2025年8月、イギリスでは記録的な干ばつが続き、複数地域が「国家的に重大」とされる水不足に直面しています。National Drought Group(NDG)と環境庁(Environment Agency)は、こうした事態を受けて緊急会合を開き、国民に向けた節水呼びかけを強化しました。その中には、庭のホース使用禁止や漏水修理といった従来型の対策に加え、やや異色ともいえる提案──「古いメールや写真を削除することでデータセンターの冷却用水を節約しよう」という呼びかけが含まれていました。
この提案は、発表直後から国内外で大きな反響を呼びました。なぜなら、データセンターの冷却に水が使われていること自体は事実であるものの、個人がメールや写真を削除する行為がどれほどの効果を持つのかについて、専門家や技術者から強い疑問が寄せられたからです。実際、一部の試算では、数万通のメール削除による水の節約量はシャワーを1秒短くするよりも少ないとされています。
さらに、政府は同時期にAI産業振興のための大規模なインフラ投資を発表しており、これらの施設は多くの電力と冷却用水を消費します。このため、市民に象徴的な節水行動を促しながら、裏では水と電力を大量に使うAIデータセンターを推進しているのではないかという批判が高まっています。
本記事では、この一連の出来事を複数の報道をもとに整理し、「メール削除による節水効果の実態」「データセンターにおけるAIの電力・水使用の実態」「AI推進政策と水不足対策の整合性」という3つの観点から議論を深めます。
NDGによる水不足対策と「デジタル片付け」の提案
英国では2025年夏、5つの地域が正式に「干ばつ(drought)」と宣言され、さらに6地域が長期的な乾燥状態にあると認定されました。National Drought Group(NDG)は2025年8月11日に会合を開き、これらの地域における水不足が「国家的に重大(nationally significant)」な問題であると発表しました。
NDG議長であり環境庁(Environment Agency)の水管理ディレクターであるHelen Wakeham氏は、節水のために市民が取れる行動の一例として次のように述べています。
“We can all do our bit to reduce demand and protect the health of our rivers and wildlife – from turning off taps to deleting old emails.”
「私たちは皆、水需要を減らし、川や野生生物の健康を守るためにできることがあります──蛇口を閉めることから、古いメールを削除することまで。」
さらに同氏は、こうした行動は個々では小さくとも「集合的な努力(collective effort)」によって大きな効果をもたらすと強調しました。
“Small changes to our daily routines, when taken together, can make a real difference.”
「日々の習慣に小さな変化を加えることが、積み重なれば本当に大きな違いを生み出します。」
この中で特に注目されたのが、「古いメールや写真を削除する」という“デジタル片付け”です。これは、データセンターの冷却に大量の水が使われているため、保存データを減らせば間接的に水消費を抑制できるという理屈に基づく提案です。
実際、英国政府の公式発表文でも次のように説明されています。
“Deleting old and unnecessary data from the cloud can help reduce the energy and water needed to store and cool servers.”
「クラウドから古く不要なデータを削除することで、サーバーの保存および冷却に必要なエネルギーと水を削減することができます。」
こうした呼びかけは、従来の節水策(ホース使用禁止、漏水修理、雨水利用の推奨など)と並列して示され、市民の「日常的な選択」の一環として組み込まれました。
しかし、この提案は同時に、英国国内外のメディアや専門家から即座に疑問視されることとなります。それは、削除行為による効果の実際の規模が、他の節水行動に比べて極めて小さい可能性が高いからです。この点については次節で詳しく触れます。
専門家からの厳しい批判
NDGと環境庁による「古いメールや写真を削除して節水」という提案は、発表直後から国内外の専門家やメディアによって強く批判されました。批判の焦点は大きく2つ──実際の効果が極めて小さいこと、そして誤ったメッセージが政策全体の信頼を損なう可能性です。
1. 効果の小ささ
データセンターの消費する水は、主にサーバーの冷却に必要な熱対策に使われます。保存データ量が直接的に冷却水の使用量を大きく左右するわけではありません。英国のITアナリスト、Gary Barnett氏は、The Timesの取材に次のように答えています。
“Storing 5GB of data uses around 79 millilitres of water – less than what would be saved by taking one second off a shower.”
「5GBのデータを保存するのに必要な水は約79ミリリットル──これはシャワーの時間を1秒短くするよりも少ない量です。」
さらにBarnett氏は、同じ節水目的であれば他に優先すべき行動があると指摘します。
“Fixing a leaky toilet can save 200 to 400 litres of water a day.”
「漏れているトイレを修理すれば、1日あたり200〜400リットルの水を節約できます。」
つまり、メール削除の節水効果は他の生活習慣改善に比べて桁違いに小さいというのです。
2. 誤ったメッセージのリスク
ブリストル大学の持続可能なITの専門家、Chris Preist教授は、科学的根拠が乏しい提案を政府機関が行うことの危険性を指摘しています。
“If the advice is not evidence-based, it risks undermining the credibility of the Environment Agency’s other messages.”
「助言が証拠に基づかないものであれば、環境庁の他のメッセージの信頼性を損なう危険があります。」
Preist教授は、国民が信頼できるのは「実際に意味のある行動」であり、効果の薄い提案は「象徴的なパフォーマンス」と見なされ、結果的に協力意欲を削ぐ可能性があると述べています。
3. 国外からの皮肉混じりの反応
海外メディアやテクノロジー系サイトも、この提案を取り上げて批判しました。Tom’s Hardwareは記事の中で、データセンターの消費電力や水使用の多くはAIやクラウド計算によるものであり、個人の古いデータ削除は実質的な影響がほぼないと指摘しています。
“The vast majority of data center energy and water consumption comes from running and cooling servers for computation, not from storing your old vacation photos.”
「データセンターのエネルギーと水の消費の大部分は、古い旅行写真を保存することではなく、計算用サーバーの運転と冷却に費やされています。」
こうした批判は、「市民に小さな努力を求める一方で、政府自身が水と電力を大量に消費するAIインフラを推進しているのではないか」という矛盾批判にもつながっていきます。
同時進行するAI推進政策
英国政府は、節水呼びかけとほぼ同じ時期に、AI産業の飛躍的発展を目指す大規模な国家戦略を進めています。これは2025年1月に発表された「AI Opportunities Action Plan」に端を発し、その後も継続的に具体施策が展開されています。
1. 政府の公式ビジョン
首相キア・スターマー氏は発表時、AIを経済成長の柱と位置付け、次のように述べています。
“We will harness the power of artificial intelligence to drive economic growth, improve public services, and ensure Britain leads the world in this new technological era.”
「我々は人工知能の力を活用して経済成長を促進し、公共サービスを改善し、英国がこの新しい技術時代において世界をリードすることを確実にします。」
政府はこれを実現するため、2030年までに公的コンピューティング能力を現在の20倍に拡大する計画を掲げています。
2. インフラ拡張と水・電力需要
発表文では、次のように明記されています。
“We will invest in new supercomputers, expand AI Growth Zones, and remove barriers for data center development.”
「新たなスーパーコンピューターへの投資を行い、AI成長ゾーンを拡大し、データセンター開発の障壁を取り除きます。」
スーパーコンピューターや大規模データセンターは、運用に大量の電力を必要とし、その冷却には膨大な水が使われます。特にAIの学習(トレーニング)は高負荷な計算を長時間行うため、電力消費と冷却需要の双方を押し上げます。また、推論(inference)も利用者数の増加に伴い常時稼働するため、消費は継続的です。
一部の推計では、先進的なAIモデルの学習は1プロジェクトで数百メガワット〜ギガワット級の電力を必要とし、2030年までに世界のAI関連電力需要は現在の数倍になると見込まれています。
3. 民間投資の誘致と規制緩和
計画には、民間投資を誘致し約140億ポンド規模の資金を動員、13,000件超の雇用創出を見込むという項目も含まれています。さらに、データセンター建設における規制緩和が行われることで、新設施設の立地や規模に関する制約が緩くなります。
政府はこれを「技術競争力強化」として推進していますが、同時にそれは地域の電力網や水資源への新たな負荷を意味します。
4. 持続可能性への言及
一応、計画内では持続可能性にも触れています。
“We will ensure that our AI infrastructure is sustainable, energy-efficient, and resilient.”
「我々はAIインフラを持続可能で、省エネかつ強靭なものにします。」
しかし、具体的に水使用の抑制や再生水利用、冷却方式改善などの数値目標は示されておらず、この点が批判の的となっています。
こうして見ると、英国政府は一方で市民に「小さな節水行動」を求めながら、他方では水と電力を大量に消費するAIインフラの拡張を後押ししており、これが「ダブルスタンダード」だと指摘される理由が浮かび上がります。このダブルスタンダード疑惑については、次節で詳しく取り上げます。
ダブルスタンダードの指摘
市民に対しては「古いメールや写真を削除して節水」という象徴的かつ実効性の薄い行動を求める一方で、政府自身はAI産業の大規模推進と、それに伴うデータセンター建設を加速させています。この二重構造が「ダブルスタンダード」だとする批判は、英国国内外で広がっています。
1. メディアによる矛盾指摘
The Vergeは記事の中で、節水呼びかけとAI推進政策の並行について次のように皮肉を交えて報じています。
“At the same time as telling citizens to delete emails to save water, the UK government is actively investing in expanding AI data centers — which consume massive amounts of water and electricity.”
「国民にメール削除で節水を呼びかける一方で、英国政府はAIデータセンター拡張への投資を積極的に進めています──これらは大量の水と電力を消費するのです。」
この一文は、象徴的な市民の節水行動と、政府の大規模インフラ推進が真逆の方向を向いているように見える状況を端的に表しています。
2. 専門家の批判
環境政策の専門家の中には、政策間の整合性を欠くことが持続可能性戦略の信頼性を損なうと警告する声があります。ブリストル大学のChris Preist教授は、前述の批判に加え、こう述べています。
“If governments want citizens to take sustainability seriously, they must lead by example — aligning infrastructure plans with conservation goals.”
「もし政府が国民に持続可能性を真剣に考えてほしいのなら、模範を示さなければなりません──インフラ計画と保全目標を一致させるのです。」
つまり、政府が先に矛盾した行動をとれば、国民の行動変容は望みにくくなります。
3. 政府側の説明不足
政府はAI Opportunities Action Planの中で「持続可能で省エネなAIインフラの整備」をうたっていますが、水使用削減に関する具体的数値目標や実装計画は示していません。そのため、節水施策とAIインフラ拡張の両立がどのように可能なのか、説明不足の状態が続いています。
Tom’s Hardwareも次のように指摘します。
“Without clear commitments to water conservation in AI infrastructure, the advice to delete emails risks appearing as mere greenwashing.”
「AIインフラでの節水に対する明確な約束がなければ、メール削除の呼びかけは単なるグリーンウォッシングに見える危険があります。」
4. 世論への影響
こうした矛盾は、節水や環境保全への市民協力を得る上で逆効果になる可能性があります。政府が「小さな努力」を求めるならば、同時に大規模な水消費源である産業インフラの効率化を先行して実現することが、説得力を高めるためには不可欠です。
このように、ダブルスタンダード批判の背景には「行動とメッセージの不一致」があります。環境政策と産業政策が真に持続可能性の理念で結びつくには、インフラ整備の段階から環境負荷削減策を組み込むことが必須といえるでしょう。
まとめ
今回の「メール削除で節水」という呼びかけとAI推進政策の同時進行は、確かにダブルスタンダードと受け取られかねない構図です。ただし、この矛盾が意図的なものなのか、それとも情報不足によるものなのかは現時点では判断できません。
例えば、政府がデータセンターでの消費電力や水使用の内訳をどこまで正確に把握していたのかは不明です。特にAI関連処理(学習や推論)が占める割合や、それに伴う冷却負荷の詳細が公開されていません。そのため、単純に「削除すれば節水になる」と打ち出したのか、それともAI産業への投資方針は揺るがせず、その負担を国民側に小さくても担ってもらおうとするメッセージなのかはわかりません。この点については、政府からの詳細な説明や技術的な根拠の公表を待つほかないでしょう。
一方で、この問題は水不足だけにとどまりません。CO₂排出量削減とのバランスという視点も重要です。AIの普及は確実に電力消費を増大させており、今後その規模は指数関数的に拡大する可能性があります。仮に全てを持続可能なエネルギーで賄うことが可能だったとしても、異常気象による水不足が冷却プロセスに深刻な影響を及ぼすリスクは残ります。つまり、電力の「質」(再エネ化)と「量」だけでなく、水資源との相乗的な制約条件をどうクリアするかが、AI時代の持続可能性の核心です。
短期的な電力供給策の一つとしては原子力発電が考えられます。原子力はCO₂排出量の点では有利ですが、メルトダウンなどの安全リスクや廃棄物処理の課題を抱えており、単純に「解決策」と呼べるものではありません。また、原子力発電所自体も冷却に大量の水を必要とするため、極端な干ばつ時には稼働制限を受ける事例が他国で報告されています。
結局のところ、AI産業の発展はエネルギー問題と切り離せません。さらに、そのエネルギー利用はCO₂排出量削減目標、水資源の持続可能な利用、そして地域社会や自然環境への影響といった多角的な課題と直結しています。単一の施策や一方的な呼びかけではなく、産業政策と環境政策を統合的に設計し、国民に対してもその背景と理由を透明に説明することが、今後の政策において不可欠だと考えます。
参考文献
- National Drought Group meets to address nationally significant water shortfall
https://www.gov.uk/government/news/national-drought-group-meets-to-address-nationally-significant-water-shortfall - Prime Minister sets out blueprint to turbocharge AI
https://www.gov.uk/government/news/prime-minister-sets-out-blueprint-to-turbocharge-ai - UK government inexplicably tells citizens to delete old emails and pictures to save water during national drought – “data centres require vast amounts of water to cool their systems”
https://www.tomshardware.com/tech-industry/uk-government-inexplicably-tells-citizens-to-delete-old-emails-and-pictures-to-save-water-during-national-drought-data-centres-require-vast-amounts-of-water-to-cool-their-systems - Deleting emails to save water is really, really silly, says expert
https://www.thetimes.co.uk/article/deleting-emails-silly-environment-agency-qsdgh62ps - UK government suggests deleting files to save water
https://www.theverge.com/science/758275/drought-delete-files-email-data-center-water-uk - Hacker News discussion: “UK government tells citizens to delete old emails to save water”
https://news.ycombinator.com/item?id=44877292