コーズリレーテッド・マーケティングとは ― 社会貢献とビジネスを両立させる戦略

近年、企業の社会的責任(CSR)やサステナビリティへの関心が高まり、社会課題の解決と経済活動を両立させる取り組みが求められるようになっています。その中で注目を集めているのが「コーズリレーテッド・マーケティング(Cause-Related Marketing)」という手法です。

これは、企業が特定の社会的課題や公益的活動を支援しながら、自社の商品やサービスの販売促進を行うマーケティング戦略を指します。たとえば、売上の一部を寄付する、特定の団体と連携してキャンペーンを実施するなど、消費者が商品を購入することで間接的に社会貢献に参加できる仕組みです。

単なる寄付やCSR活動と異なり、コーズリレーテッド・マーケティングは「企業・消費者・社会の三者が利益を得る構造」を特徴としています。本記事では、その仕組みや歴史的背景、国内外の代表的な事例を通じて、この手法の意義と課題をわかりやすく解説します。

コーズリレーテッド・マーケティングとは

コーズリレーテッド・マーケティング(Cause-Related Marketing、以下CRM)とは、企業が自社のマーケティング活動と社会的課題の支援を結びつける手法を指します。具体的には、商品の購入やサービスの利用といった消費行動を通じて、特定の社会的目的(コーズ:Cause)に貢献できる仕組みを構築するものです。日本語では「社会貢献型マーケティング」や「チャリティー連動型マーケティング」とも呼ばれます。

CRMの本質は、単なる寄付や慈善活動ではなく、企業の販売促進と社会的価値の創出を両立する点にあります。たとえば「対象商品1点の購入につき○円を環境保護団体に寄付する」といったキャンペーンでは、企業は売上を伸ばしながらブランド価値を高め、消費者は購買を通じて自然に社会貢献に参加できます。このように、企業・消費者・社会の三者が利益を享受する「三方良し」の構造を持つことがCRMの基本理念です。

特徴

CRMには、以下のような主要な特徴があります。

  • 消費者参加型の社会貢献
  • 企業と非営利団体の協働
  • ブランド価値の向上
  • 販売促進効果

この手法の大きな魅力は、消費者が自発的に社会貢献に参加できる点です。従来の寄付活動は特定の層に限られていましたが、CRMでは「買うこと自体が支援になる」ため、幅広い層に浸透しやすいという特性があります。

また、企業と非営利団体が協働することで、資金力と専門知識を組み合わせ、より持続的かつ効果的な支援を実現できます。結果として、社会的テーマに対する企業の関与が強まり、ブランドイメージや顧客ロイヤルティの向上につながります。

メリット

CRMを導入することで、企業は経済的な成果と社会的な評価の両方を得ることができます。主なメリットは以下の通りです。

  • ブランド価値と信頼性の向上
  • 顧客ロイヤルティの強化と新規顧客獲得
  • CSR・SDGsとの整合性確保
  • 社会的メッセージを通じた差別化

CRMによって、企業は単なる商品販売から一歩進んだ「共感を生むブランド」として認知されるようになります。特に、社会課題への意識が高い若年層に対しては、共感を軸とした購買行動(エシカル消費)を促進する効果もあります。さらに、CSRやSDGsと連動することで、企業活動全体の信頼性を高める効果も期待されます。

デメリット・課題

一方で、CRMには慎重な設計が求められます。主な課題は次の通りです。

  • グリーンウォッシングのリスク(見せかけの社会貢献)
  • 成果の測定や透明性の確保が困難
  • 非営利団体との目的不一致による信頼低下
  • 実施コストや運営負担の発生

活動内容が実態を伴わない場合、消費者から「偽善的」と批判される恐れがあります。また、社会貢献の成果を客観的に可視化することは容易ではなく、透明性をどのように担保するかが重要な課題です。加えて、連携先の非営利団体との間で理念や運営方針に差があると、かえって信頼を損ねる可能性もあります。

このように、コーズリレーテッド・マーケティングは「社会的意義と経済的成果を両立させる高度な戦略」であり、企業の誠実な姿勢と長期的な視点が不可欠です。次章では、この手法がどのように誕生し、世界に広がっていったのか、その歴史的背景を見ていきます。

歴史的な流れ

コーズリレーテッド・マーケティング(CRM)の起源は、1980年代初頭のアメリカにさかのぼります。この時期、企業の社会的責任(CSR)という概念が広まり、社会貢献と経済活動の両立を模索する動きが活発化していました。そうした流れの中で、企業活動を通じて社会的課題を支援する新たなマーケティング手法としてCRMが誕生しました。

1. 起源 ― アメリカン・エクスプレスの自由の女神修復キャンペーン(1983年)

CRMという言葉が広く知られるきっかけとなったのは、1983年にアメリカン・エクスプレス社(American Express)が実施した「自由の女神修復キャンペーン」です。これは、ニューヨーク港にある自由の女神像の修復資金を集めるための全国規模の寄付活動で、次のような仕組みで行われました。

  • カード利用1回ごとに1セントを寄付
  • 新規カード発行1枚につき1ドルを寄付

キャンペーン期間中、アメリカン・エクスプレスのカード利用件数は約28%増加し、新規カード申込も大幅に伸びました。その結果、同社は大きな売上増加を達成すると同時に、自由の女神修復基金に150万ドル以上を寄付しました。

この成功例は、「企業が社会貢献を通じてブランド価値と業績を同時に高めることができる」ということを実証し、CRMの草分けとして高く評価されています。

2. 理論化 ― マーケティング学への定着(1990年代)

1980年代後半から1990年代にかけて、CRMは学術的にも注目されるようになりました。とくに、マーケティング学者のフィリップ・コトラー(Philip Kotler)ジェラルド・ザルトマン(Gerald Zaltman)らが提唱したソーシャル・マーケティング(Social Marketing)の概念がCRMの理論的基盤となりました。

ソーシャル・マーケティングは、社会的に望ましい行動を広めるためにマーケティングの手法を応用する考え方です。CRMはその商業的応用形として位置づけられ、企業が利益を追求しながら社会的課題に貢献できる仕組みとして発展していきました。

この時期には、CRMを企業戦略の一環として取り入れる動きが欧米で広まり、消費者の社会意識の高まりと相まって、主要ブランドのマーケティング活動に組み込まれるようになりました。

3. 展開 ― CSR・CSV・SDGsとの統合(2000年代以降)

2000年代以降、企業の社会的活動は単なる慈善やイメージ戦略にとどまらず、CSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)の枠組みの中で位置づけられるようになりました。CRMはその実践的手段のひとつとして重視され、企業のブランド戦略や社会的評価と密接に結びつくようになります。

さらに2010年代以降は、CSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)SDGs(持続可能な開発目標)の広がりとともに、CRMはより長期的・構造的な社会課題解決の手法として再評価されています。企業は単発のキャンペーンではなく、事業戦略の一部として持続可能な支援体制を構築する方向へと進化しました。


このように、コーズリレーテッド・マーケティングは1980年代のアメリカで生まれ、1990年代に理論的基盤を得て、2000年代以降はCSR・SDGs時代の中心的なマーケティング戦略として発展してきました。次章では、この手法が日本でどのように受け入れられ、どのような形で実践されているのかを具体的な事例をもとに見ていきます。

日本における代表的な事例

日本におけるコーズリレーテッド・マーケティング(CRM)は、1990年代以降、社会的課題に関心を持つ企業の増加とともに広がってきました。特に環境保全、医療支援、地域社会の支援といった分野で多くの事例が見られます。以下では、代表的な取り組みを紹介します。

1. ロッテ「コアラのマーチ基金」

テーマ:環境保護・動物保護
株式会社ロッテは、1984年の「コアラのマーチ」発売当初から、商品モチーフであるコアラの保護活動を支援しています。1994年に設立された「コアラのマーチ基金」を通じて、オーストラリアのコアラ保護団体への寄付や森林再生活動を継続しています。消費者は商品を購入することで自然保護活動に貢献できる仕組みとなっており、日本におけるCRMの先駆け的事例とされています。

2. 花王「ピンクリボン活動」

テーマ:乳がん検診の啓発
花王株式会社は、女性向け化粧品ブランドを中心に乳がん検診の啓発活動を支援しています。毎年10月の「ピンクリボン月間」には、限定パッケージ商品の販売やキャンペーンを実施し、売上の一部を公益財団法人日本対がん協会などの活動に寄付しています。この取り組みは、社会的意識を高めつつ、女性の健康を支援するブランドイメージの強化にも寄与しています。

3. サントリー「天然水の森プロジェクト」

テーマ:森林保全・水資源保護
サントリーホールディングス株式会社は、「水と生きる」という企業理念のもと、2003年に「天然水の森」プロジェクトを開始しました。これは、全国各地の水源林を保全し、持続可能な水循環を維持する活動で、清涼飲料「サントリー天然水」の販売とも連動しています。企業の中核事業と社会貢献を統合した代表的なCRMの事例といえます。

4. ファミリーマート「こども食堂支援」

テーマ:地域社会支援・子どもの貧困対策
株式会社ファミリーマートは、全国のこども食堂を支援する活動を展開しています。対象商品の販売収益の一部をNPO法人「全国こども食堂支援センター・むすびえ」などに寄付し、地域の子どもたちへの食支援を推進しています。コンビニエンスストアという日常的な接点を通じて、消費者が身近に社会貢献できる仕組みを実現しています。

5. 資生堂「ピンクリボンキャンペーン」

テーマ:女性の健康支援
株式会社資生堂も、乳がんの早期発見を目的とするピンクリボン活動を長年にわたり支援しています。限定デザイン商品の販売や検診啓発イベントを通じて、売上の一部を関連団体に寄付しています。さらに、社員教育や社内検診の推進など、企業内部にも活動を広げている点が特徴です。


これらの事例はいずれも、単なる寄付活動ではなく、企業のブランド価値や事業活動と密接に結びついた持続的な社会貢献モデルとして成立しています。日本では特に「身近な購買を通じた支援」が重視され、消費者の共感を呼ぶ形で定着してきました。次章では、こうした考え方がどのようにアメリカで生まれ、グローバルに発展していったのかを具体的な事例を交えて解説します。

アメリカにおける代表的な事例

コーズリレーテッド・マーケティング(CRM)は、アメリカで発祥し、その後多くの企業によって発展してきました。特に1980年代以降、社会的課題の解決を企業活動の一部として取り込む動きが広がり、企業ブランドの信頼性を高める手法として定着しました。以下では、アメリカを代表する主要なCRMの事例を取り上げます。

1. アメリカン・エクスプレス「自由の女神修復キャンペーン」

テーマ:文化財保護・歴史的建造物の保存
1983年、アメリカン・エクスプレス社(American Express)は、ニューヨークの自由の女神像の修復プロジェクトを支援する全国規模のキャンペーンを展開しました。内容は、「カード利用1回につき1セント、カード発行1枚につき1ドルを修復基金に寄付する」というものです。この取り組みにより、約150万ドルが寄付されるとともに、カード利用率は前年比28%増、新規会員数も顕著に伸びました。
この成功が「コーズリレーテッド・マーケティング」という言葉を広く知らしめるきっかけとなり、以後の企業の社会貢献活動のモデルケースとなりました。

2. (PRODUCT)RED キャンペーン

テーマ:感染症対策(HIV/AIDS・マラリアなど)
2006年、アイルランドの歌手ボノ(Bono)と活動家ボビー・シュライバー(Bobby Shriver)が設立したグローバルな社会貢献プロジェクトです。Apple、Nike、Starbucks、Coca-Colaなど世界的企業が参加し、(PRODUCT)REDのブランドを冠した商品を販売しています。各商品の売上の一部がグローバル基金(The Global Fund)を通じてHIV/AIDS、マラリア、結核対策に充てられています。企業はブランド価値の向上を図ると同時に、数億ドル規模の寄付金が集まり、国際的な公衆衛生の改善に貢献しています。

3. TOMS「One for One」モデル

テーマ:貧困・教育支援
靴ブランドのTOMSは、創業当初から「One for One(ワン・フォー・ワン)」の理念を掲げています。これは、靴を1足購入するごとに、発展途上国の子どもたちに1足を寄付するという仕組みです。この取り組みは2006年に開始され、以後、数千万人規模の子どもたちに靴が提供されました。TOMSは単なる寄付ではなく、社会課題をビジネスモデルの中心に据えた点でCRMの発展形といえます。後年は眼鏡や飲料事業にも展開し、「社会的企業(Social Enterprise)」の代表格となりました。

4. Ben & Jerry’s「フェアトレードと社会正義の推進」

テーマ:公正取引・環境保護・人権支援
アイスクリームブランドのBen & Jerry’sは、創業以来、社会的公正を重視した経営を行ってきました。原材料にはフェアトレード認証を受けたカカオやバニラを使用し、持続可能な農業支援を推進しています。また、LGBTQ+の権利擁護や気候変動対策など、政治・社会問題にも積極的に発言しています。同社の取り組みは「倫理的ブランド」の象徴とされ、製品購入を通じて社会的価値に共感する消費者層を獲得しています。

5. Patagonia「環境保護と消費行動の見直し」

テーマ:環境保全・持続可能な消費
アウトドアブランドのPatagoniaは、「地球を救うためにビジネスを営む」という理念を掲げ、製品売上の1%を自然環境保護団体に寄付しています。さらに、「新しい製品を買わずに修理して使う」ことを推奨するキャンペーンを展開するなど、利益よりも環境保全を優先する姿勢を明確に打ち出しています。このように、Patagoniaはマーケティング活動自体を社会的メッセージとして機能させており、CRMの枠を超えた先進的な事例と評価されています。


これらの事例に共通するのは、社会課題の解決を一時的なキャンペーンではなく企業理念の一部として取り込んでいる点です。アメリカでは、消費者が企業の社会的姿勢を重視する傾向が強く、CRMはブランド信頼の基盤として確立しています。次章では、この流れを踏まえ、現代におけるCRMの展開と課題について整理します。

現代における展開と課題

コーズリレーテッド・マーケティング(CRM)は、21世紀に入り、単発の寄付型キャンペーンから企業経営の根幹に組み込まれた戦略的マーケティング手法へと進化しました。特にSDGs(持続可能な開発目標)の浸透やエシカル消費の拡大が、CRMを新たな形で発展させる原動力となっています。

1. SDGsとの連動と「共感消費」の拡大

2015年に国連が採択したSDGs(Sustainable Development Goals)は、企業が社会的課題にどのように関わるかを定義する国際的な指標となりました。多くの企業がSDGsを経営戦略に組み込み、マーケティング活動を通じてその達成に寄与しようとしています。CRMはこの動きと非常に親和性が高く、「社会的インパクトを生み出すマーケティング」として再注目されています。

また、消費者側でも「価格や品質」だけでなく「社会的意義」や「企業姿勢」を重視して商品を選ぶ傾向が強まっています。特にミレニアル世代やZ世代では、社会的課題への関心が高く、共感を基盤とした「共感消費(Empathy-driven Consumption)」が拡大しています。企業はこの価値観変化に応えるため、単なる寄付型キャンペーンではなく、継続的で透明性の高い社会貢献モデルを求められるようになっています。

2. デジタル技術とCRMの融合

現代のCRMはデジタルマーケティングと密接に結びついています。SNSを通じたキャンペーン告知や、購入履歴に基づく個別寄付モデル、ブロックチェーンを活用した寄付トレーサビリティ(寄付金の流れの可視化)など、テクノロジーがCRMの透明性と参加しやすさを支えています。

また、クラウドファンディングやサブスクリプション型寄付のように、消費者が継続的に支援できる仕組みも広がっています。こうした動きは、企業と消費者の関係を単なる取引ではなく、社会的価値を共創するパートナーシップへと変化させています。

3. 企業信頼の試金石としてのCRM

現代の消費者は、企業の社会貢献活動に対して高い倫理的基準を求めています。そのため、CRMは企業の誠実さを示す「信頼のバロメーター」としての役割を担うようになりました。

しかし同時に、実態が伴わない形だけの社会貢献、いわゆる「グリーンウォッシング(Greenwashing)」が批判される事例も増えています。社会課題への取り組みが表面的であると判断されれば、ブランドの信頼を大きく損なう可能性があります。

そのため、企業には次の3点が求められます。

  1. 透明性の確保:寄付金や活動内容を具体的に公開し、成果を定量的に示すこと。
  2. 継続性の担保:短期的なキャンペーンに終わらず、長期的な支援体制を整えること。
  3. 事業との一貫性:企業のビジョンやコア事業と社会的テーマを結びつけること。

これらを満たすことで、CRMは単なる広報活動ではなく、企業文化としての社会的責任の表明へと昇華します。

4. 今後の方向性

今後のCRMは、単に「販売と寄付を結びつける」段階を超え、社会課題解決型ビジネス(Social Impact Business)へと発展していくと考えられます。環境、教育、医療、地域活性化など、企業が自らの強みを活かして社会に貢献する枠組みが主流になるでしょう。

さらに、AI・データ分析を活用した「インパクト測定(Impact Measurement)」の進展により、企業の取り組みがどれほど社会に貢献しているかを可視化できるようになりつつあります。これにより、企業の社会的価値が定量的に評価される時代が到来しつつあります。


現代のコーズリレーテッド・マーケティングは、単なる慈善活動やイメージ戦略ではなく、企業の存在意義を問う実践的枠組みへと変化しています。企業の誠実さ、透明性、継続性がより強く求められる中で、CRMは「社会とともに成長する企業像」を体現する重要な手段として、今後さらに発展していくと考えられます。

おわりに

コーズリレーテッド・マーケティング(CRM)は、単なる企業の社会貢献活動を超え、社会的価値と経済的価値を同時に創出するマーケティング手法として確立されました。1980年代のアメリカで誕生して以来、世界各国に広がり、日本でも企業理念と連動した長期的な取り組みが増えています。

現代のCRMは、SDGsやエシカル消費といった潮流の中で、より戦略的かつ持続可能な形へと進化しています。消費者は「何を買うか」だけでなく、「どのような企業から買うか」を重視するようになり、企業は誠実さや透明性、社会的責任を行動で示すことが求められています。

今後、企業が成長を続けるためには、単に利益を追求するだけでなく、社会課題の解決を自らの存在意義と結びつける姿勢が不可欠です。コーズリレーテッド・マーケティングは、その実現に向けた有効な手段であり、企業と消費者が共に社会をより良くしていくための架け橋として、今後も重要性を増していくでしょう。

参考文献

国連が「AIモダリティ決議」を採択 ― 国際的なAIガバナンスに向けた第一歩

2025年8月26日、国連総会は「AIモダリティ決議(A/RES/79/325)」を全会一致で採択しました。この決議は、人工知能(AI)の発展がもたらす機会とリスクの双方に国際社会が対応するための仕組みを整える、極めて重要なステップです。

ここ数年、AIは生成AIをはじめとする技術革新によって急速に進化し、教育・医療・金融・行政など幅広い分野で活用が広がっています。その一方で、偽情報の拡散、差別やバイアスの助長、サイバー攻撃の自動化、著作権侵害など、社会に深刻な影響を与えるリスクも顕在化してきました。こうした状況を受け、各国政府や企業は独自にルール作りを進めてきましたが、技術のグローバル性を踏まえると、国際的な共通ルールや協調枠組みが不可欠であることは明らかです。

今回の「AIモダリティ決議」は、その国際的なAIガバナンス(統治の仕組み)の出発点となるものです。この決議は新たに「独立国際科学パネル」と「グローバル対話」という二つの仕組みを設け、科学的な知見と多国間協議を両輪に据えて、AIの発展を人類全体にとって安全かつ公平な方向へ導くことを狙っています。

ニュースサイト TechPolicy.press も次のように強調しています。

“The UN General Assembly has reached consensus on AI governance modalities, now comes the hard part: implementation.”

(国連総会はAIガバナンスの方式について合意に達した。課題はこれをどう実行するかだ。)

この決議は「最終解決策」ではなく、むしろ「これからの議論の土台」として位置づけられます。しかし、全会一致という形で国際的な合意が得られた点に、世界がAIの未来に対して持つ強い危機感と期待が表れています。

AIガバナンスとは?

AIガバナンスとは、人工知能(AI)の開発・利用・普及に伴うリスクを管理し、社会全体にとって望ましい方向へ導くための枠組みやルールの総称です。

「ガバナンス(governance)」という言葉は本来「統治」「管理」「方向付け」を意味します。AIガバナンスは単なる法規制や監督にとどまらず、倫理的・法的・技術的・社会的な観点を総合的に調整する仕組みを指します。

なぜAIガバナンスが必要なのか

AIは、膨大なデータを分析し、自然言語を生成し、画像や音声を理解するなど、これまで人間にしかできなかった知的活動の一部を代替・補完できるようになりました。教育・医療・金融・行政サービスなど、私たちの生活のあらゆる場面に入り込みつつあります。

しかし同時に、以下のようなリスクが深刻化しています。

  • 偏見・差別の助長:学習データに含まれるバイアスがそのままAIの判断に反映される。
  • 誤情報や偽情報の拡散:生成AIが大量のフェイクニュースやディープフェイクを生み出す可能性。
  • プライバシー侵害:監視社会的な利用や個人データの不適切利用。
  • 責任の不明確さ:AIが誤った判断をした場合に誰が責任を取るのかが曖昧。
  • 安全保障リスク:サイバー攻撃や自律兵器システムへの悪用。

こうした問題は一国単位では解決が難しく、AIの国際的な流通や企業活動のグローバル性を考えると、各国が協力し、共通のルールや基準を整備する必要があるのです。

ガバナンスの対象領域

AIガバナンスは多岐にわたります。大きく分けると以下の領域が挙げられます。

  • 倫理(Ethics)
    • 公平性、透明性、差別防止といった価値を尊重する。
  • 法制度(Law & Regulation)
    • 個人情報保護、知的財産権、責任の所在を明確化する。
  • 技術的管理(Technical Governance)
    • 説明可能性(Explainable AI)、安全性検証、セキュリティ対策。
  • 社会的影響(Social Impact)
    • 雇用の変化、教育の在り方、公共サービスへの影響、途上国支援など。

各国・国際機関の取り組み例

  • EU:世界初の包括的規制「AI Act(AI規制法)」を2024年に成立させ、安全性やリスク分類に基づく規制を導入。
  • OECD:2019年に「AI原則」を採択し、国際的な政策協調の基盤を整備。
  • 国連:今回の「AIモダリティ決議」をはじめ、国際的な科学パネルや対話の場を通じた枠組みを模索。

AIガバナンスとは「AIを単に技術的に発展させるだけでなく、その利用が人権を尊重し、公平で安全で、持続可能な社会の実現につながるように方向付ける仕組み」を意味します。今回の決議はまさに、そのための国際的な基盤づくりの一環といえるのです。

決議の内容

今回採択された「AIモダリティ決議(A/RES/79/325)」では、国際社会がAIガバナンスに取り組むための具体的な仕組みが明記されました。特徴的なのは、科学的知見を整理する独立機関と、各国・関係者が集まって議論する対話の場という二つの柱を設けた点です。

1. 独立国際科学パネル(Independent International Scientific Panel on AI)

このパネルは、世界各地から選ばれた最大40名の専門家によって構成されます。研究者、技術者、法律家などが「個人の資格」で参加し、特定の国や企業の利害に縛られない独立性が強調されています。

役割は大きく分けて次の通りです。

  • 年次報告書の作成:AIの最新動向、リスク、社会への影響を科学的に整理し、各国政府が参考にできる形でまとめる。
  • テーマ別ブリーフ:必要に応じて、例えば「教育分野のAI利用」や「AIと安全保障」といった特定テーマに絞った報告を出す。
  • 透明性と公正性:利益相反の開示が義務付けられ、また地域的・性別的なバランスを配慮して構成される。

この仕組みによって、政治や経済の思惑に左右されず、科学的エビデンスに基づいた知見を国際社会に提供することが期待されています。

2. AIガバナンスに関するグローバル対話(Global Dialogue on AI Governance)

一方で、この「対話の場」は国連加盟国に加え、民間企業、学界、市民社会など幅広いステークホルダーが参加できるよう設計されています。AIは技術企業だけでなく市民の生活や人権に直結するため、多様な声を集めることが重視されています。

特徴は以下の通りです。

  • 年次開催:年に一度、ニューヨークやジュネーブで開催。科学パネルの報告書を土台に議論が行われる。
  • 多層的な議論:政府首脳級のセッションから、専門家によるテーマ別ワークショップまで、複数レベルで意見交換。
  • 共通理解の形成:次回以降の議論テーマや優先課題は、各国の合意を経て決められる。
  • 途上国の参加支援:経済的に不利な立場にある国々が参加できるよう、渡航費用やリソースの支援が検討されている。

この「グローバル対話」を通じて、各国は自国の政策だけでは解決できない問題(例えばAIによる越境データ利用や国際的なサイバーリスク)について、共同で方針を模索することが可能になります。

モダリティ決議の特徴

「モダリティ(modalities)」という言葉が示すように、この決議は最終的な規制内容を定めたものではなく、「どのように仕組みを作り運営していくか」という方式を定めたものです。

つまり、「AIを国際的に管理するための道筋」をつける段階であり、今後の実務的な議論や具体的規制に向けた準備といえます。

全体像

整理すると、今回の決議は次のような構造を持っています。

  • 科学パネル → 専門的・中立的な知見を提供
  • グローバル対話 → 各国・関係者が意見交換し、共通理解を形成
  • 国連総会 → これらの成果を基に将来のルールや政策に反映

この三層構造によって、科学・政策・実務をつなぐ仕組みが初めて国際的に制度化されたのです。

モダリティとは?

「モダリティ(modalities)」という言葉は、日常会話ではあまり耳にすることがありません。しかし、国連や国際機関の文書ではしばしば使われる用語で、「物事を実施するための方式・手続き・運営方法」を指します。

一般的な意味

英語の modality には「様式」「形式」「手段」といった意味があります。たとえば「学習モダリティ」というと「学習の仕方(オンライン学習・対面授業など)」を表すように、方法やアプローチの違いを示す言葉です。

国連文書における意味

国連では「モダリティ決議(modalities resolution)」という形式で、新しい国際的な仕組みや会議を設立するときの運営ルールや枠組みを決めるのが通例です。

たとえば過去には、気候変動関連の会議(COPなど)や持続可能な開発目標(SDGs)に関する国連プロセスを立ち上げる際にも「モダリティ決議」が採択されてきました。

つまり、モダリティとは「何を議論するか」よりもむしろ「どうやって議論を進めるか」「どのように仕組みを運営するか」を定めるものなのです。

AIモダリティ決議における意味

今回の「AIモダリティ決議(A/RES/79/325)」は、AIに関する国際的なガバナンス体制を築くために、以下の点を方式として定めています。

  • どのような新しい組織を作るか:独立国際科学パネルとグローバル対話の設置。
  • どのように人材を選ぶか:40名の専門家を地域・性別バランスを考慮して選出。
  • どのように運営するか:年次報告書の作成や年1回の会議開催、参加者の範囲など。
  • どのように次の議論につなげるか:報告や対話の成果を国連総会や将来の国際協定に反映させる。

言い換えると、この決議はAIに関する「最終的な規制内容」や「禁止事項」を決めたものではありません。むしろ、「AIに関する国際的な話し合いをどういう形で進めるか」というルール作りを行った段階にあたります。

重要なポイント

  • モダリティは「枠組み設計」にあたり、まだ「具体的規制」には踏み込んでいない。
  • しかし、この設計がなければ科学パネルや対話の場そのものが成立しないため、将来の国際的合意に向けた基礎工事とも言える。
  • 全会一致で採択されたことで、世界各国が少なくとも「AIガバナンスに関する話し合いのルールを作る必要性」については合意したことを示す。

「モダリティ」とはAIガバナンスの国際的な議論を進めるための“設計図”や“道筋”を意味する言葉です。今回の決議はその設計図を正式に承認した、という位置づけになります。

意義と課題

意義 ― なぜ重要なのか

今回の「AIモダリティ決議」には、いくつかの大きな意義があります。

  • 国際的な合意形成の象徴 決議は投票ではなく「全会一致(コンセンサス)」で採択されました。国際政治の場では、先端技術に関する規制や管理は各国の利害が衝突しやすく、合意が難しい領域です。その中で、少なくとも「AIガバナンスに向けて共通の議論の場を持つ必要がある」という認識が一致したことは、歴史的に重要な前進といえます。
  • 科学と政策の橋渡し 独立した科学パネルが定期的に報告を出す仕組みは、エビデンスに基づいた政策形成を可能にします。政治や経済の思惑から距離を置き、客観的なデータや知見に基づいて議論を進めることで、より現実的かつ持続可能なAIの管理が期待できます。
  • 多様な声を取り込む枠組み グローバル対話には各国政府だけでなく、企業、市民社会、学界も参加可能です。AIは社会全体に影響を与える技術であるため、専門家だけでなく利用者や市民の視点を反映できることはガバナンスの正当性を高める要素になります。
  • 国際的枠組みの基盤形成 この決議自体は規制を設けるものではありませんが、将来の国際協定や法的枠組みにつながる「基礎工事」として機能します。気候変動対策が最初に国際会議の枠組みから始まり、最終的にパリ協定へと結実したように、AIでも同様の流れが期待されます。

課題 ― 何が問題になるのか

同時に、この決議は「第一歩」にすぎず、解決すべき課題も数多く残されています。

  • 実効性の欠如 科学パネルの報告やグローバル対話の結論には、法的拘束力がありません。各国がそれをどの程度国内政策に反映するかは不透明であり、「結局は参考意見にとどまるのではないか」という懸念があります。
  • リソースと予算の不足 決議文では「既存の国連リソースの範囲内で実施する」とされています。新たな資金や人員を確保できなければ、報告や対話の質が十分に担保されない可能性があります。
  • 専門家選定の政治性 科学パネルの専門家は「地域バランス」「性別バランス」を考慮して選出されますが、これは時に専門性とのトレードオフになります。どの国・地域から誰を選ぶのか、政治的な駆け引きが影響するリスクがあります。
  • 技術の変化への遅れ AI技術は月単位で進化しています。年1回の報告では動きに追いつけず、パネルの評価が発表時には既に古くなっているという事態も起こり得ます。「スピード感」と「慎重な議論」の両立が大きな課題です。
  • 他の枠組みとの競合 すでにEUは「AI法」を成立させており、OECDや各国も独自の原則や規制を整備しています。国連の取り組みがそれらとどう整合するのか、二重規制や権限の重複をどう避けるのかが問われます。

今後の展望

AIモダリティ決議は、「規制そのもの」ではなく「規制を議論する場」を作ったにすぎません。したがって、実際に効果を持つかどうかはこれからの運用次第です。

  • 科学パネルがどれだけ信頼性の高い報告を出せるか。
  • グローバル対話で各国が率直に意見を交わし、共通の理解を積み重ねられるか。
  • その成果を、各国がどの程度国内政策に反映するか。

これらが今後の成否を決める鍵になります。


この決議は「AIガバナンスのための国際的な対話の土台」を作ったという点で非常に大きな意義を持ちます。しかし、拘束力やリソースの不足といった限界も明らかであり、「机上の合意」にとどめず実効性を確保できるかどうかが最大の課題です。

まとめ

今回の「AIモダリティ決議(A/RES/79/325)」は、国連総会が全会一致で採択した歴史的な枠組みです。AIという急速に進化する技術に対して、科学的な知見の集約(科学パネル)多国間での対話(グローバル対話)という二つの仕組みを制度化した点は、今後の国際協調の基盤になるといえます。

記事を通じて見てきたように、この決議の意義は主に次の四点に集約されます。

  • 各国がAIガバナンスの必要性を認め、共通の議論の場を設けることに合意したこと。
  • 科学パネルを通じて、政治的利害から独立した専門知見を政策に反映できる仕組みが整ったこと。
  • グローバル対話を通じて、多様なステークホルダーが議論に参加する可能性が開かれたこと。
  • 将来の国際規範や法的枠組みへと発展するための「基礎工事」が始まったこと。

一方で課題も少なくありません。報告や議論に法的拘束力がなく、各国が実際に政策に反映するかは不透明です。また、予算や人員が十分に確保されなければ、科学パネルの活動は形骸化する恐れがあります。さらに、技術の進化スピードに制度が追いつけるのか、既存のEU規制やOECD原則との整合をどう図るのかも難題です。

こうした点を踏まえると、この決議は「最終回答」ではなく「出発点」と位置づけるのが正確でしょう。むしろ重要なのは、これを契機として各国政府、企業、学界、市民社会がどのように関与し、実効性を持たせていくかです。AIガバナンスは抽象的な概念にとどまらず、教育や医療、行政サービス、さらには日常生活にまで直結するテーマです。

読者である私たちにとっても、これは決して遠い世界の話ではありません。AIが生成する情報をどう信頼するのか、個人データをどのように守るのか、職場でAIをどう使うのか。これらはすべてAIガバナンスの延長線上にある具体的な課題です。

今回の決議は、そうした問いに対して国際社会が「まずは共通の議論の場をつくろう」と動き出したことを示しています。次のステップは、科学パネルからの報告やグローバル対話の成果がどのように蓄積され、実際のルールや規範へと結びついていくかにかかっています。

今後は、次回の「グローバル対話」でどのテーマが優先されるのか、また科学パネルが初めて発表する年次報告書にどのような内容が盛り込まれるのかに注目する必要があります。

参考文献

モバイルバージョンを終了