ネットワークを悪用した巧妙な詐欺の実態を明らかにしました。この記事では、偽のCAPTCHA画面を使ってユーザーに「通知許可」や「クリック」を誘導し、マルウェアや詐欺サイトへ誘導するという手口が詳しく解説されています。

しかし、こうした「偽CAPTCHA」に限らず、アドテック業界には多数の悪用技術が存在します。本記事では、今回のケースと類似する手法を分類・整理して紹介します。

1. 偽CAPTCHA+通知許可誘導

✔ どんな手口か?

  • CAPTCHA風の画面で「ロボットでないことを証明するには通知を許可してください」と表示
  • ユーザーが通知を許可すると、後日ポップアップで詐欺通知や偽ウイルス警告が表示される

✔ なぜ危険か?

  • 通知はブラウザのシステムレベルで表示され、偽物と気づきにくい
  • 被害が継続的かつ非同期に発生する

2. マルバタイジング(Malvertising)

✔ どんな手口か?

  • 正規の広告枠に悪意あるコードを紛れ込ませ、ユーザーをマルウェアに誘導
  • 攻撃者はDSP(広告配信プラットフォーム)を経由し、広告審査をすり抜けて掲載

✔ 代表例

  • Flashのゼロデイ脆弱性を突いたAngler Exploit Kit
  • 広告を見ただけで感染する“ドライブバイダウンロード”

3. トラフィック・ディストリビューション・システム(TDS)

✔ どんな手口か?

  • アクセス元のIP、ブラウザ、リファラーなどを分析し、悪意のあるユーザーには悪質サイトを、セキュリティ研究者や検索エンジンには無害なページを返す
  • Cloaking(クローク)と併用されることが多い

✔ 使用例

  • 記事で紹介された「VexTrio」や「LosPollos」はTDSを活用

4. アドフラウド(広告詐欺)

✔ どんな手口か?

  • ボットや人力で広告を不正にクリックし、広告主の費用を盗む
  • ドメインスプーフィングにより、広告枠が信頼できる媒体で表示されているように偽装

✔ 関連する詐欺タイプ

  • インプレッション詐欺
  • クリック詐欺
  • SDKインジェクション(モバイルアプリ内で他の広告を盗用)

5. スケアウェア広告

✔ どんな手口か?

  • 「あなたのPCはウイルスに感染しています」といった偽警告をポップアップで表示し、偽のウイルス対策ソフトを購入させる
  • 通知機能を悪用して持続的に表示される

✔ なぜ防げない?

  • ブラウザ通知やOSのUIを模倣して表示するため、ユーザーは本物と誤認しやすい

6. ブラウザ通知の悪用

✔ どんな手口か?

  • アクセス初回に「通知を許可してください」と表示(偽CAPTCHAなどを通じて)
  • 許可後、外部から詐欺メッセージを継続配信(通知ポップアップで表示)

7. 被害が発生する経路の可視化

[通常サイト] → [乗っ取りWordPressサイト] → [TDS] → [偽CAPTCHA or 偽ニュース] → [通知許可] → [ブラウザ通知で詐欺表示]

このように、一見正規に見えるサイトやキャプチャが、攻撃の入り口になっている点が恐ろしいところです。

8. 対策と啓発

利用者側の対策サイト運営者の対策
通知許可を不用意に出さない広告ブロッカーを使うWordPressなどCMSの更新を徹底アフィリンクのチェック
セキュリティソフトやDNSフィルターの導入広告配信ネットワークの審査強化
ブラウザの「通知」設定を見直す正規のTDSや配信スクリプト以外は使わない

おわりに

偽のCAPTCHAや通知誘導は、ユーザーの「当たり前の行動」を逆手に取る非常に巧妙な手口です。しかも、広告の仕組みを利用するため、攻撃者は非常に広範囲なユーザーにアプローチ可能です。

便利で無料なサービスがあふれる一方で、こうした「裏側のビジネス」や「トラフィックの悪用」が広がっていることも、ぜひ知っておいてください。

📚 参考文献

  1. Inside a Dark Adtech Empire Fed by Fake CAPTCHAs
    https://krebsonsecurity.com/2025/06/inside-a-dark-adtech-empire-fed-by-fake-captchas/
  2. What is Malvertising? – NortonLifeLock
    https://us.norton.com/blog/malware/what-is-malvertising
  3. Traffic Distribution Systems Explained – Kaspersky Threat Intelligence
    https://www.kaspersky.com/resource-center/threats/traffic-distribution-systems
  4. Ad Fraud Tactics and Techniques – White Ops (now HUMAN)
    https://www.humansecurity.com/blog/understanding-ad-fraud
  5. Scareware and Fake Virus Alerts – Malwarebytes Labs
    https://www.malwarebytes.com/scareware
  6. Browser Notification Abuse by Fake Sites – BleepingComputer
    https://www.bleepingcomputer.com/news/security/scammers-abuse-browser-push-notifications-to-serve-scareware-ads/
  7. GoDaddy Security Report on WordPress Redirects (2024)
    https://www.godaddy.com/security/wordpress-site-hacks-and-redirects-2024
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